令和六年 大暑
黒い真珠
French Polynesia
蝉時雨
大暑_梅雨があっけなく明けた。作物への影響はなかろうか心配である。主夫にとって野菜の不作はそのまま価格に反映され、家計と献立に直結するのである。今年は晩春から初夏にかけてキャベツが異様に高かった。
しかし、毎年思うことだが、この節気「大暑」というネーミングはどうにかならぬかと思う。〝大いに暑い〟では身も蓋もなかろう。
梅雨が明けたのに蝉が鳴かぬ。一時期気温が下がったので、地中の温度が上がらぬのだろう。蝉が鳴くのと梅雨の雨には因果関係はなく、夏の晴れた日が幾日続き地中の温度がどれだけ上がるかにあるかと知ったのは最近のことである。それまでは、梅雨が明けると蝉が鳴き、蝉が鳴くと梅雨が明けると信じていた。蝉には体感的に梅雨明けを感知する感覚が体内にあると思っていた。
約7年の歳月を幼虫として快適に過ごした後、地上に出て脱皮し、成虫としてわずかな期間を過ごして死にゆく蝉。我々が聞く蝉の鳴き声は、末期の断末魔の叫びに外ならない。終の短い日々を我々は目にするのみである。木の幹に残る脱皮の抜け殻〝空蝉〟を見つけたりすると、諸行無常を感じる。爺いになった。
だが、蝉の合唱〝蝉時雨〟は〝風鈴〟や〝花火〟と同じく夏の風物詩である。〝蝉時雨〟のない夏は、なんだか間の抜けたものだろう。朝露乾かぬうちから聞こえる蝉の声に夏の日は始まり、短夜がやってくる手前まで鳴き止まぬ声に夏の暑さは一入となる。厳しき暑さも蝉時雨で一層となり心に落ちるのである。
夏の日に相応しく、南の島の噺をひとつ。
タヒチ
前回のコラムで、三十年前に独立した時の話を書いた。独立当初、事務所を維持するため、本来の編集プロダクションの業務以外に、事業企画書制作の請負、パリとフィレンツェの免税店の日本事務所など複数の業務を行なっていたと、実は、さらにもうひとつ、これは主に家人の業務であったが、フレンチ・ポリネシアの黒真珠養殖場の日本事務所もやっていた。とにかく事務所維持の足しになるものは何にでも手を出していた。
黒真珠養殖場の日本事務所と言っても、別に日本で黒真珠販売や販路の開拓をするというのではない。養殖場に働く日本人技術者の連絡窓口というのが主な仕事である。
世界最大の黒蝶真珠の輸出国であるフランス領ポリネシア(French Polynesia)は、世界の黒真珠の90%以上のシェアを誇り、1990年代の最盛期には年間8トンから10トン、金額にして200億円以上の輸出を記録した。
フレンチ・ポリネシアには大小合わせて118の島があり、最大の島と都市は、タヒチ島と同島にあるパペーテである。タヒチ島には黒真珠の養殖場はなく、観光業で栄える。パペーテには国際空港とフランスや欧州系のラグジュアリーホテルが多く、カジノもある。
家人が日本事務所を受けていたのは、タヒチ島から飛行機で2時間ほど飛んだ島からさらにモーターボートで30分ほど疾ったマニヒという島の養殖場であった。島は三日月の形をした弓形の縦長の島で、海抜ほぼ0m、縦の長さが1km、幅が200mほど、島のまわりを一周するのに30分もあれば充分な小さな島である。
養殖の作業場は、船着場から伸びた桟橋の先の水上にあった。スタッフは技術者で日本人が10名、現地のタヒチアンが同数。他に下働きのタヒチアンが20名ほどいた。島の真ん中にある桟橋を境にして、南側に日本人の住居、北側にタヒチアン・スタッフの集落、その先にオーナーが養殖場に来た際の立派な家屋があった。
日本人の住居は、中央に食堂と娯楽室を兼ねた家屋があり、その周りに各人のバンガローが点在していた。以前は水上バンガローであったのだが、大きな嵐でバンガローごと全て流されてからは陸上になった。リーダーのNさんだけが妻帯者であとは皆独身であった。
御木本幸吉が真珠養殖の技術を確立させてから、真珠の養殖場では日本人技術者が中心であった。これは日本人の正確さと手先の器用なところが技術者に向いていたからであろう。
真珠の養殖を簡単に説明すると、白蝶貝(通常の真珠)または黒蝶貝(黒真珠)の殻を少し開いて固定し、中の貝の身を少し切ってそこに〝核〟と呼ばれるプラスチックの小さな球を入れる。すると貝は体内に入った異物が痛いので、痛みを和らげるためこの異物の周りに分泌物を纏わせる。この球を仕込んだ貝を海中に戻して1年後に引き上げ貝の身を裂くと中から真珠が現れるのである。
もちろん、全ての貝から真珠が生まれるのではない。ましてや綺麗な球体で出てくる確率は少ない。歪みのない球体で、より大きく色艶の良いものは、それだけで大変高価になる。球体でなくとも形の面白く色も良いものは、それはそれで高値がつく。この歪んだ真珠をフランス語で〝バロック〟と呼ぶ。中世ヨーロッパの調和と均整の取れたルネッサンス様式に対し、16世紀の動的な文化様式であるバロック様式は、これから名が取られている。
この真珠の出来栄えについては、核入れから一年後に如実にその差が現れる。核を入れる場所は同じはずなのに、人によって大きな差が出るのである。身の切り方、核の入れ方と場所、微妙な感覚で出来栄えが違う。これは教えて出来るものではないという。もちろん数をこなすという経験というのも大きいが、一年二年しかやっていなくても、大きくて色艶の良いものを何百と作る者がいる。技術者の給料は、この真珠の出来栄えにより各人異なる。品質の良いものを多く作った若い技術者の給料が長年やってきたリーダーの給料を超えることも珍しくない。中には5年ほどで都内に一軒家を購入した技術者もいる。また、この差は日本人技術者とタヒチアンとの間でも起こる。日本人が核入れした真珠の方がはるかに品質が良いのである。
以下、次号立秋に続く。
編緝子_秋山徹