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田端義夫

昭和歌謡_其の100

「春まだ浅き日々に、還暦ハゲはつらつら想う……」

『梅と兵隊』 by バタヤンこと田端義夫

『プレイバックPart2』 by 山口百恵

『十戒』 by 中森明菜

 

〝爛漫〟から〝怒涛〟〝紅蓮の炎〟

今年の冬は異常に寒かったですねぇ。……と過去形で書きながら、いまだ上州の高崎は、日中はともかく明け方の気温がわずかに「1度」だったりしますから、油断は禁物です。昨夜も湯たんぽは欠かせませんでした。

とはいうものの、3月に入り、少しは春めいてきた感じはしますね。

梅の季節は今が盛りなのでしょうか。となると、桜の開花も〝あっという間〟ですね。民放ワイドショーに生出演していた女性コメンテーターの1人が、思わず「あー、私はまだ年が明けたばっかりの気分なんですけど」と苦笑しておりましたが、……私も同じくです。

TV番組といえば3月4日の朝でしたっけ。たまたまスイッチを入れたテレビ画面に現れた、明らかにオツムがとろそうな風貌の女子アナだか気象予報士だかが、お台場のイベント会場の中継をしていたのですが、おもむろに空を見上げ、「今日は日中の気温も高くなります。まさに春爛漫ですね」と口走ったのです。

私は思わず、結構な声で「はぁ~、爛漫だとぉ?」と叫んでしまいました。よくこういうトンマを平気で生中継に使うな! と呆れて確かめりゃ、……嗚呼やっぱりフジテレビでした(笑)。まともな研修をしているのでしょうか? あり得ないでしょ、〝まだ〟3月になったばかりで、桜の開花も〝これから〟で、どこがどう春が〝爛漫〟しているのか?

こりゃまず間違いなく、トンマ女の意識の中で、ランマンという言葉の響きだけが独り歩きして、何も深く考えもせずに、春といやぁイコール「ランマンね!」しか言葉が思い浮かばないわけですね。マスコミ媒体で日々全国のお茶の間に「言葉を届ける」仕事に従事している、日本語のプロとして、はなはだ不適格! それこそ脳味噌が「爛漫」して「ふやけまくっている!」と言わざるを得ません。

「爛漫」の意味は、①花が満開に咲き乱れているさま。② ひかりかがやくさま。明らかにかがやきあらわれるさま。……となっていて、「春爛漫」にふさわしい季節は4月半ば以降になりましょう。

などと偉そうなことをほざいておりますが、お恥ずかしい話、不肖ワタクシめも学生時代、ゼミ仲間が揃いも揃ってプライドばかりメチャ高いだけ、実質あまりの不勉強、あまりのていたらく……ぶりに業を煮やした教授が、課題として提出させるべき様々なレポートに、どいつもこいつも(もちろん私も!)実に実に安易に慣用句を多用する〝不愉快さ〟について、ある日、ついに限界値を超えたのでしょう、思いっきり雷を落としたのです。

この件については、口腔科ドクターの林との共同創作ネーム、「九十九凜」の作品の1つ『気が付けば箸が持てていた』の冒頭に記しましたので、引用させていただきます。
☆        ☆
私がニチゲイの演劇学科に在籍していた頃、演劇学の権威と言われる教授が、学生のレポートのあまりの下手糞加減に業を煮やし、ある時、眉間に縦皺を寄せつつこう言い放ったのだ。

「出来の悪い物書きは、やたら〝怒涛〟だの〝紅蓮の炎〟だの、馬鹿馬鹿しいほど大仰な表現を使いたがるものだ。が、……諸君、キミらは生まれてこのかた、たったの一度でも、
『猛烈に荒れ狂い、あまりに激しい勢いで押し寄せてくる高波に命の危機を感ずる』ほどの恐怖にあったことがあるか?
『猛烈な寒さのため肉が張り裂け、その毒々しいまでの鮮血の赤は、残酷ながら、周囲の者たちに紅蓮の花を連想させる』……そんな状況に置かれたことがあるか?
怒涛とは読んで字の如く、怒り狂うほど長く連なる涛(おおなみ)を意味するし、紅蓮の炎は元来、仏教の教義における八寒地獄の一つ、紅蓮地獄に因む言葉だ。
もちろん、さまざまな創作表現を目指す諸君にとって、日本語のボキャブラリィは豊富であるに越したことはない。が、…………。
てめぇが過去に一度も、毛ほどにも体感したことがない描写を、臆面もなく垂れ流す破廉恥なる振る舞いは、私の目の黒い間は決して許さねぇ! 刮目して覚悟しやがれ」

