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平成三十年 寒露

2018年10月8日

ほくらの「体育の日」

オリンピック考

体育の日

本日10月8日は、二十四節気の「寒露」であるとともに『体育の日』の祝日でもある。

東京オリンピックの開催を記念して、開会式が行われた10月10日が『体育の日』の祝日と制定されていたが、2000年からは居酒屋のハッピーアワーならぬ「ハッピーマンデー」という制度の適用で、10月の第2月曜日となっている。

2020年からは、次期東京オリンピックの開会式にあわせて7月24日が祝日となり「スポーツの日」と名称も改まるそうだ。

昭和39年の〝東京オリンピック〟を、テレビにかじりついて見ていた我々の世代(私は小学二年生であった)にとっては、〝スポーツ〟よりも〝体育〟という言葉の響きの方が、昭和の香りを感じしっくりくるのだが、祝日とは過ぎ去った時代と出来事を懐古するという意味合いもあるだろうに、政府が率先してカタカナに変えてしまうのは如何なものか。

これでは1964(昭和39)年東京オリンピックの思い出がカレンダーから消えてしまうようで悲しい。

いつからオリンピックは〈夏季〉に

この「体育の日」10月10日で思いにいたるのが、オリンピックの開催時期の問題である。今年の酷暑でも危惧されていたのが、この酷い暑さの季節の東京で、世界中からアスリートが集う国際スポーツ大会を開催して本当に良いのか、危険ではないのかということだ。

気象庁の「屋外での運動は避けるように」という注意報が出る時期にやることが、果たして今流行りの選手ファーストとなるのだろうか。

耳障りだけは良い〝選手ファースト〟という言葉が、昨今の各競技団体のパワハラ問題などを見聞するにつけ虚しく響くと同様、このオリンピック7月下旬開催には同じ思いを抱いてしまう。

54年前の東京大会が10月に開催され、それが賢明な判断であるはずなのに、なぜ今回は7月下旬の開催なのか、夏季オリンピックというのは夏に開催されなければならないのか、という疑問が残ったので過去31回の開催時期を調べてみた。

そもそも第1回目のアテネ大会が4月6日と春の開幕である。第2回パリ大会と第3回セントルイス大会が万博との併催でそれぞれ5ケ月半(春開幕)と4ヶ月半(夏開幕)、第4回のロンドン大会に至っては6ヶ月(春開幕)、第5回ストックホルム大会が2ヶ月半(春開幕)、第1次世界大戦で中止の第6回ベルリン大会を挟んで第7回アントワープ大会が1ヶ月(夏開幕)、第8回パリ大会が2ヶ月半(春開幕)である。

1924年第8回までの開幕時期は春開幕が5回/夏開幕2回/中止1回となり、1928年第9回アムステルダム大会以降、春開催がなくなって競技期間はほぼ15日間の開催となる。

また第9回から第31回までをみると、第二次大戦で中止となった第12回と第13回を除き、7月開幕が10回、8月開幕が6回、9月開幕が2回、10月開幕が2回、11月開幕が1回という内訳になっている。

通してみると第8回パリ大会までの初期は春開催が中心で、第9回以降は夏開催が圧倒的に多いがそれでも、9月を含めた秋開催も5回ある。

この夏開催が圧倒的に多くなった理由として、以前何かで聞いた話では、アメリカの巨大テレビ・ネットワークの圧力があると聞いたことがある。テレビ視聴率の稼ぎ頭のひとつに、MLB(野球)・NFL(アメリカン・フットボール)・NBA(バスケットボール)・NHL(アイスホッケー)のアメリカ4大スポーツ中継がある。

10月は、このうちNFL(9月開幕)・NHL(10月上旬開幕)・NBA(10下旬開幕)の3つがシーズンを開幕したばかり、そしてMLBはワールド・チャンピオンを決めるポストシーズン真っ只中で一番盛り上がっている時期である。

当然、視聴率を稼がなければならない時期であり、巨大スポンサーもつく、この大事な時期にオリンピックなど開催されて視聴率が分散すれば、死活問題となるので〈10月開催〉は絶対に認められないというのである。

これが顕著に現れた例として、先の平昌冬季オリンピック大会では、テレビ中継がアメリカのゴールデンタイムになるように時差調整され、人気のある競技種目の「フィギュア・スケート」の競技開始が午前中になったり、「スキー・ジャンプ」の競技が夜に開始されたりした。

テレビの視聴システムが、ケーブル・テレビや番組毎の有料放送にシフトしている現在では、尚のことであろう。

他方オリンピック大会の開催国としては、国内経済への間接的な経済波及効果が見込めても、オリンピック大会自体の収支は赤字かそれに近いという。
いきおい高額のオリンピック放映権料は大きな収入源であるから、大口のアメリカ・テレビネットワークの機嫌を損ねるわけにはいかず、IOCも開催国オリンピック委員会も彼らの望む夏季開催になってしまうという。

