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エノケンからディックミネ、雪村いずみ

昭和歌謡_其の114

洋楽の【カバー曲】も、立派な昭和歌謡です!

 『青いカナリヤ』by 雪村いづみ

『テネシーワルツ』by 江利チエミ

『ダイナ』by ディック・ミネ

『洒落男』by 二村定一

『洒落男』by エノケン(榎本健一)

カバー曲の女王

前回のコラムでご紹介した、昭和歌謡史に燦然と輝く、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの、通称「三人娘」。

このうち現在もご顕在! 御齢87の雪村いづみ〝お姉さま〟は、昭和、平成、令和を通じての、掛け値なしの大スター……ではありますが、不思議なことにオリジナルな歌謡曲での大ヒットは、1曲もない(はず)です。

デビュー曲であり、たちまち大ヒットした『想ひ出のワルツ』(昭和28年4月発売)に始まり、続く2曲目も3曲目も……、さらに『はるかなる山の呼び声』(昭和28年9月発売)、『オウ・マイ・パパ/青いカナリヤ』(昭和29年3月発売)、『ケ・セラ・セラ』(昭和31年10月発売)などなど、すべてが当時、アメリカで流行っていたポップス歌謡(ジャズも含めて)の【カバー曲】です。

いづみは三人娘の残り2人と終生、親友でしたけれど、デビュー曲から常にオリジナル歌謡の大ヒットを飛ばしつつ、カタコト英語ながら、器用にジャズのナンバーも歌いまくる! ひばり……や、いづみ同様、デビュー曲を含めて多くの【カバー曲】を得意としながらも、『新妻に捧げる歌』(昭和39年3月発売/作詞:中村メイコ/作曲:神津善行)や『酒場にて』(昭和49年9月25日発売/作詞:山上路夫/作曲:鈴木邦彦)などオリジナル楽曲の大ヒットも〝ちゃんと〟飛ばしているチエミ……とは、明らかに歌手としての「立ち位置」が異なります。

今回は、昭和歌謡の長い歴史の中で、日本人の老若男女の耳に、ごく自然に馴染んで来て、現在もなお唄い継がれている、アメリカンポップスの【カバー曲】を、まずは、戦後の第一級の芸能スターである、いづみやチエミの看板ソング、続いて、戦前の昭和初期を代表するソング……の順に、紹介させていただきましょう。

雪村いづみが、オリジナル歌謡の持ち歌をほとんど持ってない! にも関わらず、【カバー曲】だけを武器に、大親友のひばりやチエミと〝同格〟に肩を並べられる理由は、彼女の「揺るぎのない正確な音程」かつ、美しく透き通るがごとく「伸びやかに放たれる声質」の魅力であろう、と私は勝手に決め付けてしまいます。

いづみと同じようなタイプの流行歌手は、昭和、平成、令和を通じて、いそうでいない、……でしょ? 異論が出ますかね。受け付けませんけど(笑)。まぁ、それほどに彼女の歌声は、一度聴くと忘れられないインパクトがあります。

いづみが全国のお茶の間の老若男女に聴かせまくった、数多くの【カバー曲】……の中でも、私が幼い頃から大好きなのが、『青いカナリヤ』(作詞:Vincent Fiorino/訳詞:井田誠一/作曲:Vincent Fiorino)! これは『オウ・マイ・パパ』のレコードのB面です。

(※こちら(↓)は貴重な音源ですね。日本を代表するジャズピアニスト、亡き前田憲男が率いる、伝説のビッグバンド「ウィンドブレイカーズ」の演奏をバッグに、76歳当時の彼女が唄います)

♪~さみしいカナリヤ わたしのお友達
夢見て歌えよ 青いカナリヤ
やさしいあの人が いつも歌ってた
愛の子守歌を 歌いましょうよ
かなしい言葉は 小川に捨てよう
つらい想い出なら 森に捨てよう

Blue, blue, blue, canary
Tweet, tweet, tweet the whole day long.
She cries and sighs and tries to tweet,
Tweet, tweet to sing a song.
Blue, blue, blue, canary
Tweet, tweet, tweet the whole day long.
She cries and sighs and tries to tweet,
tweet, tweet to sing a song.

