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ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

昭和歌謡_其の112

「昭和歌謡は、あらゆる夾雑物(きょうざつぶつ)のコミューン」

『スモーキンブギ』
by ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

『あなた』
by 小坂明子

麻疹の罹り方

  コロナ禍の、馬鹿馬鹿しいまでのスッタモンダ騒動が、ようやく皆さんの記憶から遠のき始めた、……と思いきや、令和6年の春は、麻疹(はしか)が、東京や大阪ほか都市部を中心に〝流行〟している! んだそうで。

3月半ば現在、民放TV各社の朝のワイドショーでも、連日、このネタを採り上げております。

前回のコラムに私は、クドカンこと宮藤官九郎がオリジナル脚本を書いている、阿部サダヲ主演のドラマ『不適切にもほどがある』を絡めさせてもらいましたが、まさしく「麻疹の感染」という話を、昭和37年生まれで、現在61歳の私が見聞きさせられても、「へぇー」「ふぅーん」……「で?」てな程度のごくごく軽い感覚でしか捉えられません。

いえ、おそらく私のみならず、昭和のど真ん中の時代にガキだったはずの皆さんは、同じ感覚のはずです。「あら、どうして、はしかごときで、そんなに大騒ぎしてるのかしら?」と。

東京都の小池都知事を筆頭に、多くの県知事は、コロナ感染者の「行動歴」を公表する方針を決めたらしいですが、クドカンのドラマ同様、時空転換装置になっている路線バスで、一気に58年ほど過去にさかのぼり、私が3歳児だった昭和40年にタイムトリップしてみれば……、

なんとまぁ、麻疹や水疱瘡(ぼうそう)など「感染力が強い!」はずの病気に対する、受け止め方と言いましょうかね、巷の老若男女の感覚の、あまりの差異に、おったまげるどころか、衝撃がデカすぎて卒倒しかねないでしょうね。

今でもリアルに覚えてますが、当時、国電(現在のJR)蒲田駅から徒歩10数分ほどの距離にある、2階建て〝内階段〟のボロアパートの2階に住んでいた、3歳の紳一少年(私)は、向かい部屋に住まう、1つ年上の、ちょいとデブってる「お兄ちゃん」と毎日仲良く遊んでおりましてね。

ある日、「お兄ちゃん」が、麻疹に感染しました。すると、当時の母親の知恵なんでしょうが、「じゃあウチの子に伝染(うつ)しちゃって!」と私の母親が「お兄ちゃん」の母親に頼んで、〝わざと〟麻疹に感染させちゃうのです。

ウチだけじゃありません。下の階にも幼い子供がいる家庭が2つありまして、その母親も同じく「じゃあウチも、一緒にお願い!」と、「お兄ちゃん」の体内を暴れる、麻疹のウイルスを伝染してもらっちゃうのです。

こうすることで、1つのアパート内の子どもたちは、ほぼ同時に「感染力が強い!」病気を発症することになり、治癒の時期もほぼ一緒……。大概の場合、1週間もすりゃ、すべての部屋の子どもたちは元気になって、また通常通りの生活に戻せるわけです。

水疱瘡も同じく、でしたね。私は小学校1年生の時に、同級生の誰かに伝染されましたが、母親は、すぐに5つ年下の妹に〝わざと〟伝染させました。私の症状はけっこう重たくて、顔に出来たかさぶたが猛烈に痒くて痒くて、無理やり剥がしてしまったため、今でも眉間にその痕跡があります。ところが不思議なことに、妹はかなり軽くて済んだ。同じ病気なのに、どうして、こんなに違うんだろ? と、理不尽な想いに駆られたものです。

ま、それはともかく、昭和時代の人々は、誰に教わったわけでもないでしょうが、こんなゲリラ的な手法で、コロナ禍の中でも、さんざん語られた「自然免疫」というヤツを獲得して、幾つかの「感染力が強い!」病気を上手くやり過ごしつつ、たくましく生き抜いて来ました。

その後、昭和53年には、麻疹ワクチンの予防接種が義務化されまして……。さらに1回だった予防接種が2回になったりして、現在に至る……ようですね。

この原稿を書くにあたって、ネット検索をかけてみますと、多くの小児科の先生が、自然免疫によって麻疹ウイルスの抗体を持つ人、つまり過去に一度でも麻疹にかかったことがある人は、「予防接種よりも抗体が定着しやすく、終生免疫が獲得されるといわれている」……のだとか。

