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小林亜星 その壱

昭和歌謡_其の七十七

追悼・小林亜星(令和3年5月30日逝去/享年88)──前篇

小林亜星CMソングス・アンソロジー
小林亜星

 

【這い這い】と記憶

いきなりの告白で恐縮ですが、私が健康オタクになったのは、生まれた時から虚弱体質だったからです。御年86になる、介護歴13年のお袋は、いまだに、来年で還暦を迎える、禿げナス頭の息子に嘆きます。

「生まれたばっかりのアンタが年中、熱を出すものだから、お尻に抗生物質の注射を打ちすぎて、それが原因で、【這い這い】が出来なくなっちゃってね」

確かに、ほんのおぼろな記憶の彼方に、銭湯の洗い場にペタリと尻を付いた私が、両足の素早い屈伸と、両手の素早い前後運動によって、結構なスピードで洗い場を動き回る!! あまりの速さのため、お袋が追いかけるのに必死!! 周囲の裸のオバンどもは、ゲラゲラ大笑い!! そんな映像が浮かんでは消えます。

普通なら当然【這い這い】運動を経て、直立の二足歩行に移行する……のが、真っ当な人間の成長なのでしょうが、私は、まるっきり【這い這い】を行わず、いや行えず、が正解でしょうか? 「この子は、一体どうなるのか?」不安でたまらないお袋をよそに、ある日、突然すーっと立ち上がって、見事に歩きだしたそうです。

このエピソードを、私は結構、面白おかしく随所をアレンジしまくりつつ、学生時代はもちろん、社会人になってからも、ちょくちょく呑み屋の酒宴のネタにしたものです。

──ある日、創刊したばかりの雑誌「SPA」の仕事で、当時、主に若いOL層に人気のある「健康系スポット」巡りの、体験ルポを任されましてね。原宿でしたか? オープンしたての『足裏マッサージ』の施術を受けたのですが。

日本語がたどたどしい中国人女性の先生が、私の足の裏を触り始めて間もなく、結構な声量で口走ったのです。
「あなた、這い這いできないネ。ベイビーの頃、這い這いしないで、立っちゃったね」

ビックリしました。「え? なんで先生、知ってるの?」

初対面の先生は、私の生誕後に起きた【生育不順】を、見事に看破したのです。なんでも、私の足の裏には、その証拠がリアルに記録されていて、【這い這い】をせずに二足歩行に入る子供は、「脳の海馬部位が良く鍛えられずに成長するので、将来にわたり記憶系統に難が残ってしまう」……のだと。

ちなみに海馬とは、大脳の側頭葉の、奥深い部分にある左右一対の器官です。形がタツノオトシゴに似ていることから、海馬と名付けられました。人間の記憶中枢の、いわば司令塔みたいな約目です。

「先生、その通り!!」

いやぁ、本音じゃ少しも認めたくない私が自覚する、ある意味、肉体的欠陥ですが、私は子供の頃から「モノ覚え」が、はなはだ悪いのです。これはもう、どうしょうもない事実でして、小学校高学年の時には、ハッキリと「ああ、僕は他の連中よりも記憶が悪い!!」と悟っていました。

中学時代、保健体育の授業中、脳の出来具合(知能指数)を学んだ際、重度の知的障害を【白痴】、中度を【痴愚】、軽度を【魯鈍、愚鈍(軽愚)】と称し、「この分類に入る者は、記憶力の発達が、一般人より明らかに衰えている」などと教師に説かれたのです。
私はえらく不安になり、休み時間に保健室へ駆け込み、「先生、僕はどうやら魯鈍らしいです。どうしましょう?」と悩みを打ち明けたほどでした。

保険教諭の御託宣は、「勝沼クン、落ち着こうね。キミは、保健の授業で学んだ内容から、不安が生じて、自分ももしや?と相談しに来たんだよね。この行動は、どう考えても魯鈍の該当者であり得ないわ。100%の保証は出来ないけれど、たぶん、いや、きっと大丈夫なはずよ。気にしなくても」

とりあえず魯鈍疑惑は払拭されましたが、私の記憶力欠如の認識は、以来、ウン十年、払拭されることなく続きまして、現在、新たに加わった、若年性認知症疑惑と相まって、常に私は「モノを覚えられない!!」苦悩を抱え続けているのです。

私のカミサンがまた、嫌味のごとく、はるかな過去に、ほんの僅かした接さない人であれ、名前も、その時の状況も、ほぼ正確に覚えていられるほど、記憶力の良い人間なものですから、余計に手前のモノ覚えの悪さが際立ちます。

