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高田みずえ

昭和歌謡_其の弐

偉大なる歌姫(ディーバ)

高田みずえ

鹿児島出身の高田みづえが、フジテレビのオーディション番組『君こそスターだ』の、第18回グランドチャンピオンに輝いたのをきっかけに、『硝子坂』(作詞:島武実/作曲:宇崎竜童)でデビューしたのは、昭和52年(1977年)3月25日のことでした。

地元の鹿児島では、幼い頃から「飛び抜けて歌が上手い娘」として有名だったようですが、先輩格である山口百恵や桜田淳子などのアイドル・スターに憧れつつ、さまざまな期待と不安を胸に上京した時、彼女は16歳……。晴れて『硝子坂』は大ヒットしまして、いきなり、その年の新人賞レースのトップに踊り出ます。

同期デビュー組には、清水健太郎、狩人、太川陽介、榊原郁恵、清水由貴子、荒木由美子などがいましたが、この昭和52年は、高田も含め、アイドル歌手の枠でデビューしながら、歌唱力も【売り】になる、本格派の歌手が勢揃いの、じつに豊作の年でした。

昭和歌謡史的に捉えても、この年から数年間にデビューした歌手は、平成時代の今でも活躍する、息の長いアーチストに育ったケースが多いのです。

高田はこの年の暮れの、第6回『FNS歌謡祭』では、みごと最優秀新人賞、第8回『日本歌謡大賞』では、清水健太郎とともに放送音楽新人賞に輝き、第19回『日本レコード大賞』では新人賞にノミネートされました。

加えて榊原郁恵、清水由貴子とともに「フレッシュ3人娘」とも称されましたが、これは「花の中3トリオ」だった山口百恵、森昌子、桜田淳子の後継として、最も注目される女性アイドル歌手に選ばれたことを意味します。そうです、高田みづえは、トップ級の売れっ子アイドル歌手として、【その他大勢】の新人たちを圧倒したわけです。

高田の、デビュー以降の大いなる活躍を、オリコンのヒットチャートで眺めてみますと、

デビュー曲『硝子坂』(1977年3月25日発売)が、31.1万枚のセールスで最高9位、続く『だけど……』が23.4万枚で6位、3枚目のシングルの『びーどろ恋細工』が21.8万枚で9位、4枚目の『花しぐれ』が18.5万枚で10位。……みごとにデビュー以来、連続して4つの楽曲がベスト10圏内に入りました。

ネットの書き込みなどには、たびたび「(高田みづえは)デビュー4曲までは売れたが、その後、低迷を続けて苦戦した」云々と、ネガティブな印象を誘引する記述が目立ちますが、それはいささか意地悪すぎる評価でありまして、

5曲目の『パープル・シャドウ』、6曲目の『女ともだち』をはじめ、松山千春の楽曲のカバーの『青春(パート2)』、『涙のジルバ』、『夢伝説ペルシャン・ブルー』、『ガラスの花』、レコード会社各社の競作となった『終冬』、『原宿メモリー』ほか、オリコンのベスト10には入らなかったものの、どの作品も、昭和歌謡史に輝く名曲ぞろいであることに、カラオケファンならばすぐにお気付きになるでしょう。

懐かしのメロディなどといったTVの音楽番組において、「もう一度、ぜひ聴きたい!!」楽曲のラインナップに、かならず彼女の持ち歌がいくつも選ばれることが、何よりの証拠です。

つまりヒットチャートという、売り上げの【記録】には漏れても、リスナーの【記憶】にはしっかりと残る作品ばかりを、高田みづえは歌い続けてきたのです。

彼女の持ち歌の特徴として、もうひとつ特記すべきは、凡百のアイドル歌手ではとても歌いこなせないほど、歌詞の内容、メロディ構成、編曲のバリエーション、どれを取っても飛び抜けてクオリティが高いという事実でしょう。

高田みづえの現役時代、たしかに彼女は、出す曲、出す曲、いとも簡単に唄っている「ように」見えました。でも、あれから数十年を経た今、あらためて音源を検証してみると、音の取りづらいフレーズ、(若い女の子が唄うには)意味深長な歌詞……、じつに難しい作品ばかりであることがわかり、ハッとさせられます。これはもう、彼女でなければ無理だな!! そのように感じる楽曲は、1つや2つではありません。

高田みづえという歌手は、偉大でした。

昭和歌謡史に燦然と輝く、まぎれもない【歌姫(ディーバ)】の1人であったことに、いまさらながら思い至るのです。

高田みづえの最大のヒット曲は、1980年7月25日発売の『私はピアノ』と、1983年8月21日発売の『そんなヒロシに騙されて』ですが、両楽曲とも、サザンオールスターズの桑田佳祐の作詞・作曲によるものです。前者の売り上げが49.3万枚で、オリコン・チャートの最高5位、後者が30.6万枚で最高6位……。

なのに何故、あまりにあっさりと、彼女は人気アイドル歌手の座、【歌姫】の座を捨ててしまったのでしょう?

1985年2月、人気力士だった大関の若島津と、電撃的に婚約を発表し、芸能界を引退してしまいました。現在、二所ノ関部屋の女将として、パワー全開で活躍されていることは、ここに改めて記さずとも、皆さんよくご存じですよね。加えてまた、親方が2017年の10月に病に倒れ、現在も寝たきりの状態であることも。

昨今の大相撲関連の度重なる不祥事の報に触れる際、もしいま親方が健在であれば、どんな立ち位置で、どんな発言をされたのか? けっしてゲスな興味ではなく、南海の黒豹の異名でも知られた、硬骨漢との定評もある【あの若島津】だからこそ、期待したかったのですがね(^_^;)。

親方の1日も早い現場復帰を願うばかりですけれど、ふと、女将である高田みづえが、現状、どんな胸中で旦那様の看病を続けているか? 想像をしつつ、彼女の若い頃の歌唱をCDで聴きますと、ファンの1人だった私の胸が痛みます。

もし、あのまま歌手の活動を続けていたならば?

野暮は承知の暴言です。

もし、あんな形で歌手を引退しなければ、50代半ばになられた今も、岩崎宏美や渡辺真知子のような、しっとりと大人の情感を歌い上げる、ベテラン歌手の1人として、きっと日本の音楽シーンをリードしつつ、われわれの耳を楽しませてくれたことでしょう。

それを想うと、彼女を奪った相撲界が、ちょっぴり(かなり?)憎いです。

(※以下、ご参考までに、彼女の持ち歌の中で、私が好きな楽曲の歌詞を転記しておきます)

『パープルシャドウ』 作詞:松本隆/作曲&編曲:都倉俊一

 唄:高田みづえ

♪〜日照りの坂道 夏蝉の声
あなたの家まで 自転車をこぐ
都会へ行ってた あなたを昨日
見たって友だち 電話をくれた

帰ってくるよ いつ?
いつでもいいさ
君との愛を忘れてなけりゃ
窓に一房の葡萄(ぶどう) 飾るよ
それがあの日の あなたの言葉

  パープル・シャドウ
私の手首に くちびる寄せて
残した小さな うす青の染み

  パープル・シャドウ
季節は流れて あざは消えても
心に沁みてる 紫の影
沁みるは紫の影
ああ 一房の葡萄〜♪
1978年6月25日発売(※デビュー5枚めのシングル)

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

 

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