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令和四年 小寒

2022年1月5日

冥土の旅

去年今年(こぞことし)

門松は一年塚

小寒_去年今年(こぞことし)、年が明け、寒の入りとなった。

住まうマンションの玄関には一対の門松が飾られている。

毎年、この門松を見るたびに、

門松は 冥土の旅の一里塚
めでたくもあり めでたくもなし

という一休宗純の歌が頭に浮かぶ。

古来日本では戸籍法が確立される明治の初期まで、人の年齢は数え年であった。

正月が来れば、等しく皆ひとつ歳をとった。
門松を立てるたびに、人は歳をとったのである。

正月に門松を迎えるたびに、人はその寿命が尽きるまで、一歩一歩、冥土の旅を歩むのである。
門松は一年の時を刻む、いわば一年塚である。

正月気分に浮かれるのも良いが、齢をひとつ重ねた正月にこそ、おのれの天命が尽きるまで何をなすべきかを考えよと一休宗純は詠んだのだろう。

死生観、〝おのれが死ぬということを忘れるな〟メメントモリである。

昨年、暮れも押し迫った28日に、家人の母上が他界された。
享年83歳であった。

終いの240日

昨年の4月末に、最近ふらついてしょうがないと町場のかかりつけ医に診てもらうと、血液関係の数値が異常ということで、近隣の大学病院を紹介され受診、結果、緊急入院となった。

検査の結果、ステージ4にまで進行していた癌が発見された。
癌は胃から肝臓にまで転移しており、余命は治療して半年、しなければ三ヶ月と宣告された。

ご本人と家族にとっては青天の霹靂の事態だった。

すこぶる活動的だった母上は、癌宣告をされる直前まで毎週のように地域の卓球クラブで試合をし、ブリッジのクラブに参加、年に数度はゴルフコースに出るなど、趣味にスポーツに勤しんでいた矢先のことである。

父上は、二年前に近隣の介護付きの老人ホームに入られているので、マンションの広い部屋に一人で住まわれていた。

癌の治療が始まってからは、歩いて数分の同じ敷地内のマンションの別棟にある家人の住まいに、家人が仕事で出ているとき以外は食事に来られることになった。
食事は、隠居同然の私が料理させていただいた。

4月末から12月末に亡くなるまでの八ヶ月間、色々なお話をさせてもらった。

山口の実家から単身上京して寮生活を送りながら東京女子大の英文科に通ったことや、母上の母上も同様にして東京女子大を卒業したのだと聞いた。
大正と戦後すぐの時代に、娘を地方から単身上京させて大学に通わせるというのは、先進的な思考かつ経済的な大いなる余裕とを共に持ち合わせる家系であることが知れた。

この大学時代に共に寮で過ごした方々とは現在も仲が良く、亡くなるつい二ヶ月前にも毎年恒例となっている寮生の集いが銀座で開かれ、楽しい時間を過ごしたと嬉しそうに話されていた。

大学の英文科を卒業されてからは、英語の能力を活かしてリーダースダイジェスト・ジャパンに勤められたが、程なくして大阪勤務となる父上と結婚されたため退社された。

などのお話を、八ヶ月で都合約二百食、皿にして六百皿ほどを共にしながらお聴きした。

思い返せば、六百皿の中には失敗作も多々ある。
作った当の本人である私が〈これはー〉と思うほど出来の悪いものも黙って召し上がって、最後に「美味しゅうございました」と食事を終わられるのだった。

家人との所作の違いに、つい「育ちが違うのでしょうね」と言ってしまった私に、「そうね。こちらを育てたのは私ですけどね」と仰って、皆で笑いもした。

この食事で一番悔やんでいるのが、倒れられる前日、最後の食事となった〈エビチリ〉に、辛いのが苦手だと承知しながら、誤って豆板醤を入れすぎてしまい、やはりその辛さに料理を結構残されていたことである。

料理の出来に悔いは尽きないが、故人に対しては、悔やむ事よりも、想いを馳せることが大事だと考えるので、勝手ながら料理の失敗も良い想い出としたい。

野巫(やぶ)登場

癌の治療は、ご主人の主治医であったT医師から、そのT医師が長年勤務していた日本で最難関の大学の付属病院(以下、付属病院)を紹介され、治療に通った。
癌を発見した大学病院とは別の病院である。

T主治医の紹介もあり、母上の主治医には付属病院の高名なS院長が当たり、その部下のチーム五名も担当となった。

しかし、これが最適な治療を受けることとなったかというと、さにあらず、内臓外科が専門のS院長は、ステージ4のすでに根治手術ができる状態ではない患者には、さほど興味のないようで、定期的に抗がん剤を投与しながら経過観察をするというものだった。

この時点で、「強い痛みがないことなどから、抗がん剤など無理な治療をせず、このまま様子をみたらどうか」、その際に必要となってくる訪問医療や訪問介護による自宅療養など、抗がん剤治療以外の選択肢は一切提示されなかった。

抗がん剤は、内服の錠剤と点滴の併用から、少し強い点滴、そしてさらに強い点滴と進み、母上の髪は抜け落ちていったが、それでもウイッグを被り、杖など使わずに、ご自分の部屋からこちらの部屋までゆっくり歩いて来られて、食事を召し上がっていた。

