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フランク永井

昭和歌謡_其の四十九

ヒット歌謡で占う、子年の運勢

『東京カチート』

何かと「お騒がせ!!」な事件や、荒れ狂う自然現象の被害ばかりが目立った、亥年が過ぎ去り、一転2020年は、「チューチュー」「せこせこ」すばしっこい逃げ足ばかりが評価されそうな予感? ……の子年が、本格的に始動しました。

およそ7ヶ月後、猛暑真っ盛りに開催が予定される、史上2度目の『東京オリンピック』を、心の底から、本音でワクワクそわそわ「待ち遠しい!!」と思えるほど、からっきし脳天気な御仁は、不思議なことに、私の周りに〝たった1人〟もいないものですからねぇ。

すでにオリンピック閉幕後に、まず間違いなく訪れるでありましょう、美空ひばり歌唱の『お祭りマンボ』のエンディング同様、♪~いくら泣いても かえらない いくら泣いても あとの祭りよ~♪……の日々に備え、今から気持ちを引き締め、たとえどんな事態が目の前に現れようとも、機を見るに敏な鼠にあやかり、「チューチュー」「せこせこ」と、あらゆる危機およびリスクから、見事に逃げまくって見せましょう!! などと年頭に1人、誓った私です。

もっとも、前回のブログで記しました通り、子年しょっぱなの夢の中で、恐れ多くも神様になってしまった私でございますから、小賢しく「チューチュー」「せこせこ」しまくり過ぎて、うっかり何かの拍子に、「おらは死んじまっただぁ!!」てなことに、なっていないとも限りませんが……。

時の経つのは早いもので、今年は、311(3月11日)の東日本大震災から9年、神戸大震災から25年めの春を迎えます。25年……、お気付きなった方もおられましょう、そうです、神戸(阪神・淡路)大震災は、2つ前(去年を加えると3つ前)の亥年の出来事なのです。加えて、新潟県中越沖地震(マグニチュード6.8、最大震度6強)も、2007年7月16日、〝ちゃんと〟亥年に起きました。

ううむ、やはり暦の占いは当たりますね。まさに猪突猛進、気分次第で暴走しまくるイノシシの被害は絶大でありまして、亥年ごとに日本列島はグラングラン、大きく揺れまくりました。われわれ人間どもは、ただただ右往左往、泣こうが喚(わめ)こうが、必死に歯を喰いしばって耐えるしかない……わけです。

一陽来復いたしまして、では2020年の子年、はたしてわれわれ人間どもは、……いや、あくまで身勝手に私〝だけ〟でも、いささかの怖い想い、嫌な想いは生じるにせよ、命だけはなんとか取り留めつつ、「チューチュー」「せこせこ」、ひたすら安全な場所、安全な場所……を探し続けて大晦日まで、走り続けられるでしょうか?

子年ヒットチャート

はなはだ安易は発想だと、お叱りを受けるのを承知で、過去の子年にヒットした歌謡曲を振り返ることによって、今年1年の運気を占ってみたいと思います。

昭和時代の〟ケツ〟の方から順に、1984年(昭和59年)の、オリコンのヒットチャート「トップ3」は、

1位……『もしも明日が…』(1983年12月21日発売/歌唱:わらべ/作詞:荒木とよひさ/作曲:三木たかし)
・2位……『ワインレッドの心』(1983年11月25日発売/歌唱:安全地帯/作詞:井上陽水/作曲:玉置浩二)
・3位……『Rock’n Rouge』(1984年2月1日発売/歌唱:松田聖子/作詞:松本隆/作曲:呉田軽穂(松任谷由実))

この年、私は22歳、大学4年生でしたっけ。昭和歌謡史の〝流れ〟でいうならば、ニューミュージック全盛時代!!ってことになりますかね。

元来、流行歌は、作詞と作曲、おまけに編曲、それを唄う歌手、それぞれの〝プロ〟の才能の合体で成り立っていたわけですが、1970年代に、吉田拓郎や南こうせつなどの「フォークソング」を唄う歌手が出現すると、すべてのクリエーションを【1人】でこなしてしまう、新しい楽曲制作のスタイルが、ある種のブームを起こします。同時に、シンガーソングライターなどという名称が、世間に認知されだします。」

しかし、この時代はまだ、彼らの活躍は、音楽業界的に限定的でありまして、数あるヒット曲のうち、フォークソングが数曲、混ざって来る程度でした。しかも彼らが唄う楽曲の、歌詞の内容は政治批判、世相批判をベースにしたものが多く、気軽に鼻歌まじりに口ずさめる……ような印象ではありませんでした。

ところが時代も大きく変わり、1980年代に入ると、シンガーソングライターが描く楽曲の〝世界〟も、一気におシャレになりましてね。ポップと表現した方が的確かもしれません。

