日野美歌&江利チエミ
昭和歌謡_其の113
「春爛漫の今宵……、振られ女の独り酔い」
わかるわぁ、この気持ち!
お袋のところで購読している東京新聞に、歌手の日野美歌のコラムが載っていました。おっ! 日野美歌、懐かしいじゃん。……とつぶやきつつ、即座に思い浮かべる歌は、『氷雨』(作詞&作曲』とまりれん/編曲:高田弘)でしょうね。というより、他にありません(笑)。
今回は、……ようやく春爛漫の暖かさが訪れ、ゴールデンウイークの観光気分まで「もう少し」の、この時期に、へそ曲がりな私は、まったく季節外れな、この楽曲の話をさせていただきましょう。
日野美歌が大ヒットを飛ばした『氷雨』が発売されたのは、昭和57年の12月5日です。これは彼女のデビュー2枚目のシングル曲でありまして、いきなりドカ~ン! と50万枚以上のレコード(CD)が売れたこともあり、
翌年(昭和58年)大晦日のNHK紅白歌合戦に初出場するとともに、一躍、日野美歌は若手女性の人気歌手の1人! に数えられるまでになりました。
令和の今でも、昭和時代のムード歌謡の定番ソングとして、多くのカラオケファンに愛されていますし、私も時折、ちょいと仄暗い気分に合わせて唄います。
♪~飲ませて下さい もう少し
今夜は帰らない 帰りたくない
誰が待つと言うの あの部屋で
そうよ誰もいないわ 今では
唄わないで下さい その歌は
別れたあの人を 想い出すから
飲めばやけに 涙もろくなる
こんな私 許して下さい
外は冬の雨まだやまぬ この胸を濡らすように
傘がないわけじゃないけれど 帰りたくない
もっと酔う程に飲んで あの人を忘れたいから~♪
さして日野美歌に興味がない方でも、サビの部分ぐらいは「あー、アレね!」と、思わず口ずさまれたり、……されましょう。
私も『氷雨』を唄いますけれど、カラオケのリモコン機器(デンモク)で楽曲検索する際、日野美歌バージョンは選びません。
この歌の本家、佳山明生に仁義を切って、……などと格好付ける訳じゃありませんが、日野美歌バージョンですとキーが合わないのと、彼の楽曲アレンジの方が唄いやすいという理由で、必ず佳山明生のデビュー曲である『氷雨』(編曲:竜崎孝路)を選ぶのです。
実は『氷雨』は、日野美歌がTVの歌謡番組に出まくって、♪~飲ませて 下さい もう少し~♪ と熱唱を重ねる……よりも5年前、昭和52年12月に、新人歌手・佳山明生のために書かれたオリジナル曲なんですね。歌詞の世界観も、どうやら彼みずから提案したような? ことがネットに書かれています。
残念ながら少しも売れませんでした。でもスタッフは諦めなかったのでしょうね。3年後の昭和55年3月に、ジャケットの写真を替えて再発売し、翌、昭和56年12月に再々発売し、さらに翌、昭和57年7月にも再々々発売……。こんな短期間に、何度もジャケ写を替えまくって同じ曲を売り直すことって、昭和歌謡の長い歴史の中でも、ほとんど例を見ないはずです。……でも、嗚呼やっぱり売れなかった。
その3ヶ月後、『熱海の夜』&『抱擁』のヒット曲を2つ飛ばした箱崎晋一郎が、『氷雨』(編曲は佳山と同じ)をカバー発売したんですね。……これも、さほど売れなかった。
ところがその2ヶ月後、日野美歌が『氷雨』をカバー発売したところ、何故か? というか、奇跡的! というか、急激に売れちゃうんですね。
すると連鎖反応的に、元祖『氷雨』の佳山明生バージョンも売れまくった……のです。それまで何度、発売を繰り返しても売れなかったのに、日野のブレイクに助けられる格好で、まぁ便乗的に売れたんですね。皮肉なことに、まるで彼女の『氷雨』を、佳山がカバーしたがごとくに。
おかげで佳山明生は、〝そこそこ〟有名歌手の仲間入りを果たしました! けれど、よほどの歌謡マニアじゃないと、令和の現在、彼のことは名前すら知らないでしょうね。
そこへ行くと日野美歌……。女は強しという訳でもないでしょうが、『氷雨』の一発屋でありながら、カラオケファンには、昔も今も『氷雨』といやぁ日野美歌! という、かなり決定的な認知が出来上がっています。
改めて佳山、箱崎、日野、3人の『氷雨』を聴き比べてみますと、まぁ、私の好みを押し付けるのも恐縮ですが、高田弘がアレンジした日野バージョンよりも、やっぱり竜崎孝路がアレンジした佳山&箱崎バージョンを【買い】ますけれどね。皆さん、どう思われます?
