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令和七年 大寒

2025年1月20日 ~ 2025年2月2日

散る櫻

陸士第57期

80周忌

大寒_大いに寒くなり、冷気が街を覆い始める季節の始まりである。先週には、早、大雪の報が各地から届いた。能登半島の被災者の方達のご苦労を思うと胸が傷む。

1月11日は、叔父の命日であった。父親の兄にあたる人であるが、亡くなったのは、終戦の年、昭和20(1945)年の1月11日であるので、ちょうど80年前のことである。

私の手元に『散る櫻』という題の約九百頁にわたるハードカバーの書籍がある。非売品である。副題に—陸士第五十七期戦没者記録、とある。これは陸軍士官学校と陸軍航空士官学校第五十七期の同期生のうち戦没者たちの記録集である。

叔父の〝守〟もこの陸軍士官学校第五十七期生であった。前回の祖父さん〝作太郎〟に続き、叔父の〝守〟を、この『散る櫻』を元に偲びたい。

陸軍中尉 秋山守

本書の「発刊の辞」に次のようにある。
—『散る櫻』は同期の英霊784柱の鎮魂の書である。そして又、青春の賦でもある。弱冠二十歳を僅かに越した若者が、国の為、同胞を守る為、南に北に、天に地に、尊い命を捧げた。それは可惜、青春の命であった。我々57期は特攻の期でもある。特攻という必死の「死」を真正面から受け止め、ひたすら純粋に、そして果敢な勇気をもって突き進んだことを覚え知る。特攻という必死の「死」によって、今我々の「生」がある。鎮魂の思いは常に新しく、そして永久に伝えなければならない。

第五十七期士官候補生はまず2,453名が昭和16年4月1日に陸軍予科士官学校(埼玉県朝霞市/振武台)に入校。翌昭和17年7月に同予科を卒業。うち陸軍士官学校(以下陸士)生1,686名は神奈川県座間市の相武台に10分隊10区隊の編成で、陸軍航空士官学校(以下航士)生は埼玉県豊岡の修武台に634名が6中隊4区隊の編成にて入校した。(以下で陸士2-8などとあるのは、陸士在学中第2中隊8区隊所属という意味である)

卒業が航士751名(昭和18年1月7日陸士から120名が転科)が昭和19年3月20日に卒業、陸士1,552名が昭和19年4月20日に卒業し少尉任官ののち夫々配属部隊へ赴任するが、卒業生のうち400名(昭和18年1月の120名とは別)は航空科に転科し、航士へ入校する。叔父もこの400名のうちの一人であった。

叔父は当初、陸士では祖父と同じ砲兵隊の「野重」に属し砲撃に関する尉官の教練を受けていたが、戦況の変化・悪化により、航空隊への転科を選んだものと推測される。また、上層部・大本営も航空科への転科を推奨していた結果でもある。この年、昭和19年10月20日に特別攻撃隊、いわゆる神風特攻隊(以下特攻)が創設されたことを踏まえれば、大本営はこの時点で特攻の隊員の急遽育成を画策していたのだと、昏い気持ちになる。

『散る櫻』では、戦没した場所により「陸上編」「航空編」に別れ、「地上編」には、フィリッピン・ビルマ・中国・沖縄・本土で散った300柱が、「航空編」ではやはり同様の地区別で415柱(うち叔父を含め転科者74柱)このうち特攻の戦死者は110柱に上る。

戦没者のページは、一名一頁で、氏名と遺影、経歴と戦歴、位階勲章、遺族(氏名・住所)、墓地のほか、遺文(留魂録[公のもの]・書簡など)、戦没時の状況、同期生の回想、所属部隊の概要などが掲載されているが、人によって内容は異なる。

叔父〝秋山守〟のページを見てみよう。

秋山守 陸軍中尉
陸士 8-9
予科 5-3
出身校 豊浦中学
本籍 福岡県
生年月日 大正13(1924)年10月25日生まれ
分科 戦闘明野
転科 二次(陸士卒業後転科)
前兵種 野重
区分 殉職
戦没年月日 昭和20年1月11日
【戦歴】
昭和19年4月20日 陸軍士官学校 卒業 陸軍曹長 見習士官
昭和19年4月21日 陸軍航空士官学校 第96期召集尉官操縦学生として入校
昭和19年7月1日 陸軍少尉任官
昭和19年9月26日 明野教導飛行師団 司令部附 第二次乙種学生として入校
昭和20年1月11日 佐野飛行場で編隊機動訓練中、教官機の腹部に接触し、水平錐揉となり墜落、殉職。
位階勲等 陸軍中尉 従7位 勲6等

【戦没時の状況】
秋山君は97戦闘機の分隊戦闘訓練に、その日教官の西本繁春君(航士57期)と離陸し、高度400米で交差旋回を行った際に、秋山機は西本機の下に入り、双方相手機を見失い彼は教官機の腹部に衝突した。秋山機は水平錐揉の状態となって墜落した。奇跡的に秋山君は機体も大破せず、即死を免れたが、操縦桿で腹部を強打して意識不明となった。
学生長の能勢忠典君(陸士6-8)が軍医に同行して、1時間以上かかって大阪陸軍病院に運ぶ途中亡くなった。教官は落下傘降下をして無事であった。御両親が来られて、彼の死を嘆かれたのが、今でも目に浮かぶと能勢君は言う。秋山君は寡黙で人目に立たず、不言実行型の男であった。
同様の事故にあった堀山久生君(陸士2-8)は、「97戦闘機で時速230キロでぶつかり、機首が真下になって墜ちると、外へ出られない。秋山君は水平錐揉だと、機内に吸い寄せられて脱出不能だったのだろう」と語った。

突然の事故死なので、遺文などはない。

1924年10月生まれで1945年1月殉職であるので、20歳4ヶ月での死である。陸士第五十七期には、大正11年から大正13年生まれが同期である。この年齢差は、6年間の陸軍幼年学校から陸士に入った者が大正11年生まれで、旧制中学の5年を終え卒業してからの者が大正12年、叔父のように旧制中学の4年生の時に飛び級で陸士を受験して入校した者が大正13年生まれなのである。

どちらにせよ数え年て21歳から23歳の若人が、そのあたら若い命を散らしたのである。

亡くなる2年前の昭和18年1月11日の叔父の日記がある。

1月11日 月曜日 雨
午前 戦術
戦術の課題出で、多忙になりたり、取締生徒に至りては特に甚だし、余も殆ど白紙にて出せり、区隊にて多忙のため、利己的な行動に流るる者あり。
かかる事にては、戦術の第一の目的たる人格の陶冶にならぬばかりか、互いに品性を下劣にするものなり、人間は欲を忘れねばならぬ。
古より、生命と富と位の要らぬ者は聖人であり、此のうち一つにても忘却出来得る者は英雄豪傑と言われている。
邪念よ去れ、三欲よ去れ、爾して正しき道の欲望を持て。

叔父の歳の三倍も生きてしまった私は、邪念と三欲に塗れ、正しき道の欲望も持たぬ。恥ずかしさと情けなさに頭を抱えるのみである。
次回立春では、陸士57期で特攻戦死した方々の遺書を『散る櫻』から紹介したい。

編緝子_秋山徹