なんのことはない、選手のパフォーマンスや身体の影響などは二の次で、完全な〝マネー・ファースト〟である。

確かに国にとって大赤字を避けなければならないという理由も判らぬでもないが、しかし、それでも次期東京オリンピックは7月24日ではなく「せめて20年前のソウル大会同様9月開催とならなかったのか」という思いが残る。

酷暑の悲劇

酷暑の惨劇_1912(明治45)年第5回ストックホルム大会/男子マラソン

我々が心配する酷暑により、悲惨な結果を生んでしまった大会がある。

1912(明治45)年5月5日に開幕した第5回オリンピック・ストックホルム大会は、開催期間2ヶ月半と長かったが、男子マラソン競技の開催日が悪かった。

7月14日の男子マラソン競技には、19カ国から68人の選手が出場した。

この日のストックホルムは記録的な暑さで、気温40度、日陰でさえ32度を計測する1日となった。参加選手のうちほぼ半数の33名が途中棄権する事態となり、中には競技中で気を失うものまで出た。

ポルトガル代表のラザロ選手は、30キロ地点の給水所を過ぎたゴール前8キロの場所(当時のマラソン競技は38キロで競われていた)で倒れて意識を失った。病院に搬送されて夜通しの治療を受けたが意識が戻ることはなく、その翌朝6時に死去した。

近代オリンピックが開催されて以降、初めて死者を出してしまった競技となった。

この悪夢が再び起こらないことを祈るのみである。

金栗四三/かなくり・しそう

〝世界最長時間マラソン記録保持者〟−金栗四三/かなくり・しそう

ストックホルム大会から55年後の1967(昭和42)年、スウェーデン政府はオリンピック開催55周年を記念した式典の開催を計画した。

開催に際し当時の大会記録を追っていくうちに、不慮の事故が起きた〝男子マラソン〟においてひとりの日本人選手が記録上「競技中に失踪し行方不明」になったまま、ということが判明した。

その日本人選手の名は金栗四三、顛末は以下である。

金栗 四三(かなくり しそう)、[熊本県玉名市出身/1891年(明治24年)8月20日 – 1983年(昭和58年)11月13日)]は、当日のレース途中に日射病のため意識を失って倒れたところを、近くの農家(ペトレ家)で介抱された。
金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。
金栗はレースを諦めて、そのまま帰国した。
そのため大会運営側に棄権したという記録が残らず、競技中に行方不明となったままであった。

いわばまだ金栗四三はコース外のどこかでマラソン競技中なのであった。

そこでスウェーデン・オリンピック委員会は、金栗を式典に招待して競技場でゴールさせることを決め、この招待に応じた金栗はストックホルムに赴いた。

1967年3月21日、「ストックホルム・オリンピック開催55周年を記念式典」で、金栗が競技場に用意されたゴールテープを切った瞬間、

「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」

という場内アナウンスが響いた。

五輪全日程終了までの期間としても史上最長。

近代オリンピック史上最も長時間のマラソン競技記録が誕生した瞬間である。

金栗のゴール後のスピーチがまた良い「長い道のりでした。その間に嫁をめとり、子供6人と孫10人ができました」

なお、この式典から45年後の2012年、ストックホルム大会100年記念マラソンに、金栗のひ孫にあたる蔵土義明さん(25歳)が招待され参加し、金栗を介抱した農家の子孫(ひ孫)タチアナ・ペトレさんが、100年前の衣装に身を包み、蔵土さんをコース沿いのテントに招き入れ当時と同じもてなしをしたという。「熊本県玉名市『広報たまな特別号Vol.5』より」

人間、齢を重ねると重要であるのは「知識」よりも「智慧」であることを知る。

ストックホルム大会記念式典の運営チームは、諸々の大会記録とともに金栗の行方不明という記録_「知識」を得た。そして、金栗を日本から招待して式典でゴールさせるという「智慧」を発揮した。

この「智慧」は、単なる式典を盛り上げる演出のみならず、マラソン競技に参加していた当事者のひとりである金栗とともにゴールインすることで、55年前の大会中に起こった不幸な出来事の幕を引くこととなり、大会を知るスウェーデン国民の中の暗い思いを払拭させ、第5回ストックホルム大会を真の意味で無事終了に導いた「智慧」である、と私は考える。

この原稿を書く過程で、来年の『NHK大河ドラマ』の主人公の一人が、金栗四三(演じるは中村勘九郎)だと知った_なんだか番宣みたいになってしまった。

次回もオリンピックつながりで、個人的に日本人金メダリスト史上もっとも魅力的な人物だと思う_バロン西について

編緝子_秋山徹