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桂銀淑

昭和歌謡_其の二十九

レジェンド(伝説)の条件〈後編〉

『大阪暮色』

前回に引き続いて、「レジェンド歌手」の女性編になります。

桂銀淑

彼女の訃報も、アイ・ジョージ同様、まだ漏れ聞こえて来ませんので、おそらくは生まれ故郷の韓国でご存命なのでしょう。現在57歳。偶然にも私と同い年です。

彼女が日本から、強制的に国外退去させられたのは、2008年5月12日のことでした。彼女の、あの魅力的なハスキーボイスが、TVの歌謡番組などで聴けなくなって、もう10年以上、月日が経ったんですねぇ。早いものです。

最初は、莫大な借金返済を巡る裁判の被告、次は覚醒剤で逮捕。韓国へ強制送還されてからも、詐欺で1回、覚醒剤で3回も逮捕……。

3回めの逮捕の記事が、某新聞の社会面の隅に、ほんの〝ついでに〟という、いかにもあっさりとした筆致で取り上げられているのを知った時、彼女のファンだった私は、ひどくショックを受けました。

昭和歌謡の超ヒットメーカーである、師匠・浜圭介先生に見出され、来日してからレッスンを重ね、流行歌の名曲中の名曲!! 『大阪暮色』(作詞&作曲:浜圭介)でデビューしたのが、1985年7月20日です。

以降、『すずめの涙』(1987年4月22日発売/作詞:荒木とよひさ/作曲:浜圭介)、『酔いどれて』(1989年4月12日発売/作詞:吉岡治/作曲:浜圭介)、『真夜中のシャワー』(1990年6月27日発売/作詞:岡田冨美子、作曲:浜圭介)、『悲しみの訪問者』(1991年7月26日発売/作詞:荒木とよひさ/作曲:三木たかし)、『ベサメムーチョ』(1995年3月29日発売/作詞:FUMIKO/作曲:杉本眞人)ほか……、立て続けにビッグ・ヒットを飛ばし、昭和歌謡史の最晩年に、なくてはならない『レジェンド歌手』の仲間入りを果たしました。

そのキャリアのすべてを棒に振ったのは、まぁ、理屈でいやぁ、彼女自身の性格の弱さゆえ、ということになりましょうが、要は彼女の稼ぎに、親類縁者を含め大勢の〝知人〟どもが、えげつなく群がったわけですよ。

そしてそれは、1996年、桂自身が「納得のいくコンサート活動をするため」という名目で、デビュー以来所属していた第一プロダクションという、かつて業界大手だった事務所(2017年に解散)を退社し、独立したあたりから始まります。この独立劇も、彼女の意志ではなく、側近の誰かの小賢しい入れ知恵だったのでは? あくまで私の推理に過ぎませんが。

とにかく――、それまでは芸能マネージメントのプロ中のプロが、彼女の音楽活動を支えてきたものを、独立後は、しょせん素人同然な連中が仕切るわけですから、おのずと収益と支出のバランス計算に、相当な狂いが生じ始めます。

大手事務所から【ドル箱】クラスの芸能人が移籍したり、独立すると、まず間違いなく「円満退社」にはなりません。かりに晴れて独立できたとしても、元の事務所からマスコミ各社に「アイツを使うな!!」と伝令が下されるため、TV出演などの仕事は激減するのが、まぁ……芸能界の〝常識〟です。メジャーなレコード会社から新曲も出しづらくなります。

それでも桂銀淑という大スターですから、全国でコンサートを行えば、客は満員になりましょう。それなりの収益も見込めたはずですが、「納得のいくコンサート活動をするため、制作費がかさみ過ぎて」しまい、結果的に、コンサートをすればするほど、赤字が累積されたようですね。それを補うべく、各方面に多額の借金を繰り返して……。

ついに債権者から裁判を起こされ、ますます表舞台には出られなくなりました。でも、ファンはありがたいものですね。地方の営業やコンサート、ディナーショーを開けば、チケットはいつも完売!! 大ホールを満員にするだけの〝レジェンド〟を、きちんと結果として残せたのはさすがです。

ところが、さらに韓国にいる元亭主の事業が失敗し、億ションのローンも含め、4億円以上の負債を、無理やり彼女に肩代わりさせるような〝事件〟も勃発。

働けど働けど、桂銀淑の暮らしは少しも楽にはならず。身も心もボロボロになった彼女は、ついに覚醒剤に手を出してしまった──んじゃないでしょうかね。

私は個人的に、桂銀淑と〝ほんのちょっと〟接点がありました。ラジオ日本という、関東ローカルのラジオ局の番組に、構成作家&出演者として1年ほど関わっていた頃のことですから、1990年でしたかね。東京の港区は麻布台にあるスタジオに毎週、収録に通っておりました。

ある時、廊下の隅の椅子にちょこんと腰かけ、煙草を吸っている小柄な女性を見かけたのです。スタッフに訊けば、小声で「桂銀淑だ」と。あらためて彼女を見やると、ただぼんやりと眼の前の壁を見つめている様子。……大スターでありながら、なんとも暗く淋しい印象を受けたのです。

私は、廊下の奥にあるトイレに向かうフリをして、思い切って彼女に声をかけ、「ファンなので握手して下さい」と言いました。桂さんは、やや驚いた風でした。でも、すぐに弱々しい笑顔を浮かべ、「これからも応援してね」と、例のハスキーな声で言いつつ、すーっと差し伸べてきた手を、私は緊張気味に軽く握り返しました。

その時の、彼女の手の甲の〝ざらりと〟乾いた感覚を、いまだに忘れることが出来ません。当時、私は27歳だったと思いますが、ずいぶん年上の女性の肌の質感でした。

桂銀淑が何歳でデビューしたのか? そんなことまで、当時の私は知りませんでしたが、まだベテラン歌手といえるほどのキャリアを積んではいなかったはずで、それにしては、ずいぶん彼女は老けてるなぁ。デビューした年齢が遅かったのかしら?

そんな想いにとらわれつつ、スタッフが待機する席まで戻ってき、前出のスタッフに、なにげなく「桂銀淑って、いくつだったっけ?」と訊きました。「まだ30までは、行ってなかったと思うよ」との返事。びっくりして「えー、ホントに?」

帰宅後、調べてみましたら、なんと私と同い年!! なのに彼女のその、疲れ果てた印象と、まるで若々しくない肌の質感は、何としたことでしょう?

のちの彼女の、シャブ(覚醒剤)常習者としての〝レジェンド〟、を知った際、すでに1990年の段階でシャブに溺れていて、「だから肌が尋常でないほど荒れていたんだな」……もちろん何の根拠もありませんが、私の中では勝手に合点がいったものです。

生き馬の目を抜く芸能界という戦場で、みずからの音楽的な才が正当に評価され、トップスターに躍り出るという〝レジェンド〟と、富も名声も得てからの、同じくみずからの生まれ持った性格の癖やら弱さゆえの、世間に叩かれ追われるという〝レジェンド〟……。

一見、正反対な境遇に捉えられがちですが、よく考えてみりゃ、どちらも所詮、自分の蒔いた種。みごとに芽吹き、花開いた後こそ、そやつの器量というものが問われるのでしょうね。

まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」。昔の人は、巧いことをおっしゃいます。

 

 

 

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

 

 

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