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蚕という名の家畜_弐

お蚕さんのお話 其の参

『金色姫伝説』と『徐福渡来伝説』

日本でのお蚕さんの民間伝承物語として「金色姫伝説」と「徐福渡来伝説」が一般に伝えられる。

金色姫伝説

「金色姫伝説」は、『御伽草子』や、つくば市の〝蚕影神社〟に伝えられているもので、

昔、雄略天皇の頃(四七八年頃)、天竺(インド)にある旧仲国のリンエ大王に金色姫という名の娘がいた。母親の皇后が早くして亡くなり、大王は新たに皇后を迎える。

後添えの皇后は、この姫を疎み、大王の留守中に姫を亡きものとしようとした。

最初は獅子や獣の多い山に捨て、次に鷹や鷲の多い山に捨て、さらには海眼山という草木のない島に舟で流した。最後には庭に生き埋めにしてしまった。

これに気付いた大王が庭から救い出し、娘の行く末を案じて、桑の木でできた舟に乗せて海へと逃した。

この舟が日本の茨城つくば豊浦に流れ着いて、姫は権太夫漁師夫婦に助けられ大切に育てられたが、病を得て早くに亡くなってしまう。

やがて姫が夢に現れ〝わたしに、えさを下さい、きっとお役に立ちます〟と告げたので、亡きがらを納めた唐びつを開けると、たくさんの小さな虫たちがいて、桑の葉をえさとして与えると喜んで食べた。

虫たちは、途中四度食べるのを休眠したあとに、繭を造った。

この繭玉を真綿にして生糸とすることを、つくばの仙人が教えて、日本の養蚕が始まり、長者となった権太夫は、豊浦に蚕影神社を建てて金色姫の御霊を祀った」というものである。

茨城県つくば「蚕影神社」

この物語にあるように実際、蚕は四度えさを食べることを休み、休む前を一齢、最初の休みの後を二齢として休む毎に三齢、四齢、五齢と成長する。そして、この四度の休みは、金色姫が継母の后から受けた難にちなんで、それぞれ〝獅子休み〟〝鷹休み〟〝舟休み〟〝庭休み〟と呼ばれてきた。

徐福渡来伝説

もう一方の「徐福渡来伝説」の徐福は、秦の時代の人で、始皇帝の命をうけ、不老不死の薬を求めて東方の三神山(蓬莱・方丈・瀛州)を目指した。

徐福渡来の伝承は、中国本土のみならず、朝鮮半島や日本の各地に残っている。

徐福は「3,000人の若い男女と多くの技術者を伴い、五穀の種を持って東方に渡ったと伝えられ。各地で農作や技術などを教え残した」とされるが、養蚕技術もこれに含まれる。

日本伝承のひとつに、「紀州熊野にたどり着いた徐福一行は、再び出航するも漂流し、女童を乗せた船は八丈島へ、男童を乗せた船は青ヶ島に漂着、これにより八丈島を女護ヶ島、青ヶ島を男島と呼ぶようになったとし、八丈島では養蚕技術と機織りが伝えられた」というのがある。

八丈島では伝えられた技術を活かした独特の織物〝黄八丈〟が島の特産となり、のちに年貢も黄八丈の反物で収められるようになる。

そもそも八丈とは、きものの一疋(二反)の長さのことであり(八丈=二十四メートル/一反=十二メートル)、八丈島は、島の特産そのものが島の名前となったものである。

「城木屋お駒」歌川国貞画/早稲田大学演劇博物館蔵 衣装黄八丈

編緝子_秋山徹