そして〝バチン!〟思いっきり、眼の前のスチール製の机を平手で叩いた。
☆       ☆
この教授、ひと昔……いやふた昔? ぐらい前までは、演劇を学ぶ学生で名前を知らぬ輩がいりゃあ「モグリ!」と愚弄されるほどの御仁でしてね。著書も多数です。当時は海外の映画賞の審査員も務めておりましたね。残念ながらわが母校には昔も今も、かように博識ある教授は実在しません。(言い切ったぞ(笑))……ので、決まって他大学に「お願い」して「お呼び」する訳ですね、客員の待遇で。

東京の下町生まれ。生粋の三代続く江戸っ子なため、感情が激すると見事な「べらんめぇ口調」になることを、われわれゼミ学生は初めて知りましたが、普段は最愛の奥様のことを何の衒いもなく「ワイフ」と呼び、身のこなしも服装も実にお洒落なダンディでした。

それにしても、かような教授の口から飛び出た、言うも言ったり「決して許さねぇ! 刮目して覚悟しやがれ」の台詞……。こういう耳に心地よく響く、小気味良いべらんめぇな東京弁の啖呵を、公私ともに私は久しく聴いておりませんですねぇ。

べらんめぇ歌謡

意識を昭和歌謡に転じ、べらんめぇな啖呵が歌詞に織り込まれた楽曲はないかしら? と、……探してみりゃ、みずから歌詞に ♪~大嫌いだぜ 大嫌いだぜ ろくなもんじゃねぇ~♪ と書いて熱唱して大ヒット! だったのが長渕剛の『ろくなもんじゃねぇ』(昭和62年5月25日発売/作曲:長渕剛)ですけれど、まぁ……ブツブツ、私はあまりこのヒトには触れたくないので……ブツブツ、これはここでおしまい。理由は? 興味がある方がおられましたら、お手数でも過去のコラムを御参照願います。

作詞家の阿久悠はタイトルで『勝手にしやがれ~!』と啖呵を切り、ジュリーこと沢田研二に男の身勝手な格好付けと弱さが綯い交ぜになった心情を唄わせて、大ヒットを飛ばしました(昭和52年5月21日発売/作曲:大野克夫)……が、残念ながら歌詞にはべらんめぇな台詞がほんの一言も盛り込まれていません。

そこいくと女性歌手は情動の発露もストレートです。

歌詞の中で「バカにしないでよ~!」と啖呵を切り、「ちょっと待ちなさいよッ、このスットコドッコイ! 今の聴き捨てならないその台詞、もう一度アタシの前でほざいてみやがれ~!」……とばかりに、目の前の阿呆ヅラこいた青二才野郎に迫ったのは、山口百恵の『プレイバックPart2』(昭和53年5月1日発売/作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童)でしたね。

阿木センセイが歌詞に綴った啖呵は、亭主の宇崎の紡ぎ出す、ある種スキャンダルっぽい印象に聴こえる、みごとに〝計算された〟メロディの効果もあり、レコード発売当時、高校生だった私は、……マゾな私は……これを聴くと何故か鼓動が高まって来ましてね。嗚呼、百恵チャンだったら思いっきり罵倒されてもかえって興奮しちゃうなぁ~! なぞと、愚かな妄想を掻き立てられたものです。

♪~緑の中を走り抜けてく 真紅(まっか)なポルシェ
ひとり旅なの 私気ままにハンドル切るの
交差点では隣りの車がミラーこすったと
怒鳴っているから私もついつい大声になる

馬鹿にしないでよ そっちのせいよ
ちょっと待って Play Back, Play Back
今の言葉 Play Back, Play Back

馬鹿にしないでよ そっちのせいよ
これは昨夜の私のセリフ
気分次第で抱くだけ抱いて
女はいつも待ってるなんて

坊や いったい何を教わって来たの
私だって、私だって、疲れるわ~♪

これが中森明菜の『十戒』(昭和59年7月25日発売/作詞:売野雅勇/作曲:高中正義)になると、いやはや、まるで連射砲のごとく立て続けに飛んでくる啖呵の猛襲パンチ! こりゃ凄まじいですよぉ~。なにしろ出だしから、いきなり「愚図ね、カッコつけてるだけでさ!」と恋人らしき屁垂れ野郎をドヤすんですからね。

野郎がハッとした表情をするや否や、アンタは「過保護なのよ!」、「優しいなんつーのは軟弱の代名詞なのよ!」、「さあ、きっちりカタつけなさいよ!」、でないと「アタシはもぉ~~限界!」、「あ~っ、イライラするわぁ、ッたくさ!!」……。ここまでなじられると、さすがに私のマゾの妄想は〝これっぽっち〟も湧きません。

