1. HOME
  2. きもの特集
  3. 藍と吉野太夫

藍と吉野太夫

藍にまつわるお噺 其の壱

京の稀代の名妓吉野太夫と灰屋紹益

時に、いや、常にと言うべきか、女の心意気は見事である。特に男の純情に触れた時、女は溢れる慈愛で包み込む。

これは傾城 *1(けいせい)の身でありながら、後世にその名を残した東西二人の名妓と藍のお噺しである。

*1傾城「けいせい」高級遊女の別称、美人・美女を指し、色香に君主が迷い文字通り城を傾ける(国を危うくする)という意味〈大辞林〉

吉野太夫

日本のへそが京から江戸に移りつつあった慶長11年(1606)

三月三日の〝桃の節供〟京都東山は方広寺のあたりに、松田徳子(のりこ)という雛祭にふさわしい美しい女の子が生まれた。

父親は四国の武家で、仕官を求め上洛した浪人のひとりであったという。

後の世に母親と兄妹の記録がないことから、徳子が生まれてすぐに、離別か死別か何がしらの事情により父娘の二人暮らしとなったようである。

その父が、徳子六歳の時に亡くなり、天涯孤独となった娘は京都六条三筋の傾城屋〈妓楼〉「林屋」に預けられる。

主人の林与兵衛は、豊臣秀吉に願いでて、洛中に散らばっていた傾城屋〈遊郭〉を二条柳町に集め遊里を作ったほどの人物で、才智に長け、人望と胆力もある商人だった。

その遊里は、ほどなくして二条柳町では「禁裏(きんり)」に近すぎて畏れ多いということで六条三筋に移る。

その後に六条三筋が、今に知られる「島原」へと移るのは、この話しの後のことである。

徳子は預けられて間も無く「林弥/りんや」という名で、禿(かむろ) *2 として肥前太夫に付いた。大店(おおだな)「林屋」が徳子に屋号の林を与えたことは、この禿に対する与兵衛の期待の大きさが窺われる。

*2禿「かむろ」もしくは「かぶろ」と読み、遊郭において太夫、天神など上級の遊女に使える10歳前後の少女を言い、この禿を経ない遊女を「つき出し」といった。

類稀なる美貌と利発さを備える徳子に、与兵衛は金に糸目を惜しまず教養を身に付けさせた。

徳子も与兵衛の期待にそぐわぬ天賦の才を発揮し「和歌・連歌・俳諧、琴・琵琶・笙、茶道・華道・香道・書道・碁・貝覆い・双六」などを極めた。

下手な大名の姫君も裸足で逃げ出すほどの教養と美貌を身につけて、徳子14歳の時「林屋」稀代の大名跡「二代目吉野太夫」が誕生する。

太夫お披露目のみぎり、出雲松江藩主・堀尾忠晴が化粧代として祝儀千両を用意したという。

本来「太夫」とは位階五位の別称であるが、室町時代以降、芸能に秀でた者に与えられる呼称となり、遊郭の最高位にある者への呼び名ともなった。

宝暦四年(1754)には廃止され、江戸吉原では「花魁」となったが、京都島原、大阪新町ではそのまま呼び名として残った。

太夫は「大名道具」とも呼ばれ、一般庶民はもとより成り上がりの生半(なまなか)な金持ちでは相手にされず、彼女たちの客となるには、富とともに一流の教養人であることが求められたという。

いきおい吉野太夫の贔屓客も、お披露目の祝いをした松江藩主を始めとする大名に始まり、当代一流の文化人、洛中の豪商たちが名を連ねる。

中でも後陽成天皇の皇子で後水尾天皇の実弟、時の関白近衛応山は特に熱心で、たびたび〝身請け〟を申し入れたという。

京都「常照寺」に伝わる吉野太夫 絵

さて、この麗しき吉野太夫と藍がどのように関わるのかというと

それは、寛永八年(1631)八月一日、太夫を身請けした灰屋紹益(はいや・しょうえき)のことである。

灰屋紹益

紹益は、京の豪商「灰屋」の嫡子であるとともに、「にぎはひ草」という随筆などを遺した文人として名を知られるが、注目すべきは、この時、吉野太夫二十六歳に対し紹益二十二歳という年齢である。

