平成三十年 白露
世界のクロサワ
青二才の見守り方
今からちょうど二十年前の1998年9月6日、黒澤明は鬼籍に入った。
その名前に〝世界の〟という冠がついて遜色のない日本人がどれほどいるだろう。
映画界で挙げれば、〈黒澤明〉監督を筆頭に、〈小津安二郎〉〈成瀬巳喜男〉〈溝口健二〉、現役ではアニメ監督の〈宮崎駿〉くらいであろうか。
グローバルって何
〝世界の〟という冠は、取りも直さず〝グローバル〟ということになるだろうが。
では〝グローバル〟とは何か。
それは単に、海外でも名前が知れて有名であるというだけではなく、そのものが日本の文化として認知され、海外で語られているかということである。
そして、我々が思う以上に、〈黒澤、小津、成瀬、溝口〉の海外での評価は高く、人気がある。
たとえば、1952年からBFI(イギリス映画協会)が10年ごとに発表している「世界映画史上最良の作品トップテン」の最新(2012年)の選出では、監督が選んだ部門/1位、評論家が選んだ部門/3位(1位ヒッチコック『めまい』/2位オーソン・ウェルズ『市民ケーン』)に、小津作品の『東京物語』が選ばれている。
経験として、海外で、特に欧米において、黒澤、小津、成瀬、溝口の映画について尋ねられることや、意見を求められることは多い。
そして欧米の人たちの黒澤らに対する見識は高い。
私も黒澤作品は過去の取材の過程で全30作品をかろうじて観てはいるが、他の小津、成瀬、溝口はどうかというと、代表作を含めて二〜三作をかなり以前に観ているに過ぎない。
また、それらの作品について、欧米の知人からかなり踏み込んだ質問をされ、冷や汗をかいたことは一度や二度ではない。
同時に、海外に留学しようという若者のどれだけが、『羅生門』『生きる』『七人の侍』『天国と地獄』『赤ひげ』『影武者』『乱』といった黒澤作品、小津の代表作品『東京物語』、成瀬の『浮雲』、溝口の『雨月物語』を観たことがあるだろうか。
宮崎駿のアニメ映画だけを観ていれば良いというものではないだろう。
国際人、グローバルな人間になろうと留学する若者の中には、日本の文化や習慣といったものから解放され、自分自身の独自の価値観を持ち無国籍人となること、いわば〈日本を捨てること〉=グローバルと勘違いしている若者が多い。
独自の価値観を持つことは決して過ちではないが、大切なプロセスが抜けているように思う。
国際人となるには、まず自分自身の出自を良く知ることだ。
自国の歴史と文化・伝統・習慣を知り、まず、自分なりの『日本人像』を己の中に作り上げること、それを基に世界の多種多様な文化・伝統・習慣に触れることが肝要となる。
そうしないと己の中に確固たる指針が生まれない。
確かな指針がなければ、他国・他民族と文化を語り合い比較することは難しくなる。
なにより、他国・他民族の人間と交わった際に尋ねられることは、〝こういう場合、日本人はどう考えるのか〟〝どう行動するのか〟さらに歴史・文化・伝統・習慣などについてである。
特に、日本独自の〝茶道〟〝華道〟〝着物〟〝歌舞伎〟〝能〟などの文化、そして身近な文化、〝小説などの文芸作品〟や〝映画〟などが話題となる。
またサブカルチャーのコミック、アニメ、ゲームもそうであろう。
これらは国が違っても、共通の言語、話題となる。
この話題の中で、〈知らない〉〈観たことがない〉〈分からない〉ということが多いと「貴方は何人か—」「貴方はどこの人—」と恥をかき、留学生自身に興味を持たれなくなる可能性もある。
他国の人が、「貴方について知りたいということは、日本について知りたい」ということとほぼ同義であることを、多くの留学生が経験する。
実際、留学生が海外から戻った途端に、〝茶道〟〝華道〟〝着物の着付け〟を習い出したり、黒澤の映画を観たり、〝能〟や〝歌舞伎〟といった日本の伝統・文化を勉強し始めるケースが多い。
