蚕の吐く糸_弐
お蚕さんのお話 其の七
養蚕業が活況になった訳
風穴
全頁「タネからアリまで」で、蚕種から蟻蚕の誕生までを辿った。
今回は、明治中期以降に日本の蚕種・養蚕業が活況になった二つの要因を紹介する。
蚕種の孵化を人工的にコントロール
そもそも蚕は、自然の摂理に従えば、産卵された後休眠に入り、そのまま冬を越して翌春に孵化する春蚕となる。そのため長い間養蚕は、春期二ヶ月間程度の季節労働であった。
しかし、農家にとって春期は農繁期であり、養蚕に充分な手間をかけられないこと、また、短期間のために広い作業場・施設を確保することも効率が悪かった。
「春ほど忙しくない夏や初秋の農閑期に養蚕ができたら」人はこの願いを叶えるために、蚕の孵化を人為的にコントロールすることを考え出した。
それは、蚕の卵(蚕種)が孵化するのに必要とする、冬から春にかけての温度変化を人工的に作り出すことであった。
この方法は、まず休眠中の蚕種を一定期間冷暗所で保存し冬を感じさせる。
次に常温に戻すと、蚕種は温かさを感じて〝春が来た〟と勘違いして孵化を始めるというものであった。
これによって翌年の春を待つことなく、その年の夏や初秋に蚕種を孵化させ、養蚕を営むことができるようになった。
現在〝冬〟を作り出す冷暗所は冷蔵庫で、〝春〟を感じさせるには温かい塩酸に浸すことで、より計算された温度変化をつけて、孵化の時期を細かくコントロールできるようになっている。
しかし、電気の普及していない冷蔵庫のない時代に、冷暗所はどうしていたのか、明治の人々はこれに〝風穴〟を利用した。
風穴は、山腹•渓間などにあって、夏季に冷たい風を吹き出す洞穴であるが、蚕種業で全国的に有名なのが、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」を構成している中のひとつ群馬県下仁田町の「荒船風穴」である。
荒船風穴の中は、夏でも二度前後の冷風が吹き出す。これを利用して、明治末から大正時代には、日本一の貯蔵能力(110万枚)を誇る蚕種貯蔵所として、 全国2府32県から蚕種の冷蔵依託を引き受けてきた。蚕種が生み付けられた紙を蚕種紙と呼び、この蚕種紙を木箱に入れ、冷気の中で 貯蔵した。
荒船風穴には三基の貯蔵所跡があり、今でも冷風が吹き出している。現在は、地下構造にあたる石積部分が残るのみだが、かつては、土蔵式の建物が石積みを覆うように建っており、地下二階、地上一階の三層構造になっていた。
これにより夏場でも、急激な 温度変化を与えずに蚕種紙を出し入れすることが可能であった。荒船風穴は、電気による冷蔵が普及した昭和10年頃には、その役目を終える。(群馬県発行資料より)
品種改良
良い蚕とは、フシの無い長い糸をたくさん吐き出す丈夫な蚕である。
この蚕を作るために、長い年月の間、蚕を交配させて人は品種改良を試みてきたが、明治の後期に日本で飛躍的な発展を遂げることになる。
1905(明治38)年、国立原蚕種製造所の外山亀太郎博士は、それまで植物で実験されていた〈メンデルの法則〉を、初めて動物である蚕の原種同士を掛け合わせることで証明してみせ、欧米の研究者を驚かせた。
〈メンデルの法則〉は、メンデルがエンドウの交配実験から明らかにした遺伝の法則で、異なった原種を交配すると、第一代雑種では各親の優れた性質が強まり、劣っている性質は弱くなるという〝優劣の法則〟雑種を掛け合わせる第二代では優•劣の性質の割合が三対一で現れるという〝分離の法則〟異なる性質が二つ以上あってもそれぞれ独立して遺伝するという〝独立の法則〟の三つからなるものである。
生物の姿・形・性質は、DNA(デオキシリボ酸)の上にある〝遺伝子〟によって決まり、このDNAは、細胞分裂する時に集まって〝染色体〟を形成している。
染色体の数は、生物の種によってそれぞれ決まっていて、蚕の場合は28対となっている。遺伝子は染色体の決まった場所にあり、遺伝子に放射能を当てて、場所を移動させて組み替えることにより、性質を変えた生物を誕生させることが出来る。蚕は特に放射能に強く、7000マイクロシーベルトを浴びても大丈夫だという。
現在、糸繭を作る蚕は日本種と中国種の交雑種が多い。日本種と中国種の交雑は、両親の系統に比べて成長速度・大きさ・生存率・生産性などが勝れていて、これを〝雑種強勢〟と呼ぶ。日本種どうしや中国種どうしの交雑は、お互いの系統が近いので雑種強勢があまり出ない。
大正時代以降からは日欧や中欧などの交雑種も飼育されるようになり、更に糸繭の生産性が上がった。
大日本蚕糸会の蚕業技術研究所では、様々な性質を持つ蚕の開発が進められている。
なかでも主任研究員の大沼昭夫博士が、世界で初めてオスだけを孵化させて糸繭を作ることを成功させた蚕〝プラチナボーイ〟が有名であるが、玉繭を作りやすいように改良した蚕や、桑以外の餌を食べる広食性の蚕などが生まれている。