男性歌手では、安全地帯以外にもアリス、ゴダイゴ、甲斐バンドほか、ロック系のポップスを唄うグループがブレイクし、女性歌手では、渡辺真知子、尾崎亜美、竹内まりやほかの楽曲が、ヒットチャートを独占するばかりか、TVのコマーシャルソングやドラマの主題歌にも選ばれるようになります。拓郎のブームの頃には、考えられない現象です。

続いて1972年の「トップ3」です。

・1位……『女のみち』(1972年5月10日発売/歌唱:宮史郎とぴんからトリオ/作詞:宮史郎/作曲:並木ひろし)
・2位……『瀬戸の花嫁』(1972年4月10日発売/歌唱:小柳ルミ子/作詞:山上路夫/作曲:平尾昌晃)
・3位……『さよならをするために』(1972年2月10日発売/ビリー・バンバン/作詞:石坂浩二/作曲:坂田晃一)

ここまで時代が遡ると、ようやく昭和歌謡っぽいラインナップになりますね。特に『女のみち』の大ヒットは、レコードの売上枚数で換算するなら、400万枚以上!! この記録は、デビューシングルとすると、令和2年の現在において、どんなアイドル歌手もロックミュージシャンも更新できません。

おしまいに、1960年の「トップ3」を……。当時はまだ、オリコンのようなレコードの売り上げを【正確に記録する】会社は存在しませんので、あくまで業界内の〝プライベイト〟な集計によるデータになります。

・1位……『アキラのズンドコ節』(1960年6月1日発売/歌唱:小林旭/作詞:西沢爽/補作曲:遠藤実)
・2位……『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年7月発売/歌唱:赤木圭一郎/作詩:水木かおる/作曲:藤原秀行)
・3位……『誰よりも君を愛す』(1959年12月発売/歌唱:松尾和子&和田弘とマヒナスターズ/作詞:川内康範/作曲:吉田正)

私が生まれる2年前のヒット曲ですけれど、どの楽曲も、歌詞を見なくても唱えてしまいます。幼い頃から、イッチョマエに大人が鼻歌で口ずさむ、さまざまな歌謡曲を、いつの間にか覚えてしまいました。

女性関係には、からきし縁のない57年間でしたが、こと歌に関しては、誰よりもマセておりました。ま、それだけ昭和のど真ん中という時代は、さまざまな歌謡曲のメロディが、巷の風に乗り、幼い私の耳まで届けてくれた証拠……みたいなものですが。

当時の小林旭はすでに、日活の俳優として活躍していましたけれど、正直、〝ピン〟で勝負する起爆剤に欠けておりました。ところが前々年(1958年)、まさに起爆剤そのもの!! 『ダイナマイトが百五十屯』(1958年11月発売/作詞:関沢新一/作曲:船村徹)という楽曲を、レコーディングすると、がらりと状況が変わります。旭にとっては、歌手デビュー2曲めのシングルでしたが、これが大ヒットするんですね。

すると、日活は〝お決まり〟の手法で、同曲をテーマにした、旭の主演映画『二連銃の鉄』(1959年4月公開/監督:阿部豊/原作&脚色:川内康範/共演:南田洋子ほか)を制作します。

これも大ヒットしたため、すぐに7月にもう1本、『爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ』(1959年7月公開/監督:蔵原惟繕/脚本:池田一朗/共演:白木マリ、岡田真澄ほか)も公開され、旭の愛称として、「ダイナマイトが似合う男(ガイ)」という意味で、マイトガイが定着する……わけです。

少し前のコラムにも書かせていただきましたが、小林旭という俳優&歌手は、〝あの〟イカツイ体付き&風貌に似合わず、こと芸能活動に関しては、どんな企画でも「来るモノ拒まず」のところがありましてね。

同時期の大スター・石原裕次郎なら、まず絶対に断るだろうはずの、『ズンドコ節』はもちろん、『ツーレロ節』『ホイホイ節』『まっくろけ節』など……『アキラの○○節』と銘打った楽曲を幾つも吹き込んだばかりか、中には『アキラのラバさん』や『思い出した思い出した』てな珍妙なタイトルの楽曲も、嫌がらずにレコーディングに臨み、不思議なことに、そのほとんどの楽曲を〝そこそこ〟ヒットさせています。

これはもう、楽曲の力というよりも、小林旭自身が醸し出す、明るくポジティブな気質(オーラ)の作用に違いない!! と、冗談抜きに私はそう感じます。

フランク永井『東京カチート』

さて、1960年の子年に流行った楽曲のうち、レコード売り上げ「第8位」ぐらいにランキングされた作品に、フランク永井が歌唱する『東京カチート』があります。

作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正という黄金コンビは、昭和歌謡史における、特にムード歌唱のジャンルで、創る曲、創る曲、の大半を大ヒットに導いた、〝超〟の付く売れっ子クリエーターですね。