「コマソン(CM音楽)の帝王」の顔

著名人には記憶力の良さを武器になさる方が、結構な数おられましてね。まことに腹立つほど羨ましい存在ですが、先日亡くなった、作曲家の小林亜星も、その1人!! 生前のインタビューやら雑誌のコラムなどに、自分の記憶力の良さを誇るくだりが出てきます。

もっとも彼の生い立ちを眺めりゃ、中学からのお受験組で慶應義塾に潜り込み、そのまま高校、大学と来て、医学部に入学してますから、相当な優等生であることは間違いなく、記憶力の良さも、当然といやぁ当然ですがね。

祖父が医者だったため、父親の厳命で入った医学部だったようですが、はなから本人は医者なんぞになる気など「これっぽっちもなく」て、勝手に経済学部に転部。卒業時に父親に発覚して、親子の縁を絶たれたそうです。

「音楽で飯を喰いたい!!」という願望は、慶応高校時代からうっすら自覚していたようですね。なんたって同級生に〝たまたま〟、シンセサイザー音楽の世界的超の付く第一人者、冨田勲と、クラシック音楽の作曲家として、これまた世界的第一人者の林光の、「2人が揃っていた!!」という事実は、亜星の人生において、あまりにトンデモナイ〝偶然的必然〟でしょうが。

大学時代は学内の音楽サークルに、勉学そっちのけで「のめり込んで」しまい、大学卒業後、一応、大手製紙会社に就職だけは、したらしいですが、数ヶ月で退職。亜星と同じく慶応大出身のクラッシック音楽の作曲家、吉田正に師事します。

当時、民間TV放送局の開局ラッシュと重なり、CM音楽の書き手がいくらでも欲しいという状況下で、亜星の出世作、大手繊維メーカー「レナウン」のコマソン(CMソング)──『ワンサカ娘』(昭和36年制作)の作詞も作曲も担当するのです。これが、お茶の間で大ブレイクします。

♪~プウルサイドに 夏が来りゃ
イェイェイェ イェイ イェイ
イェイェイェイェ!

いいわ

レエナウーン レナウンレナウン
レナウン娘が
オシャレでシックな レナウン娘が

わんさかわんさか わんさかわんさか
イェーイ イェーイ イェイ イェーイ~♪

この楽曲、私も幼い頃にさんざん唄いましたし、今でも、ほぼ歌詞をラストまで覚えていますね。

初代バージョンの歌唱収録は、なんと、ムッシュかまやつこと、かまやつひろしだったんですね。3年後の昭和39年、弘田三枝子の歌唱バージョンが放映され、私が聴いて覚えたのも、たぶん、彼女の歌声でしょう。さらに同年、フレンチ・ポップスのアイドル的存在、シルヴィ・ヴァルタンの歌唱バージョンも放映されたんだそうです。

この楽曲で、みごと当たりを獲った亜星は、コマソンの世界で、そりゃあもう、膨大な数の楽曲を大ブレイクさせました。それまで、コマソンの帝王といえば、「冗談工房」の三木鶏郎でしたが、亜星がその座を奪った恰好でしょう。同時期の作曲家のいずみたくも、コマソンを多数作曲していますが、亜星の比じゃありません。

生涯作曲数は7000とも8000とも言われていますが、コマソンは1つのスポンサーで数曲から数十曲も創るのが通常でしょうし、1曲のメロディはごく短いですからね。先に冥界へ旅立った筒美京平先生の2700曲と比べて、単純に数の大小を 云々できません。

亜星が作曲したコマソンで、私が大好きな楽曲は、『積水ハウス』(昭和45年制作)ですかね。作詞は羽柴秀彦という、冗談みたいな名前の人が担当していますが、亜星の紡ぎ出すメロディと、夢や希望を前向きに捉えられる歌詞内容が、見事にフィットし、私は鼻歌で口ずさむたびに、気持ちがほっこり温かくなるのです。

♪~大きく ふくらむ 夢 夢 夢
かがやく朝の窓 光 光 光
だれでも願ってる 明るい住まい
積水ハウス 積水ハウス~♪

想えば、昭和時代……。TVのブラウン管(液晶パネルではなく!!)の画面に映し出される、CMの映像とメロディの多くは、我が家のごとく、年中貧乏のズンドコ節であっても、嘘でも【明日】に、何かしらの期待めいた情感を運んでくれたものです。

〝こんな〟コマソンもありましたね。覚えていらっしゃいますか? 私も含め、子どもたちが大好きなお菓子、それも甘い甘いキャンディ!!