時代が昭和→平成→令和と進むにつれて、特に感染医療の世界では、空気中にふわふわと飛びまくる「感染力が強い!」ウイルスや細菌を、生身の人間の体内に「出来得るかぎり侵入させない!」対策を、アノ手コノ手と考えてくれるわけですが、

申し訳ないけれど、それはあまりに「過保護すぎる!」、「大きなお世話だ!」、「俺のことは放っておいてくれ!」と感じることも、あったりします。

私がガキの時分では当たり前だった、麻疹に対するゲリラ的な手法は、さすがに乱暴すぎる! にしても……、コロナ禍の初期の頃に、どこかの愚かな知事が主張していた「100%ウイルスを撲滅する!」なぞという、専門家が聴いたら噴飯ものの戯言と同じく、

われわれの生活圏内に忍び込んだ、何らかの異物、危険物を、見つけ次第、科学の力で「100%無いことにする!」という発想、思考は、明らかにわれわれ生身の人間が、本来生まれ持っているはずの生理機能、本能、五感やらを脆弱にさせ、衰えさせるだけのことであり、私なんぞは、コレッポッチも有り難みを感じませんね。

水清くして魚棲まずの諺(ことわざ)の通りで、Aという空気の中に、BやCという夾雑物が潜り込んでいるからこそ、世の中のバランスが取れるのであって、人間はれっきとした動物ですから、あまりにキレキレイ過ぎる空気の中じゃ、魚同様、生きて行けるはずもありません。

昨今、SNSの影響もあってか、同じ思考、同じ趣味同士の者だけが集うコミューンが簡単に作りやすくなり、同類同士が醸し出す空気を吸う心地良さ、快楽に溺れんがばかり、【そうでない】他人、自分とは「観る景色が異なる」他人を、受け入れることが「どうしても出来ない!」人々が増えました。

たまたま親しくなった他人が、自分とは明らかに生き方も考え方も趣味も異なるけれど、「でも、俺はコイツの存在は認めるよ!」という、ごく当たり前な許容性、寛容性すらも持ち得ない! そうとしか感じられない老若男女が、ココにもアソコにも、嗚呼ソコにも……いるじゃん、いるじゃん!

というような、実に肌触りが悪い空気が、令和の現在、私たちの日常生活を支配しているような、ね。

息苦しいですねぇ、まったく。

今から半世紀ほど前、私がまだまだガキだった時分は、ホント目の前の空気は自由だったなぁと感じます。スーハースーハー、思いっきり吸いまくっても、なんら身体に異変を感じませんでした。

育った地域がまた、非常識なまでに【お行儀】がよろしくない老若男女の勢揃いでしたから、よけいに、巷に漂う空気の自由さを味わえたのかも? しれませんね。

サザン前と後

 さてさて、そろそろ話を昭和歌謡に移しますが、半世紀前の世の中は、歌謡曲の全盛期とモロかぶりします。

この当時の音楽ビジネスの面白いところは、「これが昭和歌謡だ!」のごとく、何か1つ定まったテーマ性なり、歌詞やメロディの方向性なりが、見事にさっぱり何もない! まったくもって自由! なところでしょうかね。

今聴けば、演歌調、ポップス調、ロック調、アイドル調、フォーク調、民謡調、浪曲調……に分けられるだろう、ありとあらゆる曲調の作品が、それも大ヒット曲ばかりじゃありません。まーったく哀しいほど売れない曲も多々あります。まさしく玉石混交に膨大な数の新曲が発売され、唄いまくる各々の「◯◯調」の歌手が、歌謡番組に〝当たり前〟に出演し、並んで談笑していました。

少なくとも昭和時代のど真ん中において、各レコード会社からシングル版を発売する歌い手は、全員が歌謡曲歌手であり、流行歌手である、という認識を共有していたはずです。

この流れが大きく変わりだすのは、あくまで私論ですが、昭和53年6月25日にサザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』(作詞&作曲:桑田佳祐)を引っさげてデビューし、たちまち大ヒットを飛ばした! これが契機だったと思われます。