どうして日野美歌の『氷雨』だけに、急に火がついたのでしょうね? これが事務所の力というならば、納得もしますけれど、特段、大手事務所に所属していたわけでもないような? 感じです。ホント、よぉわかりません。
上記のような経緯が、この曲には絡んでますから、そりゃ当然ながら、佳山と日野との間に、何かしら軋轢のようなものが存在したんじゃなかろうか? と下衆の勘繰りをしてしまいます。実際、当時の週刊誌の幾つかに、「『氷雨』大ヒットにまつわる、大人の事情!?」とかナントカ、記事が載りましたね。
さて、ここで歌詞の内容について。
この曲は、恋人に振られた女が、酒場の片隅で1人、酒を呑んで酔いどれながら、店のマスターにぽつり、ぽつり、……と、実際そんなの、話したところでどうにもならん。かえって自分が惨めになるんじゃね? という愚痴をこぼす……。そんな光景が浮かびますね。
私は、『氷雨』が流行りだした頃、TVやラジオの歌謡番組やら商店街に流れる有線放送やらで、♪~飲ませて下さい~♪ を耳にして、すぐに、あー、この曲って、江利チエミの『酒場にて』(昭和49年9月25日発売/作詞:山上路夫/作曲:鈴木邦彦/編曲:高田弘)と同じじゃん! と感じました。
♪~好きでお酒を 飲んじゃいないわ
家にひとり帰る時が こわい私よ
あのドアを開けてみたって
あなたはいない
暗い闇が私を 待ってるだけよ
また長い夜をどうして すごしましょう
愛の香りも 消えたあの部屋~♪
編曲の担当が、日野美歌バージョンの『氷雨』と同じく高田弘、……というのも、はて偶然なのか? 必然なのか? 奇妙な一致です。
和歌の世界に「本歌取り」というのが、ありますよね。過去に公表された、世間的に【かなり著名】である作品(本歌)にインスパイア(影響)されて、本歌の主題(テーマ)と同種の作品を創作する! ことですが、昭和歌謡の世界でも、けっこうな数「本歌取り」が行われます。
最愛だった恋人にフラれ、もっとヒドけりゃ捨てられ、おそらくは恋人と通っただろう、馴染みの呑み屋のカウンターの片隅に1人、ぽつんと座って酔いどれる……訳ですね。
まぁ、決して珍しくない、昨夜も今宵も、きっと明日の晩も、全国いたるところの呑み屋で見受けられる、ごくごく【よくある】シチュエーションではありますが。
最初は生ビールですかね。中ジョッキで1杯か2杯……、お次は甘い酎ハイかサワー? いや日本酒と行きますか。2合徳利が1本、2本……、アルコールの回りも、このぐらいの時間になると結構なもんで、知らず、酔いに任せて愚痴がこぼれますわねぇ。
「私だってさ、好きでこの店で1人、呑んでるわけじゃないわよ。ウチに帰ったって、あの人はもういないんだもん。日が暮れると、1人の部屋って真っ暗じゃん。だから……ふらっとこの店にね。いいでしょ、マスター(大将)の邪魔なんかしないから。このさ、カウンターの隅でさ、1人で静かに呑んでるだけなんだから……。だからさぁ、ね? お願い! 少しぐらい私の話を聴いてくれたって、いいじゃ~ん。意地悪なこと言わないでよ~。私だってさぁ、ツライんだかンね。泣きたいくらいツライんだかンね」
……とかナントカ。
そんな、ありきたりといやぁ、ありきたりながら、でも「わかるわぁ、この気持ち!」という、世代を超えて大いなる共感を呼ぶ、リアルな「女ごころ」を、超売れっ子の作詞家・山上路夫は、すでに大スター歌手である江利チエミのために書き、念願通り大ヒットした。