明治の『チェルシー』のコマソン(昭和46年制作)は、安井かずみ(小柳ルミ子の『わたしの城下町』(昭和46年4月25日発売/作曲:平尾昌晃)ほかの作詞家)の歌詞と、亜星のメロディのコラボだったんですね。今回調べるまで、知りませんでした。

歌唱は、これまた昭和歌謡を代表する、女性フォークデュオのシモンズだったとは!?
♪~なつかしい人に 出逢ったような
やさしい便りが いま届いた
忘れかけていた 幸せ
あなたにも 分けてあげたい
ほら チェルシー
もひとつ チェルシー~♪

シモンズといえば、デビュー曲の『恋人もいないのに』(昭和46年8月5日発売/作詞:落合武司/作曲:西岡たかし)は、レコード売上で60万枚を超える大ヒットを飛ばしましたね。
2人の声のハモりは、抜きん出て〝透き通って〟いました。しっかりした音程といい、もっと売れても良い2人でしたが、当時、女性デュオといえば、先輩格にザ・ピーナッツのご両人が、スター級で居座ってましたから、なかなか活動も難しかった……のでしょうか?

シモンズの歌声は、もっぱらTVCMとしてお茶の間に浸透しました。100曲以上も、吹き込んでいるとは!? これも今回、初めて知りました。

続いでの楽曲は、口ずさむだけで、気持ちが豊かになってしまいそうな、……なんとも〝のどか〟で、開放感が味わえるコマソン。日立グループの、今や社歌のようになっている『日立の樹──この木なんの木』(昭和48年制作/作詞:伊藤アキラ/歌唱:ヒデ夕樹)です。

♪~この木なんの木 気になる木
名前も知らない 木ですから
名前も知らない木になるでしょう

この木なんの木 気になる木
見たこともない 木ですから
見たこともない 花が咲くでしょう
この木なんの木 気になる木
みんなが集まる木ですから
みんなが集まる 実がなるでしょう~♪

ラストに、もう1曲!! これを紹介しないと、当ネットマガジンの主宰者・秋山さんに叱られそうで(笑)。

若い時分の呑んべぇは、たまにしか有りつけない〝高級酒〟だった、サントリーのウヰスキー『オールド(OLD)』のコマソンも、昭和のど真ん中世代の私たちには欠かせません。

♪~dan dan din don shubi da don
ho hey ri dan don yei
dan dan din don shubi da don
ho yei ri dan don~♪

モノホンの外人が唄うスキャット・ソングでしたので、てっきり英語圏じゃ馴染みのある楽曲なんだ、と勝手に信じ込んでいましてね。私もただ出鱈目に、♪~ダンダン シュビィッ ティーラフォ ホゲールナーバー アホォ~♪ と口ずさんでおりました。

亜星が亡くなった後、調べてみりゃ、なんと、この楽曲!! 歌詞もメロディも100%、彼のオリジナルだったんですよ~。これには、大いにたまげました。歌詞はともかく、メロディは、アメリカ音楽の、カントリーウエスタン系の伝統的ソングだ、……と完全に勘違いしていましたねぇ。

この楽曲の初代バージョンの制作は、昭和43年だそうで、小説家の開高健が、まだサントリーの前身、壽屋の宣伝部のコピーライターだった当時、『人間、みな兄弟』というテーマで、コマソンのクリエイションを小林亜星に一任した、という経緯があったそうな。

その際、亜星は、英語のスキャット風の歌詞とメロディを書きました。後に歌詞だけ亜星自身の手で、日本語交じりの内容に書き直され、彼の歌唱のバージョンも、CMで流れたようですね。残念ながら、私は覚えておりません。

ちなみに耳に心地良い、男性外人の歌声は、プロの歌手ではなく、当時、上智大学の教授だったサイラス・モズレーというオッサンだったとか。

サントリー『オールド』のコマソンは、バックに流れるメロディを変えずに、年代ごとに様々なバージョンがありまして……、今回は開高健の、アノ特徴ある〟デカ顔〟が大映しされる動画(昭和54年制作)を貼り付けておきます。

いかにも渋い(渋すぎる!!)声のナレーションは、はて? 数人、思い浮かぶ売れっ子役者の顔が、あるのですがね。はて???
いやぁ、二十世紀の知的文化遺産、開高先生!! 88歳で冥界へ旅立った亜星も同じくですが、昭和時代に活躍した偉人は、皆さん、イイ顔をされてますねぇ。

嗚呼、ナサケナクも齢59になる私は、ただ、無駄にハゲるばかりなり。お粗末!!

(次回、小林亜星「後編」に続く)

 

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

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