紹益が家督を継いだ「灰屋」という屋号は、文字通り灰を扱う商いを営んでいることから呼ばれた。

「灰屋」が扱う〝灰〟は、化学染料が伝えられる明治以前の日本の染色には、〝藍染の藁灰〟〝紫根染の椿灰〟のように媒染剤として必要不可欠なモノであったため大きな需要があった。

この灰を全国規模で大きく扱うことで「灰屋」は巨万の富を築き、京都でも指折りの豪商となった。

しかし、弱冠若星二十二歳の青年が、天皇の実弟・関白と争って太夫を身請けしたというのだから、天晴れというか、その財力に驚かされると同時に、藍染の需要の度合いに圧倒される。

室町時代中期までは、灰の販売を〝禁裏(きんり)〟が独占していたと聞けば、その利権の大きさの程度がわかろうというものだ。

吉野太夫の身請けについて、〝京スズメ〟の間では、「灰屋」が太夫の体と同じ重さの大判小判を支払ったという噂がまことしやかに流れた。

また別の説によれば、林家与兵衛は紹益に「吉野太夫には、これまで充分儲けさせてもろてますさかい、大判一枚でよろしゅおす」と多額の身請金を要求しなかったというのがある。

この与兵衛が身請け金を〝大判一枚〟しか取らなかったというのは話が美しすぎるが、紹益はこの身請けが原因で実家を勘当されているから、あながち間違いではないかもしれない。

いくら豪商の跡取りとはいえ、二十二歳の紹益が莫大な金を自由に払えるとは考え難く、実家の「灰屋」が身請けのため莫大な金を支払った後に勘当するというのは、辻褄が合わないからである。

その後、勘当を許された二人であったが、暮らしぶりは大店の跡取り夫婦という割には質素であり、その中でも二人は、花を愛で、茶を点てて歌を詠み季節を過ごすという風雅な日々を送ったとされる。

また、吉野太夫は日蓮宗の日乾(にちけん)上人に帰依し、上人が開山した鷹峯常照寺に山門(通称吉野門)を寄進した。彼女の墓も同寺にある。

京都鷹峯山「常照寺」

「常照寺」吉野太夫墓所

中国にもその名が伝わったという絶世の美女として贅沢の中に廓暮らしをしながら、身請けされた後は派手な暮らしを嫌い、仏門に帰依し、風流人として夫の灰屋紹益と静かに生きたことは、吉野太夫が洛中の人々から愛された大きな要因となった。

寛永二十年(1643)八月二十五日、身請けから十二年の後に吉野太夫は三十八歳の若さで没する。
紹益は亡き妻を思慕し、吉野太夫の遺灰を酒盃に入れ、夜毎これを呑んだと伝えられる。

「都をば 花なき里と なしにけり 吉野を死出の 山にうつして」灰屋紹益

吉野窓

吉野太夫の愛したものが〝吉野ごのみ〟として、今の世にもいくつか残っている。

吉野窓茶室に設けられた大円の窓であるが、真円ではなく、わずかに下部が直線となっている。これは、仏教、特に禅林では真円は真理の象徴であるが、吉野太夫は、決して完璧とはならぬ己を現すものとしての不完全な円をしつらえたとされる

吉野棚側面に吉野窓を備えたお点前用の棚
吉野間道/太夫のお気に入りだったいう唐渡りの名物裂の柄/現在も帯地の柄として見ることができる
吉野髷/後ろが三つに割れているのが特徴の太夫髷

などがそれである。

そして彼女の命日八月二十五日は〝吉野忌〟として俳諧の秋の季語となっている。

時に苦界は、その世界の特殊性ゆえに、女傑を生み出す。吉野太夫には、京の都人のみならず江戸ッ子も惜しまぬ喝采を贈った

その人気を現すように、吉野太夫の逸話は、井原西鶴によって『好色一代男/五巻・世之介三十五歳の項』で、いくつか引用されている。

山門を寄進し、太夫自身の墓がある常照寺では、毎年四月の第二日曜日に吉野太夫を忍んで「花供養」が行われ、現在も全国から多くの人々が訪れる。

編緝子_秋山徹