♪~愚図ねカッコつけてるだけで
何もひとりきりじゃできない
過保護すぎたようね
優しさは軟弱さの言い訳なのよ

発破かけたげる さあカタつけてよ
やわな生き方を変えられないかぎり
限界なんだわ 坊やイライラするわ~♪

ふうむ、今回は〝ここまで〟が落語でいうマクラで、実は今の「春は名のみ」の季節にジャストフィットする昭和歌謡の名曲を紹介させていただこうと、……考えていたのですが、なんだか「啖呵歌謡」の紹介だけで、規定枚数が尽きてしまいそうです。

親父の春ソング

無理やり「春ソング」に話を持って来て……。

本格的な「春ソング」が似合う、正真正銘「まさに春爛漫ですね」の日々がやって来るまで、まだおよそひと月以上はありましょう。

でも私はね、暦が3月に変わり、桜の開花がカウントダウンされる日々になると、毎年ついつい気が付きゃ ♪~春は名のみの~♪ と口ずさんでしまう歌があるのです。
あは、皆さんご存知『早春賦』(大正2年発表/作詞:吉丸一昌/作曲:中田章)ですね。
遥か昔から日本人が唄い継いで来た(はずの)唱歌!

♪~春は名のみの 風の寒さや
庭のうぐいす 歌は覚えど
時にあらずと 声をたてず
時にあらずと 声をたてず~♪

でもねぇ、唱歌は当たり前ですが歌謡曲じゃありません。昭和の楽曲でもありませんな。

……という訳でもう1つ、昭和歌謡の全盛期のレジェンドともいうべき大スター、われらがバタヤンこと田端義夫が唄った『梅と兵隊』(昭和15年発売/作詞:南条歌美/作曲:倉若晴生作)も、私の記憶にまとわりつく因縁深き楽曲です。

バタヤンは、舞台に登場すると必ず客席に向かって、大声で「ウォ~ッス!」と挨拶するのと、長年愛用のギターを胸のかなり高い位置に構える……のがトレードマークでしたっけ。

まぁ『梅と兵隊』……これもね、単純に「流行歌かよ?」と問われりゃあ、ううむ、ブツブツ……と私の声は小さくなります。

おまけに、たまに私がカラオケスナックでこれを唄うと、たちまち不愉快になる方がおられて、「おいッ、この店で軍歌はやめろ!」と怒鳴られることも実際あるんですけれど、……断じて言いますが、これは軍歌じゃない! レコード会社のスタッフが戦時体制であることを(嫌々でも)十二分に意識させられつつ制作した、昭和16年発売の「流行歌謡」であります。

ちなみに「軍歌」の定義は、私論ですが、国民の戦意を高揚させる、いわば覚醒剤(シャブ)の如き効用が期待される楽曲である……こと。

昭和12年に始まった日華事変によって、私たちの先祖は誰しも戦時下の息苦しい(生き苦しい)環境に置かれ、昭和16年の12月8日の「真珠湾攻撃」により、同調圧力にきわめて弱い日本人は、軍部が垂れ流すさまざまな思想統括的スローガンに洗脳されるがごとく、「鬼畜米英!」を洟(はな)を垂らした幼子までが竹槍を握って連呼し、『贅沢は敵だ!」、「欲しがりません勝つまでは!」……が当たり前の毎日になりました。

軍部にとって流行歌手は、国民を洗脳するのに恰好な宣伝ツールです。大手のレコード会社各社の経営者は軍部の命令には逆らえず、歌詞の過剰、いやハッキリ異常! ともいうべき検閲を拒めぬまま、♪~いざ来いニミッツ マッカーサー 出て来りゃ地獄に逆落とし~♪ ってな、情緒も糞もないあまりにオゾマシイ文言を、鳥肌が立つほど陽気で軽快なメロディに乗せて、歌謡界のスター連中に片っ端から唄わせたのです。

たまげるのはこの歌詞、戦後のみならず昭和40年代ごろまで、ウン十年もの長きにわたってひたすら音楽文化界の首領(ドン)として君臨し続けた、西條八十が書いてるんですよ~! タイトルは『比島(フィリピンのこと)決戦の歌』。作曲は、これまた西條八十と共に、昭和歌謡の全盛期に威光を放ちまくった古関裕而。

いやぁね、私はこの2人、東条英機と並んでA級戦犯として処刑されるべきだ! と冗談抜きに考えます。実際、東京裁判時にその声も高くなり、怖くなった2人は、姑息にもしばらく表舞台から消えました。与党の糞政治家と一緒です。

