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ショーケン 萩原健一

昭和歌謡_其の三十壱

ショーケン死して、元号は令和に

ショーケン

いよいよ、あと一週間足らずで、元号が「令和」に変わります。これから打ち込む文章が、平成時代に皆さまにお送りする最後のコラムになりますね。

だからといって、特段ご用意した、とっておきのネタなどもまったくなく、いつものように、ただダラダラと昭和歌謡がらみのつまらんお話を、気の向くままに垂れ流すしか芸を持ち合わせておりません。

先日、珍しくふと考え込んでしまいました。私は基本的に歌謡曲なら、一部ド演歌などを除き、たいがいの作品は興味の対象でして、わざわざ「昭和歌謡」と銘打ってきたのも、平成時代の歌謡曲、つまりJ-POPSとは、楽曲の創り方や歌手の意識というものが「明らかに違うんだよ」ということが言いたいだけのこと。その線引きを明確にするための方便だったわけです。

平成の世の中も30年でお役御免となり、お次は「令和」だとなりまして、その文言選択のセンスの無さや教養の無さを、いくら私たちが呑み屋で愚痴り、罵倒しようとも、すでに日本国の代表が、北は北海道から南は沖縄まで、われわれ同胞の老若男女の意識、心情などに何一つ寄り添うことなく、勝手に「これにしよう!!」と決めてしまった以上、もはや「あれは間違いだ」とか「やっぱ、別のにしよっか」みたいな状況は、起こり得ないわけですよね。

私が作文を教えている塾の、この春から中学生になる、小生意気な男子生徒が、「新年号について考えること」という題材の作文に、次のような内容を記しました。

彼は「令和」という字面が「まったくピンと来ない」し、「レイの部分の発音が、人によっては聞き取りづらくなるので、縁起が悪い」と断じ、あまつさえ、彼の誕生日が5月12日なので、「その日までに、だれか偉い人が亡くなり、令和が、さらに新しい元号に変わることを、心の底から願います」

私はこれを読み、思わず噴き出しました。「お前、イイ時代に生まれ育って良かったなぁ。はるか昔の日本なら、不敬罪で、即座にボッコボコに殴られるところだ」と、一応、塾講師の立場から、たしなめはしましたが、でも私自身、新元号には少しも心穏やかな気分になれませんでしたし、「新令和天皇が、大正天皇のごとく病気その他で急逝されて、早く別の元号に変わらねぇかなぁ」ぐらいのことは、冗談半分に願ったりもしていましたから、生徒の不敬を責める資格などありゃしません。

それでもまぁ、国民の印象の好悪などお構いなしに、現実問題として、新時代「令和」が始まるわけです。これまでは、昭和歌謡というと、特に説明しなくても、イコール「懐かしのメロディ」という意味であり、イコール「俺たちの青春時代にさんざん聴きまくった楽曲」であり、その感覚は、64年も続いた、長き昭和の世の中に生まれ育った皆さまであれば、言わずもがなもいいところ、暗黙の了解てなやつでございましたが……、

早晩、令和生まれの連中が育ち、シノゴノ生意気なことをヌカしだす年頃にでもなれば、「なんで昭和歌謡なの?」「昭和時代の歌謡曲に、何か意味でもあるの?」という素朴な疑問が湧くのも、いたって当然の成り行きでしょう。

「俺たちがガキの頃、年寄り連中に明治や大正時代の話をされると、自分とはまったく縁のない、えらく大昔のイメージしか沸かなかったのと一緒でさ、令和生まれの連中がデカくなりゃ、昭和時代に生まれ育った俺たちの話なんか、古臭すぎて、日本人としてのリアルな共通認識など、200%、持ち得ないだろうなぁ」

先日、飲み会の場で、1つ年上の友人がそう愚痴りました。「そりゃそうだ」と苦笑しつつ、「ううむ、待てよ」とも思ったのです。

私がガキの時分、明治30年代後半生まれの祖父チャンの語る、関東大震災の体験談は、昭和37年生まれの私にしてみれば、確かに大昔も大昔の感覚で受け止めていましたけれど、でも、当時、おそらく還暦ぐらいだったはずの祖父チャンと、小学校に入ったばかりの私とで「200%、共通認識がなかったか?」といえば、そんなことは、まったくなかったはず。……ということに、ふと気付いたのです。

