1. HOME
  2. きもの特集
  3. 紺屋高尾

紺屋高尾

藍にまつわるお噺 其の弐

江戸吉原 名妓高尾の心意気

江戸の古典落語・廓噺「紺屋高尾」

それはまだ吉原が日本橋にあった頃の話である。*1

日本橋吉原からそう遠くはない神田の紺屋(こうや)に、久藏という二十六歳になる若い藍染め職人がいた。

〝吞む・打つ・買う〟をまったく知らぬ真面目一途の職人の彼が、ある日からもう三日も床に伏せっている。

心配した親方が、〝お玉が池〟の竹内蘭石という医者に診てもらうが、蘭石の見立ては「恋わずらい」

久藏に問いただすと、先に仲間に半ば無理矢理連れて行かれた吉原で、三浦屋の大看板「高尾太夫」の道中を偶然見かけたその途端、太夫のあまりの美しさに心を奪われてしまい、叶わぬ縁(えにし)と知りながら、寝込むほどに恋い焦がれてしまった、ということであった。

京の吉野太夫と同様、吉原でも「大名道具」と呼ばれる〝松の位〟の高尾太夫は紺屋の職人風情を相手にすることはない。

しかし、このままでは久藏が腑抜けてしまう、と思案した親方は「三年一生懸命働いて、その給金を貯めろ。そうしたら、その金で会わせてやる」と、久藏のため〝嘘も方便〟含んで話すと、久藏にわかに元気になり、勢いよく藍甕に向かい染め始める。

それからの三年間を久藏は一心不乱に働いた。

「江戸名所図會 永代橋 三浦屋高尾」役者絵 豊国 画/早稲田大学演劇博物館 蔵
こちらは「二代目高尾太夫」伊達の殿様の意に沿わなかったため斬り殺された

三年が経ったその日、久藏が親方の元に来て「三年間で給金をようやく十三両貯めました。これで高尾太夫に会わせて下さい」と乞う。

親方驚くも、これには覚悟を決め、治療よりも妓楼・遊里に詳しい医師の竹内蘭石に相談して、段取りをつけてもらうことにする。

さて、吉原に繰り出すというその夜、親方は久藏に一張羅のきもの一式を着せて、二両を渡し、久藏の貯めた給金十三両と合わせ花代十五両を持たせた。

蘭石は久藏を〝流山のお大尽〟と触れ込んでお茶屋を通して「三浦屋」にあがる。

折良く、高尾太夫が空いていて、久藏は念願叶って恋い焦がれた太夫との対面を果たすことが出来た。

久藏にとって夢のような時間は過ぎてゆき、座敷は終いを迎えようとしていた。

遊廓とはいえ、最高位の太夫となると、初めての座敷から〝枕を共に〟することはない。

高尾太夫が当然のように「ぬし、次はいつ来てくんなます」とたずねると、久藏はらはらと涙を落としながら、正直に本当のことを漏らしてしまう。

「太夫、わっしはしがない紺屋の職人です。太夫に会いたい、その一心で三年間身を粉にして働いて貯めたその給金で今夜参りました。次に来れますのは早くて三年後です。その間に太夫が身請けでもされたら、二度とは会えません。ですから、これが今生の別れです」

藍に染まった久藏の手をみて、高尾太夫も訝しく思ってはいたが、この久藏の言葉を聞いて涙を溢し「わっちのような卑しい身のものをそこまで_、来年三月十五日、年季(ねん)が明けたら、ぬしのもとにうかがいいたしんす。そのせつは女房にしてくんなますか」と乞い願うようにつたえる。

久蔵も同様であったろう、現代の紺屋・藍染職人「矢野藍秀」の手

花代と持参した金もそっくり返されて、飛ぶようにして神田に戻った久藏は、前にも益して気狂いしたかのように働く。

念仏のように「来年の三月十五日」「三月十五日」とあまりに唱えながら働くため、終いに皆から「三月十五日さん」と呼ばれるようになった。

親方をはじめ、久藏以外はだれも高尾太夫の言葉を信じておらず「久藏、可哀想に」「太夫も罪な嘘をつくもんだ」と話していた。いよいよその三月十五日、神田の紺屋のまえに駕籠が止まる。