一方……、同じ「女ごころ」を、ほぼ聞き慣れぬ名前の作詞家・とまりれんは、新人歌手としてデビューするはずの佳山明生のために書いた。でも売れなかったために、気がつきゃ他のレコード会社の箱崎晋一郎や日野美歌にカバーされたら、なんとまぁ、ようやく日野美歌でズドーン! と売れて世の中に広まった。……ということになりましょう。
三人娘
せっかくだから江利チエミについても、説明しておきますね。敗戦後の芸能界で大ブレイクするのが、美空ひばりと江利チエミです。デビューはひばりの方が早いですが、2人とも昭和12年生まれで、揃って「天才少女」と呼ばれました。
もう1人、同じく昭和12年生まれの「天才少女」、雪村いずみを加えて、仲良しコヨシの【三人娘】として、その深い絆は、チエミが45歳、ひばりが52歳、で早逝するまで続きました。
(※この動画は、昭和30年11月1日公開の東宝映画『ジャンケン娘』(監督:杉江敏男/脚本:八田尚之)の1シーン。三人娘が揃って出演した最初の映画)
(※もう1本、これはかなり貴重ですね。NHKの映像ですが、「ひばりの25周年記念」というのだから昭和49年当時の3人の歌声になりましょうか。……この中で、チエミがさかんに親友のひばりのことを「きさんが」と呼ぶんですね。「きさん」は、無理に漢字を使うならば「貴さん」…。「貴様」の「様」が平易に「さん」になった、と。東京弁ですね。下町の言葉です。決して侮蔑の呼称じゃありません。相手への情愛を込めての、れっきとした敬称です。いやぁ、それにしても「きさん」は懐かしいなぁ。その昔、私が育った蒲田あたりでも、ちょちょく飲み屋で「おい、きさん、聴いとけよ」「なんだよ、いきなり改まって」……てな会話が成り立ってましたっけ)
14歳のチエミがレコーディングした、アメリカンポップスのカバー曲、A面『テネシーワルツ』/B面『家へおいでよ』のシングルは、翌年(昭和27年)1月23日に発売されると、瞬く間に23万枚の大ヒット! 続く『ツゥー・ヤング』も15万枚もレコードが売れました。
キングレコードのスタッフは、レコードジャケットや全国レコード店に貼る宣伝ポスターに、「14歳の天才少女」というキャッチフレーズを載せようとしたんですって。しかしチエミの誕生日は1月11日。すでに15歳になってます。勝ち気で正義感も強い彼女は、「アタシ、嘘をつくのは絶対に嫌!」……断固として抗議し、スタッフも不承不承、14歳を15歳に修正した、という逸話があるそうです。しかし……、まぁ同じ「天才少女」でも、この1歳違いの印象は、インパクトの強さという点で大きく異なりますね^^;。
台東区下谷生まれのチエミの実家は、チエミの母親が浅草レビューの女優ダンサー、父親が柳家三亀松の専属三味線弾き&ピアノ弾き、という芸能の血筋でしたが、チエミが小学生の後半、父親が三亀松を〝しくじって〟職を失った、……ために、
チエミはあくまで「家計を支えるため」に、12歳の頃から、陸軍師範学校出の兄貴をマネージャーにして進駐軍のキャンプを巡る……。ブロークンながら意外に達者な英語を使いこなしつつ、ジャズやポップスのヒット曲を片っ端から唄いまくった、そうです。
さほど美人じゃないけれど、ちっちゃな背丈のこまっしゃくれた少女が、大柄な軍人どもの前でも少しも怖気づかず、イッチョマエに振り付きで洋楽を唄う。たちまち話題を呼び、それが日本の芸能関係者の耳にも入って……という経緯。
デビュー曲の『テネシーワルツ』は、本家のパティ・ペイジと比べちゃあ、そりゃ野暮でござんす、……がね。でも歌詞の英語と日本語のコラボが、実にジャストフィット! でありまして、私も大好きな1曲です。
