1. HOME
  2. ブログ
  3. 令和元年1月から6月
  4. 笑福亭鶴光

笑福亭鶴光

昭和歌謡_其の三十三

昭和の『死後』ソング その2

『うぐいすだにミュージックホール』

前回のコラムには、昭和時代には当たり前に使われていた日本語表現が、平成になると、次第に???となり、元号が令和に変わってしまえば、100%死語と化すという現実について、昭和歌謡に因み、私の体験まじりに書かせていただきました。

原稿がネットにUPされたタイミングで、わがカミサンに、「お前にとっての死語は、どんなのがある?」と訊きましたところ、ほぼ即答で返してきたのが、

「死語じゃないけれど、……さっき、思わず『ン?』となっちゃったのは、紳チャン(私のこと)、『そろそろタンクトップの季節だな』って言ったでしょ? 女性の場合、タンクトップというと、肩ヒモ付きの下着のことで、キャミソールよりは生地が厚手かなって感じ。男が口にすると、なんか変だよ」

ふむ、タンクトップは男が口にする言葉じゃない、と。「じゃあ何て言やぁいいんだ? ランニングか? それこそ、とっくの昔に死語だろ?」

私は反論というより、率直な疑問を投げかけたわけですが……。調べてみますと、これがどうもよくわからない!! ネットに挙がっている「これが正解」っぽい、どの回答も、こと私の感覚では、何ひとつズバリと的を射抜いてくれません。

ただ、某ファッション用語のサイトに、こんな記述を見つけました。

「ランニングシャツは和製英語だが、運動競技用のシャツや、それと同型の男性用下着を指す」

ほぉ、ランニングは、専門用語的には、まだ死語じゃあないではないか。さらに続けて読み進めますと、

「下着としての呼称は、女性用ならタンクトップ、男性用はランニングシャツ。ただし、ランニングは「おじさんが着る肌着」の印象も強く、男性用の下着でも、デザインを重視したものはタンクトップ、肌着に特化したものはランニングシャツと呼び分ける」

ってことはですよ。私が普段着用しているブツは、あくまで肌着ですから、タンクトップではなく、ランニングと称さなければいけないわけか……。と、まぁ、ネットはじつに便利な情報源ですけれど、この「回答」がどこまで〝本当に〟正しいのか? となると、はなはだ心許ない。私にも、よぉわかりません。ここがネットのアキレス腱でもありまして。

「ううむ。さっきの俺の言葉を訂正するならばだ、『そろそろランニングシャツの季節だな』になるのか。……なんか、ダサくねぇかい?」

「うん、すっごくダサい(笑)。でも、そこが逆に、紳チャンぽいかも」

わがカミサンは、ひとり、しばしの間、失敬千万な笑い声をたてておりました。

時代が令和に変わり、大半の日本人の老若男女が「そんな表現はしない!!」「そんなの死語だよ!!」と一刀両断にしようとも、どっこい、とある現場では、昔も今も当たり前に【専門用語】として使われている……、そんな言葉は、探せばいくらでも転がっているはずでしょう。

死語ソング

こと職業の名称に限ってみても、瞬時にいくつか浮かびます。昭和歌謡の大ヒット曲、たとえば鶴田浩二の看板ソング『街のサンドイッチマン』(1953年発売/作詞:宮川哲夫/作曲:吉田 正)、暁テル子の『東京シューシャインボーイズ』(1951年5月発売/作詞:井田誠一/作曲:佐野鋤)、宮城まり子の『ガード下の靴磨き』(1955年8月発売/作詞:宮川哲夫/作曲:利根一郎)……に唄われた、サンドイッチマンや靴磨きは、いま現在、全国規模では、どのようなことになっていますかね?

 

 

データを調べたわけじゃあありませんが、決して【死語】状態ではない気もいたします。東京都心部においても、ほんの数年前まで、JR山手線のいくつかの駅の改札を抜ければ、かならずお目にかかれる光景でした。

そういえば、いなくなりましたねぇ、サンドイッチマンに靴磨き。

現在の山手線エリア内は、来年の夏に開催が予定される『東京オリンピック』を前にして、どこもかしこも「景観の美化作戦」とばかりに、外国人観光客の目に留まる場所の整備が、突貫工事で強行されています。くだんの2つの職業も、このあおりで〝消された〟のだと、私は勝手にそう解釈します。

どうして〝ありのまま〟の日本人の日常を、〝ありのまま〟見せないんですかね? いいじゃないですか、駅前で酔っ払いがゲロを吐き、安酒場では、老若男女ワイワイガヤガヤ ♪~小皿叩いてチャンキチおけさ~♪ てな光景を、そっくりそのままリアルに外国人観光客に見てもらえば。ナニを格好つけてやがる!! と私はおおいに吠えたいところですが、笛吹けど、誰も踊ってくれそうもないので、やめておきますが。

これまた別の意味で、巷から消されようとしているのが、ストリップ劇場ですかね。昔、私の生まれ故郷の蒲田にも、大衆芝居小屋や浪曲を聴かせる寄席に加えて、ストリップ劇場もありました。……という記憶が、私の子供時分に〝ちょこっと〟あるのですが、実際はどうだったでしょう?