中から出てきたのは、褐色の藍染めの袷に縹の献上帯を締めた姿が、すっかりどこぞの商家の御新造さんであるが、まごう事なき高尾太夫。

まず店先で小僧が、丁稚が、番頭が、親方が順に腰を抜かす中、飛び出してきた久藏は気を失った。

このあと、二人はめでたく夫婦となり、久藏は御店(おたな)を継いで「紺屋九兵衛」を名乗る。

やがて夫婦が売り出した、藍染め〝甕のぞき*2の手拭いは、「元三浦屋の大看板〝五代目高尾太夫〟の染める手拭なんざ〝通好み〟」と、まず吉原通いをする遊び人に大いに流行り、それが江戸市中に広がって店は大繁盛した。

久藏夫婦は三人の子を授かり、高尾太夫は八十余歳でその生涯を終えたという。

これは、江戸庶民が愛し、藍染めが育んだ〝男の純情と心の有り様の天晴れな女〟のお噺しである。

「名所 江戸百景 神田紺屋町」歌川広重 画/早稲田大学演劇博物館 蔵
久蔵と高尾夫婦が日々目にした景色、 鮮やかな藍染の向こうに富士

*1吉原は明暦(1657)の大火、別名「振袖火事」で焼失した後に、日本橋から現在地の浅草の北(現住所:台東区千束)に移ったが、高尾太夫は吉野太夫(1606-1643)・夕霧太夫(?-1678)とともに寛永(1624-45)三名妓と呼ばれることから、彼女の時代は、いわゆる旧吉原・日本橋と推測されるが、宝永から正徳年間(1704-1716)の話で新吉原とする説もある。

*2藍色系統ではもっとも薄い色で、染色する際に藍瓶に漬けてすぐに引き上げてしまうことから「瓶覗き」と呼ばれた。早く染めることができるため「駄染」とも呼ばれるが、藍染職人いわく、「濃い色は手間はかかるけれども、その分ごまかしが効くが、薄い色は染めムラが目立つため、美しく染めるには熟練の技術が必要」だという。

江戸古典落語には似たものとして『幾世餅』という噺がある。

藍染とは関係ないがご紹介する。

幾世餅

江戸古典落語の中には『紺屋高尾』と筋書きはほとんど同じで、紺屋久蔵を〝搗き米屋の清蔵〟、吉原の遊女高尾太夫を〝幾世太夫〟とした『幾世餅』という噺もある。

女房に迎えた経由は別として、清蔵・幾世の方も実在した夫婦である。

清蔵は幾世と夫婦になった後、両国で「小松屋喜兵衛」という屋号で餅屋を営んだ。

清蔵が、焼いた丸餅の上に餡をのせた菓子を売り出したところ、これが評判を生んで「小松屋」は大いに繁盛したという。この餅が、いつしか女房の昔の源氏名〝幾世〟にちなんで「幾世餅」と呼ばれるようになり江戸名物菓子のひとつとなった。

この噺には名奉行「大岡越前守忠相」が登場する後日談がある。

江戸名物となった「幾世餅」だったが、浅草寺境内にも同じような餅を出す「藤屋」という餅屋があった。「小松屋」のあまりの繁盛ぶりに「藤屋」は〝幾世餅の元祖〟はこちらであると商標の独占を求めて奉行所に訴え出た。

奉行の大岡忠相は、「藤屋」が元祖であることを認めつつ、〝幾世餅〟という銘は「小松屋」女房の源氏名に由来するもので商標の分は「小松屋」にあると斟酌した。

そこで奉行が下した裁きは、両店が離れた場所で商いをするようにというもので、「藤屋」は内藤新宿(現新宿区)、「小松屋」は葛西新宿(現葛飾区)への移転を命じた。

この命には両店とも、「こんな江戸の外れでは商売にならなくなる」と、示談とし訴えを取り下げた_現代の新宿も葛西も、当時は江戸の端っこ・外れであった。したがって現世田谷区住民は江戸っ子ではない。

奉行大岡は、この結果を見越して両者移転の命を下したものであり、当時の江戸っ子が喝采した〝大岡裁き〟のひとつとして後世に残る。

一方〝幾世餅〟は明治以降、姿を消してしまい現在は食べることができなくなってしまった。

こういう食べ物の噺は、実際にそれを味わいながら書きたいものである_残念

参考「和菓子を愛した人たち/虎屋文庫」(山田出版社刊)

編緝子_秋山徹