肥後守

たとえば、すぐ思いつくのは、祖父チャンが折り畳み式の切り出しナイフ、通称〝肥後守〟を用いて、鉛筆を削っていた光景ですかね。今時の過保護なママ友感覚ならば、言語道断「危ないじゃない!!」と叫び、大いに目くじらを立てるでしょうけれど、大阪万博が開催された頃、昭和45年の世の中の〝空気〟では、子供が鉛筆をナイフで削る行為は、取り立てて「危ないじゃない!!」と非難されるに値しませんでした。

実際、私は祖父チャンの目を盗んで〝肥後守〝を持ち出し、学校で使う鉛筆を削ったところ、不器用な性格ゆえ、鉛筆の先を削る前に、自分の親指の爪を半分ほど削り落としてしまい、鮮血の量の多さに泣き出してしまった記憶があります。気配を察して飛んで来た祖父チャンに、えらく叱られましたが、「ナイフを使うな!!」とは言われず、「爪なんてじきに生えてくる。心配するな。ただし、ナイフは正しく使え」と諭され、「コイツには、肥後守はまだ早い」と、私のお袋に、子供でも鉛筆が削りやすい、その頃に流行りだしたボンナイフを買ってやるよう、指示していたようでした。

半世紀ほども歳の離れた、明治生まれの祖父チャンと昭和生まれの孫とが、鉛筆をナイフで削るという行為において、きわめてリアルな共通認識が持てた。この事実は、我が国における文化の移り変わりを考える上で、きわめて重要だと思われます。

いくら元号が明治、大正、昭和、平成、令和……に変わろうとも、時代の推移とともに、首相のオツムの出来が、つるべ落とし的に悪くなろうとも、文部省、文科省を通して、こと教育行政にかかわる高級官僚どもの感覚が、常に〝現場〟と大きく乖離していようとも、生活文化に関わる「何か1つ」でも、昔も今も変わらぬモノがありさえすれば、日本人としての心持ちは、老若男女〝つながる〟気がいたします。

東京は大田区内の、かつて著名作家たちがこぞって移り住んだという、馬込〝文士村〟にほど近いエリアにある、寺小屋そのものというたたずまいの、ちっぽけな塾で、小中高校生たちの文章指導を行うようになって、とても意外だったのは、今時の糞生意気な小学生たちが、全員、筆箱にシャーペンではなく鉛筆を数本、用意していることでした。」

おそらく地域柄もあるでしょうね。馬込には、地元に代々住まわれる方も多く、巷の気配にがさつな印象がありません。塾長に聴けば、どうやら学校の方針として、「中学に上がるまでは、教室内でのシャーペンの使用禁止」が徹底しているとのこと。「だったらウチでも、その方針を踏襲しようかな」と、塾でも生徒たちに鉛筆を削らせています。とっくの昔にお払い箱になったはずの、小型の鉛筆削りが数台、それもすべて〝手回し〟式が常備されている光景は、おおげさにいえば私の子供時代にタイムスリップした感覚をおぼえ、なんとも嬉しい気分になりました。もっとも、シャーペンを使いたがる生徒も数人おりまして、それを認める講師も多いのですが、私の授業だけは、厳しく「シャーペン禁止」を言い渡しました。

ささいなことのようですが、生徒に鉛筆を削らせる時、機器の穴に鉛筆を突っ込み、ハンドルを回し、ガリガリガリ……の音を聴く瞬間、コイツらと私とは〝つながっている〟と感じます。

 元号が令和に変わっても、その現場を仕切るボスの了見次第で、シャーペンと鉛筆の共存は、十分に可能であることを私は悟らされました。

むろん「だったら、他のツールにも」の理屈が、そうは問屋が卸さない現実であることも、通信ツールのめまぐるしい進化をみれば、たちどころにわかります。「たかが電話」に過ぎなかったはずが、今やスマホは全能です。神様です。いまだにガラケーにこだわっている私など、平成キッズにしてみりゃ「一種の病気」だとしか捉えられないようです。