サザンのこと、いや桑田の存在については、改めてどこかで詳しく書かせてもらいますが……。

去年、膠原病の悪化により。73歳で急逝された八代亜紀が、生前、BS民放の歌謡番組に出演した際、いみじくも述懐されてましたが、昭和46年にデビューした時、自分は歌謡曲歌手、ないし流行歌手であって、「演歌歌手のつもりなんて、これっぽっちも思ってなかったのよ~」だったそうです。

それが、サザンがデビューした昭和53年の夏以降、急速に変わります。〝そこ〟からの数年間、ニューミュージックというジャンルの歌手が、次から次へとTVの音楽番組に登場し、その楽曲がまた大ヒットしまくりました。

八神純子、庄野真代、五輪真弓、杏里、サーカス、久保田早紀、松原みき、アリス、松山千春(本人はフォーク歌手を自認)などなど、さほど歌謡曲に詳しくない皆さんでも、これらの名前を眺めれば、即座に数名の顔が浮かぶでしょ。

八代亜紀いわく、

「ある時ね、テレビの歌謡番組に出演したら、受け取った台本の、司会者の台詞のところに、『演歌歌手の八代亜紀さん』って書いてあってね。私、びっくりしてプロデューサーに文句を言ったの。『私は演歌歌手じゃないわ』って。『れっきとした歌謡曲歌手よ。歌謡曲の歌手として、プライドを持って歌って来たのよ。すぐに訂正して!』って。でも駄目だったの。ニューミュージック系の歌手とのキャラの違いを、番組で強く打ち出したいから、って。だから『衣装も洋服はやめて下さい』って。『演歌ですから、きものに着替えて下さい』って。せっかくきらびやかな衣装を着てTVに映りたかったのに、急きょ、きものに着替えさせられたのよ。イヤんなっちゃうでしょ」

歌謡曲歌手、流行歌手というコミューンの中に、ある時を境に、にょっこりと、ニューミュージックを唄う歌手が1人、また2人と舞い込んで来まして、

明らかに自分とは曲調も、歌手自身のキャラも、「ちょっと」ないし「かなり」毛色が異なるなぁ、とは感じつつ、「ま、こういうヤツもいてイイんじゃね?」という「太っ腹な空気感」でもって、「ウエルカム、ようこそ!」と迎い入れてみりゃ、軒下を貸したつもりが、あっという間に母屋まで奪い取られ、

昭和歌謡のベテラン歌手たちは、勝手に演歌歌手と決めつけられて、着たくもないのに、きものを着せられて、そのうち世間じゃ「演歌はダサい!」「古い!」の声が高まるにつれ、従来のTVの歌謡番組にも呼ばれる回数が減り、

まだまだ現役バリバリで「唄える!」のに、かつては真っ当に主役だったはずの、NHK紅白歌合戦にも出演「させてもらえない!」という……、甚だおかしな状況に至って久しいですねぇ。

片や、ニューミュージック系の音楽は、平成に入ってJ-ポップスと名称を変えるとともに、従来の歌謡曲の制作システムであった、「歌手、作詞家、作曲家、編曲家の四位一体」が、がらりと変化し、

小室哲哉やら、織田哲郎やら、つんくやら、秋元康やら、一部のメチャ敏腕なプロデューサーの名前ばかりがメディアを通じて突出し、歌手はみな、自分のことをアーチストと呼ばれたがるばかり。

いくら楽曲がミリオンセラーを記録しようが、年配者のほとんどは、オリコンチャートのトップを飾るアーチストとやらの名前も顔も、むろん曲の歌詞もメロディもわかんない。

……結果、いくら大ヒット曲だからって、銭湯の湯船に浸かって好き勝手に唱える歌が、何一つない! ということになってしまった訳です。

サザンが昭和歌謡のコミューンに舞い込んで来る、数年前に、その予兆を感じさせるバンドがデビューしました。宇崎竜童率いるダウン・タウン・ブギウギ・バンドのことですが、……その3曲めが『スモーキング・ブギ』(作詞:新井武士/作曲:宇崎竜童)です。

 


(※この映像は貴重です。曲が発売直後、テレビ神奈川の生番組に出演時)

昭和49年12月5日発売で、私は小学6年生でした。

給食の時間になると、教室のスピーカーから放送部の連中が、DJの真似事をしつつ、当時のヒット歌謡を数曲、流してくれるのですが……。曲のチョイスはあくまで放送部に委ねられていたようでして、教師の口出しは無い! だったはずです。

歌謡曲好きの私は、この時間をかなり楽しみにしていましてね。学校という、ある意味キレイキレイな空気に支配されている教室で、音楽の教科書に載っている〝つまんない〟歌ではなく、巷の大人たちも楽しんでいるような流行歌が聴ける!