最後に自宅で倒れられたのは、朝早くトイレで用を足してベッドに戻ろうとした時で、意識を失い倒れた際に、腰を打ったかして動けなくなってしまっているのを、虫の知らせで部屋を訪れた家人が発見して救急車を呼んだ。

緊急搬送の際、救急隊員と付属病院との間で一悶着あった。
「そちらの病院で抗がん剤治療を受けている患者さんが倒れて動けない状態なので緊急搬送したい」と言う救急隊員に対し、付属病院の救急は「明らかに抗がん剤の影響と認められないのならば、近隣の病院に運んでくれ」と答える。
押し問答の末、主治医のS院長の判断をとなり、これは外来を通して確認してくれとなった。
外来経由でS院長に連絡を取ろうとするも、案の定、高名な外科医であるS院長は彼の得意な手術の真っ最中である。
ようやく院長チームの担当医師のひとりに連絡がつき、付属病院の救急が受け入れることになった時は、救急車が到着してから一時間以上が経過していた。

さらに一時間以上をかけて付属病院に運んで検査したところ、倒れた際に腰の骨を折り、さらに重度の肺炎に罹っていることが判明した。
抗がん剤の治療等々を鑑み、最初から付属病院の救急で受け入れるべき状態であったはずだ。
この付属病院の緊急搬送の顛末が、今回の一連の癌治療に対する病院及びS院長の姿勢を如実に物語る。
外科医としては優秀であられるのだろうが、それ以上に重要であろうこと、患者に寄り添うことのできぬ〝野巫(やぶ)医者〟といえる。

母上は、緊急搬送以降、院内の救命センターのICUに入り、入院から13日目に最終的な延命治療を施す状態である旨の説明が、S院長ではなく担当医のひとりから成され、本人と家族の意向で一般病棟に移った14日目のその夜の22時23分に、家族が見守る中、他界された。

医者に命を預けるな

現在、多くの医師が書物やSNSなどのメディアで、〝できるだけのことをする〟積極的な癌治療は、患者を〝できる限り苦しめる〟とする意見を発信している。

癌と終末医療に関しての書籍を著作されている中村仁一医師は、
「現在では、医学の発達が喧伝され、それに比例して期待が高まった結果、死にかけると病院にやってくるようになりました。そして、そこで施される強制人工栄養や点滴注射や酸素吸入が、本来の死から穏やかさを奪ったのです。それから状況が一転、死が悲惨なものに変貌したのです。病院側としては、入院中の患者を〝餓死〟させるわけにはいきません。そこで、口から充分な栄養が摂取できなくなると、鼻からチューブを差しこんだり、おなかに穴を開けたり、首の根もとから心臓の近くまで針を刺しこんだりして、水分や栄養分を送りこみ、無理にでも生かす方策をとることになります。その結果、患者は寝たきりとなり、関節拘縮(こうしゅく)も起こし〝とこずれ地獄〟を堪能し、頭の方は恍惚境を彷徨する栄誉が与えられずはっきりしているため、たっぷりと恐怖を味わされる羽目になります。四六時中続けられる点滴注射は、どうしても水分が過剰となり、〝溺死〟の状態を招くことになります。餓死は自然死ですが、溺死は不自然な死に方です。不自然な死はつらく、苦しく、過酷なものと推察されます」
と、その著書『医者に命を預けるな/PHP文庫』に記す。

今回の付属病院およびS院長の対応は、手術ができなければ抗がん剤治療による経過観察という従来の癌治療をただ踏襲するだけで、いわばファーストフードのような治療であった。
患者のことを第一に考え、丁寧に寄り添ったものとは到底言い難いものだった。

では、今回、母上の亡くなり方が大変不幸だったかというと、私は決してそうではないと思っている。

八十歳を過ぎても、趣味にスポーツにと活発な生活を楽しみ、末期癌が発見されてからの八ヶ月間も検査入院のみで、食事の制限もなく好きなものを食べ、流石にスポーツはできなかったが、趣味のブリッジのクラブにも参加し、昔の寮生の友人とも旧交を温めることが出来て、最後に倒れてから長期間寝たきりで入院することもなく、二週間たらずで逝くのは理想的な〝逝き方〟ではあるまいか。

私個人としては、抗がん剤治療をしなければ、八ヶ月の間に、もっともっとやりたいことが出来ただろうにと思うが、母上自身は付属病院のS院長のことをとても信頼しており、抗がん剤治療で癌と闘うのだと頑張っておられたので、それはそれで尊重するべきことだろう。

いま家人は母上の日記などを読んでは、さめざめと泣いておる。
私は〈人間、泣くのは、親が死んだ時と財布を落とした時〉と爺さんに教わっているので、思いっきり泣けば良いと、何も言わぬ。

仏教的には、この世は輪廻転生、大変な修行をして解脱をしない限り、魂はまた別の人生を繰り返す。

死は、別の人生への旅立ちであり、また新たな冥土の旅への始まりである。

良寛の「死ぬる時節には死ぬるがよく候」ということである。

編緝子_秋山徹