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平成三十年 穀雨

2018年4月20日

あなたの風、わたしの風

ブータン「GNPよりもGNHを重視した国」

GNH/Gros National Happine

もう七年前の話になるが、新婚のブータン国王夫妻が来日された際に話題となったのが、国民総幸福量〈GNH/Gross National Happiness〉という基準だった。
私同様、初めて聞いた日本人も多かったはずだ。

GNHは、もともとブータンのジグミ・シンゲ・ワンチュク前国王が提唱したもので、経済的な指針である国民総生産〈GNP〉や国内総生産〈GDP〉に対し、国民の幸福度〈Happiness〉に重きをおくという、世界的にも認知されたユニークな指標である。

「豊かさ」の尺度を、お金や経済ではなく、精神的な幸福感だと定義して、国民の充実度合や満足感を満たすことを第一とした国策を施すブータンという国に、羨望や憧れのような感情を持ったのは、私だけではあるまい。

ブータンの政策は、「伝統文化や自然を保護しながら近代化とのバランスをとる」という思想のもと推し進められているという。

具体的には次の三項が、憲法に成文化されているらしい。

〈公の場での民族衣装着用義務〉
〈国土面積の6割以上の森林を残す〉
〈国王の65歳定年〉

内容は根源的である反面、とても明確にかつ潔く国のあり方の姿勢を示していて、ブータンという国は〈幸せの基準〉を知る、知性ある豊かな国であると、私には映るが如何であろうか。

公の場での民族衣装の着用の義務化と、6割以上の森林を護ることを具体的に憲法に明文化することで、自然と伝統文化を保護の方向性を国内外に分かり易く示していて賢い方法であるし、何より国民が自らの総意として、国の在り様と方向性をシンプルかつ明確に国と共有することができる憲法となって入る。

また国王の定年を65歳と憲法に明文化することは、悪政を防げる良い方法ではないだろうか。最近、ロシアと中国が最高権力者の任期を無制限にしたのとは、大きな違いである。

ブータンの国章

ワンチュク前国王にはこんな逸話がある、昭和天皇陛下が崩御されて「大喪の礼」に来日された際、他国が弔問外交に精を出している中、前国王は一切活動をされなかった。

日本のメディアがなぜかと問うと「私は裕仁天皇陛下のお悔やみに訪問したのであって、金の無心に来たのではない」と話されたという。

もちろん、これには異議のある方もおられるだろうが、私はこの前国王の気概にかくありたいと思う。

また、東北大震災の折には、それこそ彼の国のGDPからすれば過分な義損金百万ドル(日本のGDPに換算すると百五十億円に相当するという)を、いち早く寄付してくれたのはブータンである。

日本と比べれば経済的には貧しいかもしれないが、ブータンには、強い意志と矜持、寛容と慈愛の精神が見て取れる。やはり〈豊かな国〉と言わざるを得ない。

道徳は風

最近、日本を訪れる外国人観光客が急増するにつれ、良く耳にするのは、日本人の誠実さである。

曰く、タクシーや買物の際にお釣りをごまかさない、貴重品の落し物や忘れ物が手元に戻ってくる、本屋の外に並べられている本が盗まれない…等々。

何より海外メディアが一番吃驚していたのが、東北大震災の際に津波によって流された金庫5700個が、中身の現金合計23億円ごと警察に届けられられたというニュースであった。

以前、日本の大学で教鞭をとる欧米人教授の、日本人のこの性質に関するコラムを読んだことがある。

この教授が地方講演の帰りの新幹線に、主催者からお土産にもらった日本酒を忘れたところ、後日、この日本酒を保管しているという連絡がJRからあったという。

日本酒と一緒に、教授の名刺数枚が一緒に落ちていたため、わざわざ連絡してくれたらしい。
東京駅の忘れ物センターに受け取りに行き、受付の係員に、感謝とともにまさか届けられていると思わなかったと言うと、係員は届けられた忘れ物を保管してある部屋を特別に案内してくれたという。

そこには、高価なカメラや宝石など貴重品の数々と、持ち主が不明な現金入りの財布が山ほど置かれていて、連絡をもらったことと合わせて、とても驚いたとコラムに書いていた。

そして教授は、「道徳は空気」である、と述べている。

この美徳は、日本人の「人のモノを拾ったら、拝借せずに届ける」という意識が、「勝手に拝借してはならない」という行動規範〈雰囲気〉を社会全体に与えていて、社会が醸し出している〈雰囲気〉こそが〈空気〉であるというのである。

しかし、この教授はコラムの最後で、残念ながら最近日本人の気質も変わってきているので、日本人も国内の防犯に対する意識・対策を変えた方が良いのではないか、と結んでいた。

これには、私は異論がある。

確かに、空気は時に澱み変質するが、その空気を醸し出したのが人ならば、澱みをまた澄ますことができるのは人であろう。

私は「道徳は風である」と思う。

風は空気の移動である。そして、常に動き移動している。

良きにつけ悪しきにつけ、その時代その時代の風が吹く、しかし悪い風は、我々の一人一人の心がけで変えることができる。

凶悪犯罪を犯した者がいたとしたら、彼だけをあげつらい責め立てるだけではダメだと思う。

なぜなら、我々がそういう風を吹かせてしまったのに違いないから、おのれ自身の反省も必要となる。

悪事を働いた人間を赦せというのでは決してない。

私は、我々一人一人がその行ないを許さないという強い意志を持てば、それは風となり、その風が吹く社会の中では人の悪事は減ると信じている。

欧米は〈罪の文化〉であって「最後の審判」で罪を神に裁かれ罰を受けることを恐れたり、悔い改めることを求められたり、罰を受けるという受動的な意識が強い。

これに対し日本は〈恥の文化〉で、おのれの行ないに対して、自身の中にある善悪の尺度など、内面から滲み出たものから自発的に罪の意識を感じ、罪は〈恥〉という最も蔑まされるものへと転化して耐え難いものとなる。
人は他人を騙せても、自分自身に嘘はつけないからである。

経済産業省、防衛省の文書改ざん・隠蔽問題、大相撲協会や日本レスリング協会の騒動などは、役人や与野党の政治家、はたまた協会関係者など全体の風の質がよろしくなく、澱んでいるから起こったのであろう。

そして、よろしくない質の風が吹いた責任の一端は、われわれにもあるということだ。

最近の日本のニュースに触れて、ふとブータンのことが頭に浮かび、改めてブータンの国民総幸福量を第一とする国策は、質の良い風だと感じ入った。

道徳は、文化・気質というものを構成する大切な風土のひとつであり、その地域に流れる風である。

編緝子_秋山徹