フランク永井の放った大ヒット曲のうち、カラオケファンに現在でも愛されているのは、『有楽町で逢いましょう』(1957年発売)や『夜霧の第二国道』(1957年発売)、『東京午前三時』(1957年発売)、『羽田発7時50分」(1958年発売)……あたりでしょうか。このすべての楽曲の、作詞は佐伯先生、作曲は吉田先生なのです。

『東京カチート』は、上記4曲に比べると、現在、あまり皆さん、唄われないようですが、歌詞がなかなかシャレています。東京のど真ん中、神田区(現在の千代田区)出身、早稲田大学でフランス文学を学んだインテリ系〝お坊ちゃん〟の佐伯先生が、お得意とする世界観なのでしょう。

♪~赤い灯(ひ)がつく 赤坂タウン 甘く流れる夜の色
  恋にゃ泣いたが カチートよ カクテルグラスにからませた
  あの娘(こ)の白い指 白い指
  霧に濡れてる 赤坂タウン ミッド・ナイトのカーニバル
  もしもあの娘が カチートよ この僕 愛してくれるなら
  踊って離さない 離さない
  好きになっては いけないかい 僕の可愛い相棒よ
  東京カチート カチート カチート~♪

 

1960年の子年といえば、敗戦後の貧困や苦悩などが、いつの間にか日本人の生理から消え去り、高度経済成長の波に乗り始めた……あたりでしょうかね。銀座や赤坂という都会の歓楽街の、夜のネオンが色とりどり、文字通りに目眩(くるめ)く輝いた時代です。

歌詞に飛び交う、さまざまな【横文字】が、酒に酔いしれる客の〝浮いた〟心理を象徴しています。ちなみにカチートとは、スペイン語で「可愛い坊や」という意味だそうで。

つまり、この楽曲は、赤坂の、どこぞの酒場で知り合った女に、惚れてしまった【僕】が、その想いを、まだ本人に「告(コク)る」ことも叶わず、悶々と1人、グラスの酒を傾けながら、自分の中に住まう【分身】にだけ、「好きになっても構わないよな?」と語りかける……、そんなドラマが描かれているんですね。

当時の〝赤坂タウン〟は、酒場のいたるところで、同様の光景が見受けられたはずです。私たち世代からすると、皮肉抜きに羨ましい時代です。

いや、今時の若者たちに言わせりゃ、1980年前後の、われわれが学生時代を謳歌した(と勝手に思われている)、ディスコが流行りに流行った時代も、「腹が立つほど羨ましい!!」そうですが、それは妄想というものです。時代に少しも〝乗れない〟輩だって、私も含めてかなりの数、実在しましたからね。

この年より干支が5回巡って……今年、2020年の子年の赤坂界隈は、呆れるほどに、まったくもって当時の面影など、綺麗サッパリ消えてなくなりました。

もはや、お情け程度の、ほんの僅かな【残り香】すら残っておりません。特に東京メトロ銀座線&丸ノ内線の、赤坂見附駅付近の豹変ぶりは、犯罪的ですらありましてね。駅前で華やかなネオンを誇る店は、カクテルグラスが似合う酒場などではなく、庶民たらしいドラッグストアの数々です。

「ビッグカメラ・ドラッグ」に「マツモトキヨシ」に「スギ薬局」に「ダイコクドラッグ」に「ファミリーマート未来フレンドリードラッグ」……。いつから〝あの〟周辺の皆さんは、そんなに病弱になったんですかね? 某ドラッグストアの前は、パチンコ屋でしたっけ。

嗚呼、どこにも赤坂らしきシャレた【空気】なんて、流れておりません。私が生まれ育った、場末街・蒲田の駅前の風景と、なんら変わりません。政治家の深夜の密談にも使われた、老舗の料亭『金龍』も、去年の3月31日にクローズしましたし……。

今年も、オリンピック閉幕後、続々と昔なじみの【懐かしい】店が潰れるでしょう。生き残れるのは、ドラッグストア以外に、中国資本の各種店舗か、「生ビール1杯198円」の安酒場のたぐいばかりでしょうね。

そんな赤坂なんて、いや日本なんて、「一刻も早くオサラバしたい!!」と強く願う御仁も多くいらっしゃいましょうが、どっこい私は、子年にふさわしく「チューチュー」「せこせこ」……自分の居場所だけを探し求め、世の中の悪辣なまでのネガティブな【空気】から、ひたすら逃げまくる所存です。

 

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

 

 

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