2人に関しては、別のコラムで一度、〝ちゃんと〟書きたい! と感じています。

話を戻して……田端義夫。バタヤンは、昭和14年にレコード会社のポリドールからデビューし、持ち前の図抜けて明るく親分肌な性格と、男性歌手にしてはキーが高く伸びやかな歌声で、一躍売れまくります。

デビュー2曲めのシングル『大利根月夜』(作詞:藤田まさと/作曲:長津義司)と、翌15年発売の5枚目シングル『帰り船』(作詞:清水みのる/作曲:倉若晴生)がミリオンセラーの大ヒット! この2つは純然たる「流行歌謡」。……戦時中にも、軍歌以外の〝その手〟の流行歌が軍部に睨まれぬ範囲で制作されていたんですね。

昭和15年のある日、軍部から「バタヤンにも軍歌を唄わせよ!」と命が下ります。ところがレコード会社は困った。他の歌手は素直に軍の要請に従うのに、バタヤンは公演中に観客に向かって「戦争なんて愚かなことはヤメちゃえ!」と言い放って平気なキャラ。淡谷のり子と並んで軍歌を唄うことを頑なに拒んで来たわけです。おまけに国民人気は爆発的なほどですので、バタヤンにヘソを曲げられては会社の売上げにも影響します。

そこで担当プロデューサーは、7枚目のシングルに、軍歌っぽい歌詞ではなく、戦地に赴いた若人が、砲撃のドンパチがまったく無いひとときに、ふわりと梅の花の香りに鼻先をくすぐられて、ふと故郷に残した母親を想う……という、なんともセンチメンタル心情、牧歌的な情景を綴り、メロディもバタヤンが好む、どこか南方の民謡の曲調にも似たテイストにして、「これならバタヤンも喜んで唄ってくれるだろう」……と。

軍部もまだ昭和15年であれば、気持ちにいささかの余裕もありましょう。これが敗戦間近い昭和19年後半や20年に制作されりゃ、たちどころに発禁になるはずです。『梅と兵隊』は晴れて厳しい検閲を擦り抜けてレコードが発売され、翌16年に、これまた大ヒットするのです。

♪~春まだ浅き前線の 古城にかおる梅の花
せめて一輪 母上に
便りに秘めて送ろじゃないか

覚悟を決めた吾が身でも 梅の香むせぶ 春の夜は
戦(いくさ)忘れて ひとときを
語れば戦友(とも)よ 愉快じゃないか

明日出て行く前線で 何(いず)れが華と散ろうとて
武士の誉(ほまれ)じゃ 白梅を
戦闘帽(ぼうし)にさして 行こうじゃないか~♪

この曲の優れたところは、「前線」やら「いずれが花と散ろうとも」という(軍部にヨイショの)文言は入れ込みながら、口ずさむとなぜか戦意高揚の気分が失せて行く。いやバタヤンじゃないが「こんな戦争、愚かだからヤメちゃいなさいよ」という心持ちがふわり、ふわりと、……梅の香とともに湧き上がって来るように感じる点です。

だからこそ『梅と兵隊』は軍歌じゃない! そして……、

極寒の1月30日、芝公園の草むらに野垂れ死んで、はや20年、齢67で彼岸へ渡った親父が生前、愛し続けてきた歌が、まさしくコレでした。

敗戦時10歳。都内大井町の戦火をのがれ、学童疎開で山梨へ避難したため、さいわい空襲のドンパチは経験しないで済んだものの、死ぬまで戦争を猛烈に恨み憎んでいましたね。

私と一緒に行った飲み屋で、その店の名物の「美味しい!」ポテトサラダを頼んでも、親父は一切箸を付けませんでした。戦時中の物資欠乏の中、オカミに喰わされた農林2号とかいう「不味い不味い芋」のトラウマが大きすぎて、「俺は死ぬまで芋のたぐいは喰わん!」の一点張りでしたっけ。

その親父の馴染みのカラオケスナックで、酔いが心地よく回ると、決まって私に「おい、梅を入れろ!」とカラオケの催促でした。梅=『梅と兵隊』。もう1曲、「おい、ボロボロ入れろ!」は内藤やす子の『想い出ぼろぼろ』(昭和51年9月1日発売/作詞:阿木耀子/作曲:宇崎竜童)でしたがね。

私がガキの時分、親父が頻繁に唄うものですから、私の記憶にしっかりと絡みついてしまい…。

ついつい私もお調子に 駅へ向かう道すがらなんぞで、♪~戦(いくさ)忘れて ひとときを 語れば戦友(とも)よ 愉快じゃないか~♪ が口から飛び出す、まだ「春爛漫」にはほど遠い、今日この頃です。

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

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