テレビ画面には、昼夜を問わず繰り返し何度も、3つの通信会社それぞれが、高齢者にスマホを勧めるCMが映し出されます。ガラケーを持ち続けることが、そんなに不見識なことなのでしょうか? 私の周りには、頑固にも電話を携帯する行為そのものを拒絶する先輩たちも実在します。「たかが電話」に過ぎぬツールに、あれもこれも役割を担わせること自体、シャブに溺れて「人間やめますか」状態に至るのと同じくらいに〝ヤバイ〟ことなのだと、賢明な皆さまだけでも、イイ加減、そろそろ気付いてもよろしいんじゃないでしょうかね。

「だいいち、イッチョマエの大人が、あのドでかく不格好なブツを、耳に当てて電話をしている姿くらい、滑稽でみっともない光景はねぇだろ?」

ある時、大学のはるか後輩、二十代半ばの駆け出しのライター女史に、こう告げたところ、返ってきたのは「今時まだ、電話を一番便利な通信ツールだと信じ込んでいるなんて、その時点で終わってますよ。先輩、大丈夫ですか?」と、逆に心配される始末。嗚呼、情けなくも、〝つながる〟どころの話じゃありませんでした。

最近、ちょくちょくTV番組のコメンテーターを引き受けている、やたら口の利き方がぞんざいな若手社会評論家が、先日、何かのバラエティ番組で、「世の中の大部分は、スマホがあれば足りちゃうじゃないですか」とほざいた際、私は画面の中の彼に向けて、「アンタはそうもしらんが、俺はまったく足りねぇよ」とつぶやきました。

どれほどスマホの性能が優れても、しょせん、どっかの誰かが作った通信ツールにすぎず、生身の人間のオツムの代用など、出来ようはずがない。この理屈は、たとえプロのトップクラスの将棋指しが、コンピューターの将棋ソフトに負けたとて、変わりません。「そういうことじゃあない!!」……んです。

ふうむ、今回はいったい、何のテーマでこのコラムを書き進めているのやら。……そうだ、「ショーケン死す」でした。

ショーケン

彼より一足先に、「シャキナ・ベイビー」と「ロックン・ロール」が口癖の内田裕也が、樹木希林に無理やり冥界へ連れ去られるがごとく、亡くなりましたね。2人は、風の噂によると、同じロックミュージックの世界に身を置く先輩、後輩でありながら、若い頃によくある仲間内の〝いざこざ〟以降、犬猿の仲だそうですが。

無理に2人を共通項でくくるならば、とっさに「アウトロー」という言葉が浮かびます。アウトロー=OUT+LAW、つまり「法律の外側(はずれ)」で生きる連中=無法者ども……っていうことになりますかね。

想えば昭和歌謡のビッグスターには、アウトローな男女が多く存在しました。いや、表現が逆ですね。アウトローな連中だからこそ、「この世で生きてオマンマを喰う手段として、芸能人をやっている」という方が、昭和時代の私たちの認識として、まっとうです。

しょせん芸能の歴史なんちゅーもんは「河原乞食から始まる」という説明は、長くなるのでやめておきますが、少なくとも私が子供の時分、TV画面の「向こう側」の皆さんと、「こちら側」のわれわれとは、何の共通項もありませんでした。よく「スターは雲の上の人」とあがめる熱烈なファンがおられますが、そういう意味ではなく、芸能人という種族は、われわれ一般大衆の、ごく当たり前な常識や風習など一切をかなぐり捨てた、いわば世捨て人だと、子供心にもそう〝わかって〟いたはずです。

別段、誰にそう教わったわけでもなさそうですから、世の中の感覚自体が、そうだったのでしょう。そして、ここが大事なポイントですが、世捨て人の芸だからこそ、私たちは強く惹かれ、称賛し、愉しませてもらった対価として、お小遣いをはたいてレコード買ったり、ライブに駆けつけたり、したわけです。