ある日、1曲めに小坂明子の大ヒット曲『あなた』(昭和48年12月21日発売/作詞&作曲:小坂明子)がかかりました。私は内心「チェッ」と舌打ちしたのを、今でも覚えています。

 

理由は、あえて書かなくても、お判りの方はお判りだろうと思いますが、歌詞の内容が、あまりに乙女チックかつ、子供心の私にとって「くっだらねぇ夢!」でしかなく、キレイキレイな教室の空気と、まったくもって反吐が出るほどジャストフィットしていたからです。

♪~もしも私が家を建てたなら
小さな家を建てたでしょう
大きな窓と 小さなドアーと
部屋には古い暖炉があるのよ

真赤なバラと白いパンジー
子犬のよこにはあなた あなた
あなたがいてほしい

それが私の夢だったのよ
いとしいあなたは今どこに~♪

(嗚呼、今日の放送は、つまんないなぁ。こんな曲なら、わざわざ教室のスピーカーから流さなくてイイよ)

と溜息をついた、そのすぐ後でした。いきなり激しく素早いエレキギターの演奏が、ガンガン! スピーカーから〝雪崩込んで〟来ましてね。

(おぉーっ! こりゃナンだ!?)

と、即座に感じましたが、それは私の周りの同級たちも同じくで。急にザワザワと騒がしくなりましたね。1人、黒板の脇に置かれたテーブルで、生徒と一緒に給食を食べてた担任教師だけが、明らかに不愉快げな様子です。

そして前奏に引き続き、宇崎が歌唱する以下の歌詞が。

♪~初めて試したタバコが ショート・ピース
親爺のマネして気取って ちょっとポーズ
たちまち目まいがクラクラ メシも喰えず
学生服のポケットに そっとかくす
弁当が済んだら トイレでちょっとふかす
ヤニッコ取るため 歯ブラシ ゴシゴシ

目覚めの一プク 食後の一プク
授業をサボって 喫茶店で一プク
風呂入って一プク クソして一プク
そいでまたベッドで一プク
朝から晩までスモーキンブギ
朝から晩までスモーキンブギ
スーパッドゥ・デ・スモーキンブギ
スーバッバ スーバッバ
スーパッドゥ・デ・スモーキンブギ~♪

いやぁ、この内容は、小学6年生には超絶なまでに刺激的です。〝それ〟だけだって、大げさにいやぁ、ションベンをチビりそうなほど!

加えて、……なにしろ数分前は『あなた』ですからね。

この2曲の大いなるギャップ! まさにキレイキレイな空間に、あまりといやぁあまりの「不適切にもほどがある!」強烈、激烈な夾雑物が1つ、投げ込まれたに等しいでしょう。

同級生のうちで、おそらくは、とっくに【親爺のマネして】【トイレでちょいとふかし】た経験がある男子が数人、意味ありげにニヤついてまして、♪~スーバッバ スーバッバ~♪ のところで、右手の人差指と中指を突き立てて、煙草をふかす真似をする始末。

こりゃ緊急一大事と焦った担任教師が、あわててスピーカーの音量をオフにしようと、立ち上がった……のと、ほぼ同時、スピーカーから聴こえる音楽が、パシッと消えました。

結局、私たち小学生は、宇崎の歌唱を最後まで、自由気ままに楽しむことが叶いませんでした。

ジャスト半世紀前、まったくもって自由! なはずの歌謡曲も、学校という教育現場では、たった1つの夾雑物さえ許容、寛容されず、教師=支配者によって、強制的に排除されるんだな。

まぁ、この思考は、オハズカシながら後付けでしょうね。1

12歳の私は、今以上にヘタレていたでしょうから、こんなロジックは持ち得なかったはずで……。

掛け値のない正直な心持ちとすれば、ただただ「おったまげた!」だけ、……でしょうね。

でも「おったまげ」ながら、じゃあ、この曲は「好きか嫌いか?」と問われれば、少しも嫌いじゃない!

私を「おったまげ」させながら、こ~んな歌謡曲もあることを、『スモーキングブギ』と、数年後の『勝手にシンドバッド』が教えてくれたのです。

 

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

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