黒澤明は、自伝的著書『蝦蟇の油』の中で「どうして日本人は日本という存在に自信を持たないのだろう。何故外国のものは尊重し、日本のものは卑下するのだろう」と記している。
戦後、敗戦の中で多くの日本人が古き良き日本を否定して行く中で、黒澤明は日本の伝統を作品で披瀝し続けた。
「戦時中、国粋主義的な観点から、日本の伝統や日本美を賛美する傾向があったがそういう独善的な立場に立たなくても、日本は独自の美の世界を持っていることを大いに誇れると思う。この自覚は私の自信に繋がっていく」(黒澤明著『蝦蟇の油』/岩波文庫)
この日本文化を精神的支柱とした映画作りを続けたことこそが、黒澤明を〈世界のクロサワ〉としてグローバルな存在としたのである。
青二才が好き
この夏、日本映画の生き証人のような二人が続けて亡くなった。
七月十九日に百歳で亡くなった脚本家〈橋本忍〉、八月十日に九十二歳で亡くなった女優〈菅井きん〉のお二人である。
日本を代表する脚本家の〈橋本忍〉は、黒澤映画では『羅生門』『生きる』『七人の侍』などの八作品に参加しており、成瀬巳喜男作品では『鰯雲』など、他に『八甲田山』の脚本を手がけ、『私は貝になりたい』の脚本・演出・監督など多くの作品で知られている。
橋本は生前インタビューで「日本の教育は、優れた批評家を育てることは得意であるが、創造者を育てることは不得手である。批評を恐れず、脚本ならまず書く事、まず創造する事が大事である」と、批評家であることに馴れている若者は、自分の作ったものに対する批評を恐れ、なにより自分自身が自らを批評してしまい自らの創造に躊躇する傾向にある。
これを指導し見守っていくのが我々大人の役割である。というような趣旨を語られていた。
また〈菅井きん〉は、『生きる』『天国と地獄』『悪い奴ほど良く眠る』『赤ひげ』『どですかでん』の五本の黒澤作品に出演するなど、数多くの日本映画、ドラマに出演しているこれも日本を代表する女優である。
菅井さんは、印象に残る黒澤明の言葉として「映画ではね、NGを恥ずかしがってはだめだよ。作家だって、原稿用紙に何度も何度も書き直ししているんだから、NGを怖がることなんかないよ」と、黒澤明の演技指導は非常に厳しかったが、NGを出すこと自体を責めるのではなく、NGを通して演技内容を深めていき、俳優を育てていくという姿勢であったと回顧している。
黒澤明自身も、「私は青二才が好きだ。これは私自身が青二才だからかもしれないが、未完成なものが完成していく道程に私は限りない興味を感じる。だから私の映画には青二才がよく出て来る」と『蝦蟇の油』に記している。
我が『麻布御簞笥町倶樂部』のコンセプトのひとつ『隠居の流儀』に掲げたように、経験と歳を重ねた大人(隠居)は、ジャンルを問わず次世代に己の知見や技術などを伝え役立ててもらうことが、ひとつの使命であるだろう。
〝青二才を見守ること〟こそが我々の役割なのである。
我他彼此/ガタピシ
長い間、擬音を文字にしたのだと思っていた「ガタピシ」が、実は「我他彼此」という仏教用語「我(自分)と他人、彼是(あれ)と此れ(これ)、物事が対峙し、まとまらない状態」であることを、最近知った。
仏教の教えは〈此(これ)あるがゆえに彼あり〉相互関係を重視し、これを円滑にすることにある。
大人と若人の関係も当然これに当たるだろう、互いの関係がギクシャクしては、円滑に進まない。
しかし、最近「大相撲、アメリカン・フットボール、レスリング、ボクシング、体操」といったスポーツの協会で、問題が噴出している。
どれも大人〈親方・監督・コーチ・会長・理事〉と若人〈弟子・選手〉との相互関係の問題である。
若人を見守り導いていく役割の大人たちが、無私の精神どころか、私欲のため若人に乗っかっているように「我他彼此」見えるのは、私だけであろうか。