昨今コンプライアンスてな、舌を噛みそうな、じつに耳触りな外来語が独り歩きしております。

「芸能人は、一般人以上に、高いコンプライアンスの意識が求められる時代でしょう」

某、元お笑い芸人が真剣な表情で語った時に、コイツ、頭がおかしいんじゃないか!! と、本気で私は呆れてしまいました。一般人以上に法令遵守(コンプライアンス)した連中が、本当に言いたいこと、やりたいことを引っ込め、TVの前のお茶の間の老若男女に、あくまで〝表向き〟のツラをさらして芸を披露したところで、そこに私たちは、何の価値を求めりゃいいのでしょう?

私が、令和の時代になっても、昭和歌謡にこだわる大きな理由は、生来まともな一般生活を営めない、放っておけばブタ箱にぶちこまれてしまいそうな、それこそ「アウトロー」な連中が、「アウトロー」なまま、われわれ素人の与(あずか)り知らぬ世界で身につけた、……そうですねぇ、表現が難しいのですが、ううむ、そうだそうだ、それこそ昭和歌謡の名曲中の名曲!! 鶴田浩二が歌唱した『赤と黒のブルース』(昭和30年発売/作詞:宮川哲夫/作曲:吉田正)の一節、♪~妖しく燃える 地獄の花が~♪ てなやつですよ。そんじょそこらの実体験では、地獄の花は咲き誇りもしないし薫りもしません。たとえそれが徒花(あだばな)だとて、むしろ徒花だからこその、めくるめく美しさに、私たち素人衆は魅せられ続けてきたのです。

ファンがCDを買い漁り、その投票数でライブステージのセンターを決める、などという、どこぞのアイドルもどきの芋の煮っころがしとは、しょせん地金の鍛え方が違います。

前回、ご紹介したディック・ミネもそうでしたし、勝新太郎はもちろん、石原裕次郎も水原弘も村田英雄も梅宮辰夫も、皆さん〝そういう〟お歴々ばかり。コンプライアンスなんて、「おい小僧、寝言もてぇ~がいにしろや!!」ってなもんです。

その主要メンバーの中の、若手の1人、ショーケンこと萩原健一が彼岸へ旅立ちました。享年68の早逝は、難病を抱えていたとはいえ、アウトローそのものだった若き日々に体得した、さまざま〝体に悪いこと〟の毒素が、数十年かけて全身に回った結果でしょう。自業自得と言えるかもしれません。

でも、もったいないなぁ。今の年齢で、ショーケンでなけりゃ演じれない、いくつかの役柄が、私の脳裏をめまぐるしく駆け巡ります。

水谷豊を弟分にして、それこそアウトローな青年役を好演した『傷だらけの天使』(日本テレビ制作/昭和49年10月5日~昭和50年3月29日放映/監督:恩地日出夫、深作欣二、工藤栄一ほか/脚本:市川森一ほか)の続編を、数年前から水谷と画策していたらしき噂を、ネットでキャッチしました。ううむ、観たかったなぁ。

酒も呑まず、タバコも喫らず、目の前をマブイ女が通り過ぎても、見向きもしない。「〝体に悪いこと〟をわざわざ行う意味がわかりません」とほざき、将来の不安に備えて、ひたすら老後の資金を貯めることしか興味のない、今時の若者たちと付き合う虚しさに辟易し、冥界のアウトロー仲間との交遊を求め、とっとと現世をオサラバしたんじゃないですかね。

でもショーケン、隔世遺伝の喩えもあり、来る新時代に生まれ落ちるの令和キッズたちの中に、ひょっとすると、祖父チャンの〝肥後守〟をくすねて怪我をした私のように、貴方たちの文化と何かしらの〝つながり〟を求める輩【も】、現れ出るかも??? しれませんよ。

彼岸への旅路は、そいつらの姿を眺めてからでも、遅くはなかったんじゃないですかねぇ、「兄貴ィ~!!」。……合掌。

 

 

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

 

 

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