やさしいあの人が いつも歌ってた
愛の子守歌を 歌いましょうよ
かなしい言葉は 小川に捨てよう
つらい想い出なら 森に捨てよう~♪

原曲である英語の歌詞が、まるで落語の『寿限無』の早口言葉(ジュゲム、ジュゲム、ゴコウノスリキレ……)のように、子供時代の私の耳に飛び込ん来ましてね。意味などわからずに「ブルー、ブルー、ブルー、カナーリ……」と覚えてしまったものです。

お次は、江利チエミが唄って流行らせた『テネシーワルツ』(昭和27年1月発売/作詞:P.W.King/訳詞:音羽たかし/作曲:R.Stewart)……。

これはこれで、原曲の歌詞が平易なために、すぐ覚えちゃいました。だからってこともありますが、中学の英語の授業で、疑問詞ではない【When】の使い方(接続詞や関係副詞として)を習った時に、「あっ! これは江利チエミの……」と、ピン! と来ましたね。

♪~I was waltzing with my darlin’
To the Tennessee waltz
When an old friend I happened to see
I introduced her to my loved one
And while they were waltzing
My friend stole my sweetheart from me

さりにし夢 あのテネシー・ワルツ
なつかし愛の唄
面影しのんで 今宵もうたう
うるわし テネシーワルツ

I remember the night
and the Tennessee waltz
Now I know just how much I have lost
Yes, I lost my little darlin’
The night they were playing
The beautiful Tennessee waltz~♪

上記2つの【カバー曲】に見られる、英語と日本語の「チャンポン」的言語感覚……。歌詞の最初から最後まで英語にするわけでなく、逆に全部を日本語に訳しちゃうでもなく、あくまで英語と日本語が、絶妙な塩梅で交互に並んでいます。いやぁ、このアイデア! 最初に「イイんじゃね?」と言い出した音楽関係者は、メチャメチャ偉大だと感じます。

訳詞者の音羽たかしですが、これは、作詞を専従にする個人クリエーターの名前ではなく、江利チエミが所属していたキングレコードが文京区の音羽にあって、社内のディレクターが、担当した楽曲の訳詞も手掛ける場合の「共同ペンネーム」なのだそうです。

音羽たかしの他に……、戦後のアメリカン・ポップスの【カバー曲】の訳詞に、たびたび登場する名前は、もう1人、漣(さざなみ)健児でしょうかね。

坂本九の『ステキなタイミング』(昭和35年発売)、飯田久彦の『悲しき街角』(昭和36年6月発売)や『ルイジアナ・ママ』(昭和36年12月発売)、中尾ミエの『可愛いいベビー』(昭和37年5月発売)など、私たち還暦世代より上の方なら、タイトルに「?」でも、曲を聴けば「あー、アレね!」と来るはず……の曲を数多く訳しました。

漣も、作詞がメインの稼業ではなくて、父親が社長だった新興音楽出版社(現在のシンコーミュージック・エンタテイメント)の社員として、月刊誌の『ミュージック・ライフ』の編集長などを務めました。【カバー曲】の訳詞は、「レコーディングまで時間がなくて、他の人に頼んでいるヒマに、じゃあ僕が書いちゃおうか、となったまでのこと(笑)」……だそうです。

【カバー曲】が、さして海外の音楽(洋楽)に興味がない日本の老若男女にも、ごく自然な形で愛され、気軽にうろ覚えでも口ずさめるほど、大いに流行った! この功績は、ひとえに原曲を日本語の歌詞に訳した御仁の、腕前にかかっていたわけですね。

原曲の英語を「ただ直訳する」だけなら簡単ですが、その日本語が歌謡曲の歌詞として〝ちゃんと〟フィットするか? は、別問題です。かといって、原曲の歌詞に描かれた「世界観」を100%無視するのは、原曲の作詞家に対して失敬! でしょうからね^^;。

そのあたりの匙加減の良し悪し、上手さ下手さは、オリジナルな作詞をするクリエイションとは、まったく別種の、いうなればアレンジメント能力の如何に関わる問題です。

想えば……、

私たち日本人の祖先は、奈良時代に入ると中国から多くの【漢字】を仕入れて、その音だけ拝借して最古の和歌集である「万葉集」を編みました。俗に「万葉仮名」などと呼ばれますが、その後……【漢字】をアレンジしまくった結果、あくまでオリジナルな日本語としての漢字を創作し、音読みと訓読みを付け、さらに平仮名や片仮名まで〝ひねり出し〟ました。

本家である【漢字】のオリジナリティには最大限の敬意を払った上で、日本人の生理感覚に沿わせて、独自にアレンジメントすることで、本家とは「まるっきり別物」な味わいの文化を創り上げる! この【才】こそ、昔も今も日本人がグローバル社会に声高に誇るべき、最大の財産だと私は考えます。

洋楽の【カバー曲】も同じく、です。他国で流行った歌を、自国の言葉に翻訳して、自国の歌手に唄わせるのは、おそらくどこの国でも行われていることとは思いますが、わが国の【カバー曲】ぐらい、見事なクリエイションはない! と断言したくなるほど、訳詞の腕前が際立っています。