ひょっとすると、大きな勘違いかもしれません。駅前に住まいがあった、祖父チャンから聴いた話だったか? 蒲田が生んだ脇役スターであり文化人、小沢昭一は、私が本音で「先生」とお呼びしたい、隣の中学の大先輩ですが、彼の著作または、長寿番組だった、TBSラジオの「小沢昭一的こころ」で語られた逸話だったか? スミマセン、よく覚えていませんが、

とにかく私は、大学で演劇を中心とするクリエーションを学び始めてから、蒲田は〝そういう地域〟だったとの認識を、オノレの自負として、現在まで生きてきた感が強いです。

大手映画会社の松竹が、撮影所を蒲田から大船に移転させたのは、昭和11年(1936年)1月のことですが、それ以降も、けっこう長い年月、蒲田という街は「キネマの天地」の伝統を守り、大衆芸能の発信地として、歓楽街の役割を立派に果たしてきたことになりましょう。

時代は平成に変わり、それも30年と4ヶ月で幕を下ろし、新元号・令和元年5月半ばの時点で、蒲田には、封切り館とは名ばかりの、老朽化もはなはだしい、ちっぽけな映画館が、古びた雑居ビルの中に、ぽつんと1軒あるだけです。

かつて芝居小屋やストリップ劇場があった辺りには、味も素っ気もない、見かけだけ、やたら高級げなマンションが建ち並び、地方から移り住んでくる親子の数ばかり増えれば、たちまち地元らしい、良い意味での猥雑な空氣、〝大人の街〟の気配は、「子供の教育上よろしくない」の合言葉とともに、強権的に【なかった】ことにさせられます。

蒲田のみならず、都内にある何処の歓楽街からも、猥雑な空氣は淘汰され続けています。現在、都内で営業を続けているストリップ劇場は、浅草の老舗『ロック座』ほか、『渋谷道頓堀劇場』、『池袋ミカド劇場』、『新宿ニューアート』、『DX歌舞伎町』、『シアター上野』……の6劇場のみになりました。そのうち『DX歌舞伎町』は、来る6月末日で閉館が決まっています。

風営法の締め付けにより、ストリップ劇場は、ソープランドなどの風俗店同様、改装あるいは移転しての〝新規営業〟は一切、禁止されていますので、現在オープンしている劇場の経営が厳しくなったら、そこで終わりです。特にここ数年、国も東京都も、何でもかんでも2020年開催の東京オリンピックに結びつけ、ミモフタモナイほど強引に「街の浄化」を進めています。

街を綺麗にすることが、イコール殿方の遊興場所の排除ではない!! と、私は断固として訴えたいところですが、まぁ、この話はやめときましょう。

さて、昭和歌謡のヒット曲は数ある中に、ストリップ劇場をテーマにしたコミックソング、なんていうメチャ珍品もありました。上方落語家の笑福亭鶴光が、まだ若く「売出し中!!」の人気者だった頃、その勢いに乗って吹き込んだ、『うぐいすだにミュージックホール』(1975年5月25日発売/作詞&作曲:山本正之)という楽曲です。

うぐいすだにミュージックホール

作詞と作曲に関わった山本は、当初、愛知県刈谷市にあった老舗のストリップ劇場の印象を、面白おかしくデフォルメし、『刈谷ミュージックホール』という作品を書いたそうです。

ところが、地名の「刈谷」は、一般の人々に不明であるし、実在のストリップ劇場の名前を使うのは「いささか問題がある」という、レコード会社のスタッフの判断によって、急きょ、東京都内、それもJR山手線の「鶯谷駅」周辺に「架空の劇場がある」という設定にしたのだとか。

ちなみに鶯谷駅の周辺は、駅のホームから眺めれば一目瞭然ですが、見渡す限り、ラブホテルのネオン、ネオン、ネオン!! 数えりゃ、なんと60軒以上。その光景は、見慣れていない方なら、まず間違いなくビックリ仰天するはずです。

全国広しといえども、これほどラブホテルが密集する地区は、他にないはずです。それは、都内でも同じく。ところが不思議なことに、「鶯谷駅」周辺には、デリヘルなど「派遣型営業」の事務所がある以外、ソープランドもピンサロもイメクラも、いわゆる通常の風俗店舗が、たったの1軒すら存在しないのです。数年前、酔狂にも、けっこう足繁く鶯谷に通い、ちょいと調べてみて解った〝事実〟です。

風俗好きの殿方の間で、上記のデータは、あまりに有名な〝常識〟なのですが、じゃあ「どうして?」と問えば、どなたも首を傾げるばかり。昔から「鶯谷の謎」と語り継がれてきましたが、私の乱暴な見解では、徒歩圏内に、あまりに有名な、吉原のソープ街が控えているからじゃあないんですかね。江戸時代、徳川幕府に認められた〝吉原遊郭〟の伝統を受け継ぐ、名門ソープ店の数々に、お膝元である鶯谷エリアは、潔く仁義を切っている……から?

てなことを想像してみるのですが、本当のところは知りません。

話を戻して、鶴光は、あくまで落語家の〝芸〟の1つ、洒落の延長として、この楽曲を世に放ったそうですが、本人や関係スタッフの予想をはるかに超えて、このレコードは売れまくりました。

鶴光は大喜びし、当然、師匠の笑福亭松鶴も、大いに褒めてくれるだろうと思いきや、その逆、猛烈にどやしつけられたそうです。

「ろくに落語もできんくせに、流行歌手かい?」
「よりによってストリップの歌なんぞ、脳天気に唄いよってからに!!」

師匠の逆鱗は、あまりにもの凄く「破門されるほど」だったそうで……。泡を食った鶴光は、「自殺も考えたほど」すっかり意気消沈。反省の意志を込めて、人気だったラジオのDJ(「鶴光のオールナイトニッポン」ほか)はもちろん、タレント活動の一切を自粛し、あらためて落語の修業に励みだしました。

現在の鶴光師匠は、御年71。上方落語協会の幹部でありながら、東京の落語芸術協会の会員にもなっており、都内の寄席で大トリも任される、円熟味の増したベテラン落語家の1人です。

 

勝沼紳一 Shinichi Katsunuma

 

 

関連記事

メールマガジンの登録

最近の記事

おすすめ記事

昭和歌謡/過去記事