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なかにし礼 その四

昭和歌謡_其の七十三

「作詞家・なかにし礼の世界」その4

『涙と雨にぬれて』
裕圭子&ロス・インディオス

『時には娼婦のように』
黒沢年男

「流行歌は常に前衛であるべし」考

前回のコラムに、新婚旅行先の下田のホテルで、裕チャンこと石原裕次郎と運命的な出会いを果たした、……という、なかにし礼の話を書きました。

1年後、ようやく自分でも満足の行く出来の歌詞が仕上がり、なかにしは単身、裕チャン率いる石原プロに持ち込んだ……わけですね。当時の彼の胸中を、安易に想像してみるならば、まさに〝渾身の一曲〝の完成で、相当な気合いが全身 に宿っていたことでしょう。

気合いが入り過ぎてしまったゆえ? この楽曲、歌詞ばかりかメロディも、みずから書き下ろしました。

──いや、【気合い】は関係ないかもしれません。何故なら、じつは彼、知る人ぞ知る、シンガーソングライターなのですよ。学生時代、バイトがてら、都内のシャンソン喫茶で、自分が歌詞を和訳した著名な曲を、ギターの弾き語りで披露 した。とかナントカいう話を、だいぶん昔、なかにしの何かのインタビューで読 んだ記憶があります。

ま、それはさて置き、晴れて、その楽曲=『涙と雨にぬれて』が1966年、裕チャンみずからのプロデュースにて、世に出ることになったのですが……。

当時、ちょうど石原プロから女性歌手を1人、デビューさせる話が持ち上がっ ていたんですね。裕次郎から1字を頂戴した芸名、裕圭子に唄わせる楽曲を探していた、ところだったようです。

なかにしの作品を〝一発〟で気に入った裕チャンでしたが、歌詞の内容(の一 部)が、どうにも新人の女性歌手向きじゃあなかったため、急きょ、同じレコー ド会社の〝ちょいと〟先輩格、後にムード歌謡の名曲『コモエスタ赤坂』を大 ヒットさせる、ロス・インディオスをからめ、デュエット曲として発売されました。

なかにし礼にとっての、記念すべき【処女作】誕生!! シャンソンの訳詞ではない、日本人の歌手が唄う、日本語のオリジナル歌詞です。

♪~涙と雨にぬれて 泣いて別れた二人
肩をふるわせ君は 雨の夜道に消えた

二人は雨の中で 熱いくちづけかわし
ぬれた体をかたく 抱きしめあっていたね

訳も言わずに 君は さようならと 言った
訳も知らずに ぼくは うしろ姿を 見てた

恋のよろこび消えて 悲しみだけが残る
男泣きしてぼくは 涙と雨にぬれた~♪

本家の「裕圭子&ロス・インディオス」版は、残念ながら、さして売れません でしてね^^;。同時期にカバーした「和田弘とマヒナスターズ&田代美代子」版 がヒットする!! という皮肉な【結果】をもたらしました。

正直いうと私、この楽曲は、なかにし礼作品の中で、少しも高く評価できません。理由は、……だって歌詞が、いかにも説明的でしょ。メロディもね。私にとっ て【ムード歌謡といえば】に値する、サビのメロディに必要不可欠!! 胸の奥が モゾモゾとこそばゆくなる感覚が、ほぼ皆無……なんですよ~。

がっかりです、この楽曲には。
でもね、マヒナの人気を借りてか、どうあれ、この楽曲は売れまくり、なかにしの存在を音楽業界に知らしめる、ナイスチャンスとなりました。

シャンソンの訳詞ではない、オリジナルの流行歌の作詞の注文が、次から次へと舞い込むようになり、ふと気付けば彼は、昭和歌謡史に多大な足跡を刻む、大ヒットソング・メーカーの、それも頂点へと、上り詰めて行くのです。

なかにしは、超超売れっ子、多忙きわまりない作詞家稼業の合間、時折、発作のごとく胸中に強く宿る想いというのがありまして。それが「俺をあらゆる束縛、呪縛から解放してくれ!!」だったと、これも、過去の何かのインタビューの中から、はるか昔に拾いました。

あらゆる束縛、呪縛とは何ぞや?

