令和六年 大雪
右近の橘
永遠に香る実
酸っぱい!
大雪_東北や北陸では、そろそろ、積もる雪の重さから木を守る「雪吊り」が始まる季節となったが、例年通り関東以西では雪の〝ゆ〟の字も見えない。
むかし、町や村に色気のなくなるこの季節には、寒椿や山茶花が鮮やかな色を放っていたが、今は原色のネオンである。
小学校の頃、通学路に神社があった。小高い丘の下に配された慎ましやかな鳥居から続く石段を登ると、これまた慎ましやかな境内と社(やしろ)があった。石段と社のまわりの境内以外は、木々が鬱蒼と茂っていた。
この丘は、小学生のいたずら坊主たちには、格好の遊び場であった。
木々の間で隠れん坊や鬼ごっこで遊び、夏には虫を追いかけた。境内で相撲を取っていて、それが本気の殴り合いの喧嘩となり、仲直りをした。
初夏に青々と緑が萌ていた丘は、やがて冬には枯れ葉と落ち葉の茶に染まる。この茶色の世界に、鮮やかな緑の葉と橙色の実から爽やかな香りを放っている木が境内に一本あった。その当時の小学生というのは、食えそうだなと思ったものは、なんでも口にする。ところがその美しくて香りが良く金柑ほどの大きさの果実は、皮が厚く、果肉は酸っぱくて食べられたものではなかった。子供心に、ああこれは観て嗅ぐための木だなと思った。
この木が「橘(たちばな)」である。
橘は、ミカン科ミカン属の常緑小高木で別名をヤマトタチバナ、ニッポンタチバナと呼ぶ、またの別名を「九年母(クネンボ)」ともされるが、これは実際には橘とは別の種類であるらしい。日本原産の柑橘種は、この橘と沖縄のシイクワーサーの二種だけということだ。
初夏に純白色で香の高い小さな五弁の花を枝いっぱいに咲かせ、冬に橙色の実をつける。葉も肉厚で常に緑を保ち艶やかであり、永遠性と神秘性を併せ持つ植物として、古代から不老不死の木とされる。
実際『日本書紀』に「第11代垂仁(すいにん)天皇(三世紀後半から四世紀といわれる)が、常世(とこよ)の国にあるという、非時香菓(ときじくのかぐのみ)と呼ばれる不老不死の霊薬を持ち帰るよう田道間守(たぢまもり)に命ずる。田道間守は、唐、天竺を彷徨ってようやく常世国に至り、非時香菓を日本に持ち帰る。命を受け旅立ってから早十年の月日が経っていた。しかし残念なことに、垂仁天皇は田道間守が帰国する前年に崩御していた。垂仁天皇が田道間守を九年の間待ち続けていたことから、非時香菓を九年母(クネンボ)と呼んだ」という逸話が遺る。『日本書紀』には、この非時香菓こそが橘であると記してある。また、田道間花(たぢまはな)がつまって橘となったという説もあるという。
この逸話は、秦の始皇帝(紀元前三世紀)から、やはり不老不死の薬の探索を命じられた徐福(じょふく)が、アジア諸国を彷徨ったという「徐福伝説」に非常に似通っている。徐福と田道間守の違いは、徐福は大勢の職人などと共に旅をしており、各地で技術指導などを行なって工芸の芽を残している点である。徐福来訪の伝説は日本にもあり、熊野や八丈島にも遺っていて、八丈島では機織りの技術を伝えたといわれており、現在も八丈島の特産として黄八丈銘の着物がある。
いつの世も絶対権力者というものは死に怯え不老不死を乞い願い、家臣に無理難題を命ずるものなのか。家臣にとっては、ほんに迷惑な話である。
橘がよく神社などに植えられているのは、有名な京都御所の紫宸殿前庭の右に植えられた「右近の橘」にあやかって植えられたものである。
「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)=永遠に香っている果実」である橘は、季節の別なく青緑の濃い枝葉が常に美しく生い茂り栄えるため、永遠を連想させ長寿瑞祥の樹として重用された。これに対して、散る花の無情の美を現す桜を左に植え「左近の桜」として対比させた。
これが「右近の橘、左近の桜」の意である。
香りがよい橘は、むかしから菓子の材料として使われ。わが国の菓子の祖、菓子の最上級とされている。非時香菓=橘を持ち帰った田道間守は菓祖(お菓子の神様)として各地の菓祖神社に祀られている。中でも兵庫県豊岡市の果祖神社「中嶋神社」の祭礼「橘花祭(きっかさい)」には、全国の製菓業者が多数参列し、業界の繁栄を祈願する。
また「文化は永遠である」との昭和天皇のお言葉から、文化勲章は常緑の橘を勲章の意匠にしたといわれている。
文化勲章は遠く縁のないものだが、我々の身近で馴染み深いものに橘の姿を見ることができる。それは五百円玉硬貨の裏面にある。裏面の500の数字の上には竹の葉が、両脇に橘の実と葉が描かれているのでご覧あれ。
記憶違い
「橘」だけでも色々あるものだなと筆を置こうとして、ふと、私が小学生のころ駆け回ったあの神社の丘はその後どうなったのか、まだあるのかしらと思い、Google マップで検索してみた。
その場所の表記を見て驚いた。丘は「荒神森古墳」、神社は「浮津島神社」とある。
えっ、あれ古墳だったの。
この古墳についての説明文には「全長68m、前方部幅41m、後円部径41mの墳丘を持つ6世紀中頃の北九州市最大の前方後円墳。曽根古墳群に属する。当時の海岸線の砂丘上に築造されていて、円筒埴輪、形象埴輪(人物)等が見つかっている。前方部2段、後円部3段構造で周濠、周堤を持つ。周堤帯を持つ古墳は市内ではここだけになる。付近に「トントンの森古墳」「カンカンの森古墳」という陪塚(家臣の墓)と思われる古墳があったとされるが、現在は消滅、場所の特定も出来ていない。また、前方部には経津主神を御祭神とする「浮津島神社」の社殿が建っている。」とある。
誰しも経験があると思うが、子供の頃に歩いた道、遊んだ広場・公園が大人になって見ると、こんなにちっぽけな道、こんなにも狭い場所であったのかと驚くことがある。大人とサイズと子供のサイズを考えれば、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、それが、今回の場合は全く逆であった。全長68m、前方部幅41m、後円部径41mである。広い、大きい。画像を見て、鳥居も社も境内も全然慎ましやかではない。私が小学生の頃は既に跡形もなかった陪塚であるが、「トントンの森古墳」「カンカンの森古墳」という名称がなかなか良いではないか。
この場所を走り回り、飛び回っていた小学生の私には決して広く感じなかったということか。元気一杯・闊達であった己の姿を回想し、なんだか嬉しくなってしまった。
実は、高校生の時に、この境内で女生徒と不埒なことをした思い出もあるのだが、それは忘れておくとしよう。
編緝子_秋山徹