令和六年 夏至
かつて東京で

ONCE UPON A TIME IN TOKYO
虎が雨と狐の嫁入り
夏至_夏に至り、夏越しの大祓も近い。
例年、関東の梅雨入りは六月上旬の七日あたりが平均であるそうだが、今年は十日以上遅れた今日も梅雨入り宣言はない。本年は全国的に遅いようで、九州の北部と四国までは梅雨入りしたそうだが、これを記している本日六月二十日の時点で中国以北はまだ梅雨入りに至っていないとのことである。
気象庁によると、関東甲信の過去最も遅い梅雨入りは、1967年と2007年の6月22日ごろで、記録的に遅い梅雨入りとなる可能性があるという。(6月21日に無事梅雨入宣言がなされた)
梅雨とは旧暦の五月に降る長雨で、五月雨(さみだれ)または梅霖(ばいりん)と呼ばれる。二十四節気の芒種のあとの壬(みずのえ)の日が入梅であり、夏至を挟んだ小暑のあとの壬の日が梅雨明けとされた。これを新暦に換算すると立春(二月四日ごろ)から百三十五日目(六月11日ころ)が入梅の日でそれから三十日間の期間が梅雨とされる。
これに対し気象上の梅雨の期間は年によってまちまちで一定しない。世界的にみると中国揚子江の中下流域と北海道を除く日本特有の霖雨(りんう)である。梅の実が熟す頃に降るので梅雨の字が当てられ、黴(かび)が生える時期でもあるので黴雨(ばいう)とも呼ばれる。
一般生活には鬱陶しく感じる季節であるが、自然の景観やとりわけ農作物の中心である稲作、熱帯性水生植物である稲には必要不可欠な長雨である。梅雨がなくては稲作は始まらない。
夏至から十一日目、太陽暦で七月二日頃に降る雨を「半夏雨(はんげあめ)」と呼び、この雨は大雨になることが多い。地方によっては「半夏水」とも呼ばれる。
梅雨の最中の陰暦五月二十八日に降る雨を「虎が雨」という。1193(建久4)年五月二十八日、曾我十郎祐成(すけなり)と五郎時致(ときむね)の兄弟は、源頼朝が行った富士の裾野の巻狩に乗じて、父の敵である工藤祐経(すけつね)を討つ。能・狂言・歌舞伎の演目として人気のある、いわゆる蘇我物と呼ばれる物語に因んでおり。曽我兄弟は本懐を遂げるが同日二人とも死んでしまう。十郎祐成の愛した遊女「虎御前」が、祐成を想い流す涙雨としてこの日の雨を「虎の雨」と呼ぶそうである。蘇我物が庶民の間に人気のあった近代までは、普通に使われていたというが、悲しいかな現代で使う人は限られている。
梅雨の時期とは限らないが、空は晴れているのに雨が降っている天気雨を「狐の嫁入り」と呼ぶ。晴れているのに雨が降るという、この化かされているような天候状態を、人を騙し化かす狐の仕業という意味で名付けられた。
そういえば、この「狐の嫁入り」という題名の演目を三十年以上続けていた「ギャルソン・パブ」というショーパブが住友三角ビルにあった。ビルの解体・建替に伴い閉業したが、新宿にある同グループの「黒鳥の湖」に引き継がれていた。しかし、コロナ禍によりこちらも閉業してしまう。そして、スポンサーを見つけコロナ禍の中どうにか再開にこぎつけたグループのメイン店舗「六本木金魚」で新たに演目が受け継がれた。三店舗あったショーパブが一店舗に集約され、これでどうにか落ち着くのかと思っていたところ、悲しいかな今年の五月末に「六本木金魚」も廃業となってしまった。
コロナで営業がままならず休業を余儀なくされ、再開後はスポンサー企業との折り合いが悪く、自主操業を試みたが、ついに万策尽き〝弓折れ矢尽きる〟というところである。このようにコロナ禍で姿を消したショーパブは多い。
「六本木金魚」「黒鳥の湖」「ギャルソン・パブ」を運営するグループには少なからず個人的に縁があった。社長を務めていたMさんは、同じ歳で郷里も近くよく呑んだ。副会長のTさんは私が水商売にいた20代の頃、親方筋にあたる人でお世話になった。この正統派レビューのナイトクラブのグループを一から作った谷本会長とは何度か酒の席をご一緒した。
そして、この谷本会長の実姉が日新物産グループ総帥の池口麗子である。
ワンスアポンナタイム
かつて東京の夜の世界に一大帝国があった。池口麗子率いる日新物産グループである。池口麗子は〝大阪のクラブ界で旋風を巻き起こし、勇躍、東京に進出を果たした女傑〟と彼女の客の一人であった小説家の花登筐に言わしめ、花登は池口をモデルとした『銀座牝(めす)』https://amzn.to/3KWzpkwという作品を書いたほどだった。東京に進出した池口は、やがて、レビューショーを観せるレストラン・シアター「コルドンブルー(赤坂)」「クリスタルルーム(ホテル・ニューオータニ)」「クレイジーホース(六本木)」やディスコ「ツバキハウス(新宿)」「キャッスル(六本木)」などの大型店舗30店以上を都内に展開するグループの女帝となった。
特にフレンチのフルコースとレビューショーを提供する「コルドンブルー」は、50年前1971年のオープン当初から客単価一人五万円という金額でありながら、連日満席であった。ショーの演出・照明・振付師・ダンサーにテレビや舞台で活躍する一流のスタッフが集結し、メインゲストに前田美波里、秋川りさ、夏木マリ、今陽子、ピーター、大信田礼子、鹿島とも子、カルーセル麻紀、沢たまき、引田天功、辺見まり、山本リンダなどの豪華キャストが出演。幕間に演られるコントにも早野凡平、内藤陳、小野やすし、東京ぼん太などがいて、とんねるず、シティボーイズ、清水あきら、中村有志などここから巣立ったコメディアンも多い。
フランク・シナトラやジョン・レノンとオノ・ヨーコなど国内外の多くの有名人が足を運んだが、アントニオ猪木と対戦するため来日していたモハメド・アリがダンサーの一人を気に入って毎晩通い詰めたというのは有名な話である。
前出のT副会長は長らく「コルドンブルー」の総支配人をされていた。私の最初の結婚の時に二次会をTさんのご好意で「コルドンブルー」で開かせていただいた。もちろんフルコースではなく軽いつまみと呑み物だったが、通常の10分の一ほどの破格の予算だった。その時のメインゲストが秋川りさで幕間のコントが売れる前のとんねるずだったのを覚えている。今思い出してみても「コルドンブルー」には場違いな集団だったように思う。
時の流れは、ときに閃きを与え、ときに容赦無く冷酷に輝きを奪い去る。ショービジネスの宿命は、世代交代による血の入れ替えと、更なる高みを求めての方向転換が繰り返し求められることにある。隆盛を誇った「コルドンブルー」も1991年その幕を閉じた。
池口麗子のシアターレストランの流れは、実弟の谷本会長が引継ぎ、新たにトランスジェンダーのダンサーの要素を加えて「六本木金魚」「黒鳥の湖」「ギャルソンパブ」が誕生した。しかし、今年、その流れも30年以上の歴史に幕を閉じた。正統なレビューを観せる店が日本にあとどれくらいあるのかを私は知らないが、確実にひとつの時代が終わったのを痛感する。娯楽の文化には終焉があるということか。
編緝子_秋山徹