むろん1日24時間という限られた生活空間の中に、「少しもオノレの自意識がフルに解放される余裕がない!!」という、トップクラスの有名人ゆえの〝贅沢な 悩み〟もありましょう。

でも、彼の訴える【束縛、呪縛】は、私生活よりも、むしろ彼が日々モノす、 作詞の内容そのもの、いえ、この際、内容は関係ないはずです。

いくらオノレが自信作を描き上げても、やれ「歌詞の一部の表現が、放送倫理規定に抵触する」、やれ「歌詞の一部の表現が、風紀を紊乱している」、やれ 「歌詞の一部の表現が、明らかに女性を蔑視している」などなど……、今時の流行 り言葉ならば、私が最も忌み嫌う【コンプライアンス】って野暮な化け物ですね。

作品内容のクオリティやセンスとは、まるっきり関係のない、いわば〝ミモフタモナイ〟言いがかりに、他ならぬ、なかにしも相当、ムカッ腹を立てていた…… のだそうです。

彼が、癌を100%「やっつけた!!」と信じ込んでいた頃、……だったと思いますが、NHKのラジオ番組に出演して、彼が信じる『歌謡曲論』を、若い女性アナ ウンサーを相手に、かなり熱く説いているのです。いわく流行歌は「常に前衛で なくてはならない」と。

脳天気な声で、「えー、そうなんですか?」と問い返した女性アナに向かい、「そりゃそうですよ。当たり前の話だよ」と強い口調で言い放ってから、

「いいですか。流行歌の歴史を追いかければ、すぐに理解できますよ。その時代、その時代ね、世の中が移ろう中で、民衆は、日常で抑圧された何かを、常に 歌によって解放されて来たんですね。流行歌こそが、民衆を救うんだな。なのに──」
歌の創り手である、プロの作詞家が、ひたすらオカミ(官憲)の顔色を窺い、 世間(歌の聴き手/リスナー)の顔色を窺い、勝負を賭ける前にリングから遁走するレスラーのごとく、「この程度の作品を書いておきゃあ、問題が起きねぇよ な」という、無難もいいところ、もはや聴くに耐えない「つまらねぇ作品を量産しやがって!!」……私流に、なかにしの【言わんとする】ところをまとめますと、こんな感じになりましょう。

なかにしの代表作『時には娼婦のように』(歌唱:黒沢年男/作詞&作曲:なかにし礼)のシング ルレコード発売は、昭和53年の2月10日です。この楽曲は、敗戦後30数年を経た当時の、平和ボケし過ぎて脳味噌が思考停止しているとしか思えぬ、日本中の老若男女に向けて、彼が、ある意味【逆ギレ】して放った、強烈な屁!! ではないか? と私は感じます。

♪~時には娼婦のように 淫らな女になりな
真赤な口紅つけて 黒い靴下をはいて
大きく脚をひろげて 片眼をつぶってみせな
人さし指で手まねき 私を誘っておくれ

バカバカしい人生より
バカバカしいひとときが
うれしい ムームー ムームー

時には娼婦のように たっぷり汗をながしな
愛する私のために 悲しむ私のために~♪

この楽曲が流行りまくっていた頃、私は中学3年でしたから、歌詞に登場する 【淫らな女】だの【乳房】だの【脚をひろげて】だの……に、ひたすらエロい妄想を掻き立てられるばかりでしたが、
還暦までカウントダウン「あと2つ」に迫る、禿げナス君ともなりゃ、なかにしが、あえて【この程度】の扇情的かつ直截的な表現を用いなければ、クリエー ターとして「終わってしまう!!」という危機意識に襲われていた……だろうこと は、容易に察知できます。

ちなみにこの楽曲、なかにしが、遊び仲間の後輩分でもある、俳優の黒沢年男 に、半ば強制的に【唄わせる】前の年、昭和52年11月1日に発売された、吉田拓郎プロデュース、全曲が「作詞&作曲&歌唱:なかにし礼」というアルバムの、 『マッチ箱の火事』に収録の1曲……でもあります。

なかにしの友人知人、スタッフの誰もが、「これは世の中に出すべきではない」と猛烈に反対される中、拓郎だけが、「これ、イケるよ。面白い!!」と発売 をGOしたんだとか。

『マッチ箱の火事』自体は、さほど話題になりませんでしたが、唯一【これ】 だけは、有線放送のリクエストなどで、じわじわと話題になって……。この世間の 反応を勝機とみた、なかにしは、【これ】をシングル・カットする話を実現させ ようとし、黒沢をじかに口説きまくった、わけでしょう。

当の黒沢は、彼から歌詞を見せられた時、即座に「こんなの、コッ恥ずかしくって、俺に唄えるわけないじゃん!! 他を当たってくれよ~」と、さんざん逃げまくったんだそうですね。

まぁ、当然といやぁ当然でしょう(笑)。

でも結果的に、黒沢の唄う『時には娼婦のように』は、オリコンチャートで最高26位までランクアップされる、黒沢の代表曲、……というより、昔も今(令和3年)も、彼の名詞代わりの1曲!! になりました。

(次回へ続く)

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

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