昭和30年代当時の日本の音楽事情では、たとえレコード会社でさえ、欧米で流行っている歌謡曲のデータを、リアルタイムに把握するのが難しかったようですね。そのため、特にアメリカで人気の楽曲は、ポップスだろうがロックだろうがカントリーだろうが、はなはだ乱暴に、ざっくりまとめて「ジャズ」として扱ってたんですね。
その流れでチエミは、敗戦後の昭和20年代の流行歌手の顔ぶれの中で、最年少で「本格的にジャズが唄える!」存在として、瞬く間に全国のお茶の間に、顔も歌声も知れ渡りました。
チエミに負けじと三人娘の1人、いずみも「ジャズのカバー」曲を唄ってデビューし、たちまち大ヒット。以降、次々と「ジャズのカバー」を発売し、幾曲もヒットさせます。
この「ジャズのカバー」については、昭和歌謡の長い歴史の中で、けっこう重要なアイテムですので、改めて別の機会に書かせていただきましょう。
さて……、三人娘の皆さんは、今考えりゃ相当に凄い!ことですが、3人が3人とも昭和20年代後期、十代半ばのお年頃にして、いきなり売れっ子の「少女歌手」としてブレイクします。そしてその勢いは昭和30年代、40年代になっても、いささかも衰えず、超のつく大スター芸能人として、常にマスメディアの中心で活躍し続けます。
ところが私生活になると、途端に【闇】の部分が色濃くにじみ出す……んですね^^;。
ひばりは、終生、父親代わりだった山口組の三代目組長、田岡一雄や、その舎弟分だった実弟のかとう哲也ほか、ヤクザ者たちとの「切れない関係」が、たびたびゴシップ週刊誌の記事に載りましたし、
チエミは、まだ〝当てる〟前の高倉健に、かなり執拗に求愛され続けたこともあり、晴れて結婚しましたが、〝それ〟を契機にして、疫病神に取り憑かれたがごとく、あらゆる不幸が彼女にまとわりつきました。
母親の不倫、身内(と信じていた者)の裏切り、高倉の心変わり、地獄のような孤独、自分の知らぬ間に実印を持ち出され、莫大な借金の連帯保証人にされちまう、などなど……、そんな憂さをまぎらすために、人知れず浴びるように酒を呑み、終(つい)には、風邪薬代わりに呑んだウイスキーの牛乳割りで悪酔いし、嘔吐物を気管に詰まらせての窒息死。享年45ですよ~。嗚呼、なんとも哀れな最期でした。
〝そんな〟チエミの後半生の日常と、『酒場にて』の歌詞内容……。嫌でもオーバーラップさせたくなりますやねぇ。皮肉なことにこの曲は、久々の大ヒットを飛ばします。
一説によると、日頃からチエミと親しいレコード会社の幹部や、作詞家の山上路夫と作曲家の鈴木邦彦が、「久々にチエミにヒット曲を飛ばしてもらい、その印税で、莫大な借金を少しでも早く完済させてやろう!」てな〝プロジェクト〟として、『酒場にて』を制作した、……そうですが。
ある音楽評論家は、「でもね、この曲、歌詞の内容に比してメロディは、意外なほどアップテンポだろ。チャキチャキの江戸っ子だったチエミは、『酒場にて』を、親友の美空ひばりの『悲しい酒』のように、決して陰々滅々、お涙頂戴には唄わない! 私生活はどうあれ、そこがチエミの信条なんだな。役者としてサザエさんを演じたり、コメディタッチで売った人だもの、最期の最期まで、自分を愛してくれるファンのため、サービス精神に徹する人生だったんだね」……てなことを語っています。
そんな背景を踏まえつつ、改めて、チエミ本人が歌唱している動画をご覧下さい。
(↑本人の歌唱動画です)
勝沼紳一 Shinichi Katsunuma
古典落語と昭和歌謡を愛し、月イチで『昭和歌謡を愛する会』を主催する文筆家。官能作家【花園乱】として著書多数。現在、某学習塾で文章指導の講師。