蚕という名の家畜_参
お蚕さんのお話 其の四
『女化蚕』と白川郷
女化蚕
日本各地には、柳田邦男が『遠野物語』で取り上げたように、四世紀頃に中国東晋の干宝が書いた小説集『捜神記/そうしんき』の馬と蚕(娘)の恋の物語「女化蚕」が伝わったと思われる昔話が、地方によって少しずつ形を変えて残っている。
「昔、ある男が娘と馬をおいて出かけたまま戻らなかった。娘は馬に〝父親を連れ戻してくれれば嫁になってもよい〟と言う。すると馬は本当に父親を連れ戻してくる。
しかし、娘は約束を守らなかった、これに、馬は怒ると同時に娘への思いをつのらせる。
馬の異変に気付いて、事の次第を知った父親は馬を殺してしまう。
馬の皮が剥がされて、庭で乾かされていたところへ娘が近づくと、馬の皮は娘を包んで転がり、どこかへ姿を消す。
父親がやっとのことで見つけ出すと、娘は馬の皮ごと巨大な蚕に、その身を変えていた」
この物語は、地方によっては馬と娘の両想いであったりする。
家屋で飼う重要な家畜として〝馬〟を男に、〝蚕〟を女に見立てて物語は伝播していったのだと思われる。
蚕種を包む紙や、蚕種業を営む企業のマークに馬が描かれていたのは、この名残である。
またこの物語は、東北地方などで「桑の木で作った一対の人形からなる屋内神〝おしら様〟信仰」へとつながった。
「合掌造り」白川郷
かつての日本で、いかに蚕と牛馬が人に近いところにあったかは、世界遺産で有名な、「岐阜の白川郷」や「富山の五箇山」の合掌造りに顕著に見ることができる。
合掌造りの家屋は、屋根が手を合わせた合掌の形状であることや、〝あま〟と呼ばれる何層にも重ねられた屋根裏の構造が特徴的である。
この広い面積を持つ〝あま〟で行われたのが養蚕である。
雪深く、厳しい自然環境の白川郷や五箇山では、農作物に代わる収穫として、養蚕が盛んに行われた。
蚕棚が増やされていくにつれ、屋根裏はどんどん広くなっていった。
また村人は、養蚕で出た〝蚕の糞〟をウドやヨモギと混ぜて[床下]で発酵させ、塩硝を作った。
塩硝は、当時合戦で使われるようになった鉄砲の火薬として重用され、加賀藩に年貢として収められた。
一階では、楮(こうぞ)から和紙を作る作業が行われ、これも名産となった。
また、一階の入口脇には〝まや(厩が短縮されたものか)〟と呼ばれる「牛馬の飼育室」が設けられていた。
豪雪地帯という自然環境と、一階、屋根裏、床下と家屋を無駄なく作業場に活用することを追い求めた結果、あの独特な合唱造りと呼ばれる家屋が形成されたのである。
合掌造りのみならず、養蚕のためにと工夫された家屋は、日本の各地で見ることができる。
こうして育てられた家畜である蚕は、馬や牛とともに、一頭二頭と数えられる。