いづみやチエミが活躍する、もっと以前の時代……。敗戦前の流行歌として、大いに流行った【カバー曲】がありまして。

おゝ君よ ダイナ

昭和の芸能史において、森繁久彌と並ぶほど超大物の男性スターであった、ディック・ミネが唄った『ダイナ』(昭和9年12月発売/作詞:Sam M. Lewis&Joe Young/訳詞:三根徳一/作曲:Harry Akst)です。

この歌は、ディックのデビュー曲であり、みずから本名で訳詞も手掛けています。

『ダイナ』が古いアメリカン・ポップスであることは、ガキの時分に誰か大人から教わってましたが、原曲を差し置いて、ディックの歌声ばかり聴きまくったせいで、私は還暦を過ぎるまで、たったの1度も本家(Eddie Cantor)の歌声を聴いた記憶がありません(笑)。……それほど昭和時代の日本人にとって、『ダイナ』といやぁ、即座にディック・ミネと結びつくほど、この曲はディック自身が訳した日本語の歌詞と共に、馴染み深い存在になっていましょう。

♪~ダイナ 私の恋人
胸にえがくは 美わしき姿
おゝ君よ ダイナ 紅き唇
我に囁け 愛の言葉を

あゝ夜毎君の瞳 慕わしく
想い狂わしく

おゝダイナ… 許せよくちづけ
我が胸ふるえる 私のダイナ~♪

この時代の【カバー曲】を、もう1つ。

モボ modernboy

大正時代に大流行(おおはやり)した浅草オペラの役者であり、日本で最初のジャズシンガーと言われる? 二村定一がレコードを吹き込み(昭和4年11月発売)、大正末期から戦中、戦後に喜劇役者として一世風靡した、エノケンこと榎本健一も、主演の舞台や映画で熱唱したことで、当時の日本人にメチャメチャ愛された『洒落男』!

♪~俺は村中で一番 モボだといわれた男
うぬぼれのぼせて得意顔 東京は銀座へと来た

そもそもその時のスタイル 青シャツに真赤なネクタイ
山高シャッポにロイド眼鏡(めがね)
ダブダブなセーラーのズボン

わが輩(はい)の見染めた彼女
黒い眸(ひとみ)でボップヘアー
背が低くて肉体美 おまけに足までが太い

馴れ染めの始めはカフェー この家は妾(わたし)の店よ
カクテルにウイスキーどちらにしましょ
遠慮するなんて水臭いわ

いわれるままに二三杯 笑顔につられてもう一杯
女はほんのり桜色 エッヘッヘ しめたぞもう一杯

君は知ってるかい僕の 親爺は地主で村長
村長は金持で 伜(せがれ)の僕は
独身でいまだに一人

アラマアそれは素敵 名誉とお金があるなら
たとえ男がまずくても 妾はあなたが好きよ

おおいとしのものよ 俺の体はふるえる
お前とならばどこまでも 死んでも離れはせぬ

夢かうつつかその時 飛び込んだ女の亭主
物も言わずに拳固の嵐 なぐられた我輩は気絶

財布も時計もとられ だいじな女はいない
こわいところは東京の銀座 泣くに泣かれぬモボ~♪

この曲なんぞは私……、作詞も作曲も純粋に日本人の手で制作された、オリジナル歌謡だとばかり思っていました。

赤坂の呑み屋で月に一回、「昭和歌謡を愛する会」を開いていた頃、常連の大先輩の1人に、

「違うよ。100年近く前にアメリカで流行ったポピュラーソング(原題『ゲイ・キャバレロ」/作詞:ルー・クライン/作曲:フランク・クルーミット/訳詞:坂井透)だよ!」

と教えられて、「えー? マジですかいな?」と、オハズカシクも魂消(たまげ)た次第です。

いやぁ、それにしても歌手としてのエノケンは、声は悪いし、正直さして上手くもない……ですが、いつ聴いても、な~んかトッチラカッテいて面白いですね。ついプッと吹き出しちゃいます。やはり骨の髄まで喜劇役者なのでしょう。歌声というより、役者の発する台詞だと考えりゃ、いやはや超一流なエンターテインメントです。

アメリカンポップス揃いだった【カバー曲】の世界に、昭和30年代に入ると、フランスのポップス歌謡=シャンソンの人気曲がドドドと雪崩込んで来て、にわかにシャンソンブームが到来します。

このブームにも〝すこぶる〟腕利きの訳詞家が絡んでいまして、1人は宝塚歌劇団出身の大スター・越路吹雪の付き人=マネージャーをしていた岩谷時子であり、もう1人は、立教大学の仏文科に通う学生時代からアルバイトでシャンソンの訳詞を手掛け、すでに売れっ子だったという、なかにし礼です。……が、この2人の話は、別の機会に回しましょう。

 

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

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