1. HOME
  2. 24節気に想ふ
  3. 平成三十年 立冬

平成三十年 立冬

2018年11月7日

バロン西

金メダリストは爵位の不良騎馬将校

バロン西が愛馬ウラヌスとともに〝寒露〟から〝霜降〟を飛び越えて、無事〝立冬〟に着地した。
さてバロン西のお話である。

優雅なる競技_馬術・障害飛越え

かつてオリンピックの最終競技は「馬術」それも障害飛越個人決勝と決まっていた。競技は閉会式会場で行われ、馬術の表彰式が終わってから、閉会式が開始されると定められていた。オリンピック大会の中で唯一動物を扱い、かつ最も優雅な競技が伝統的に閉会式の直前にオリンピックスタジアムで行われていたのであるが、1984年の第23回ロサンゼルス大会以降、その麗しき伝統は失われてしまった。

幼い頃のオリンピックの記憶として、1968年メキシコ大会の閉幕式があるが、確かに衛星中継は障害飛越個人から始まり、その後に閉会式が放送されたのを覚えている。馬術の障害飛越、それは、九州の片田舎に住む小学6年生の私の目には憧れとともに「一生自分には縁のない競技」だろうなと映ったことを、なぜか鮮明に覚えている。

家畜保健所勤めだった私の父親は、保健所の牧場で馬に乗っており、私も一緒に乗せてもらったりしていたのだが、その馬乗りと障害飛越競技は全く世界観が違っていて、悲しくなるほどの隔たりがあった。同じく馬に乗っているからこそ感じる決定的な差を、否応無く突きつけられたのだった。

その優雅なる馬術・障害飛越個人で1932年第10回ロサンゼルス大会最終日、閉会式直前のスタジアム10万人余の見守る中で金メダルを授与された日本人がいる。

陸軍騎馬隊中尉 西竹一 男爵/1902(明治32)年7月12日生、その人である。

大観衆の中 跳躍する西竹一中尉とウラヌス/ロサンゼルス・オリンピック大会

軍人は時代のトレンドセッター

西竹一が男爵という爵位を授かったのは、明治45年3月15日、父・西徳二郎の死によってであった。この時竹一の齢わずかに10歳。

父の徳二郎は薩摩藩出身の士族で、外交官などを経て北京特命全権大使として中国に赴任する。その着任中『義和団の乱』が起こり、この鎮圧に務めた。

この事件を題材とした1963年のハリウッド映画『北京の55日/主演チャールトン・ヘストン、共演/エヴァ・ガードナー、デヴィット・ニーブン』にも西大使として登場する。

西大使は、この『義和団の乱』の際に、時の〝西太后〟からの信頼を篤くし、中国茶の日本への独占販売権を与えられて巨万の富を築く。

父、徳二郎の葬儀には明治の錚々たる面々が参列している。
首相の西園寺公望公爵、山縣有朋、桂太郎、井上馨、板垣退助、原敬、東郷平八郎、乃木希典—などなど、この顔ぶれだけで、徳二郎の明治政府における勲が知れる。

徳二郎の死後、10歳の竹一に遺されたのは、爵位とともに、麻布櫻田町の自宅とその周囲一万坪(麻布御簞笥町にほど近い現在の麻布税務署を含む麻布笄小学校に隣接する一帯)と借家50軒、熱海や鎌倉の別荘などの不動産や株券を含む莫大な財産であった。

周囲からは父の跡を継ぎ外交官になるだろうと思われていた竹一だが、陸軍幼年学校に入学する。やがて、乗馬に強い興味を持ち陸軍騎兵学校へと進み、そののち陸軍騎兵少尉に任官した。やがて、馬術の中でも障害飛越え競技に際立った才能を発揮するようになり〝天才〟と称された。

この頃、習志野の騎兵学校には、フランスのソミュール騎兵学校や、イタリアのピネローネ騎兵学校に留学した経験を持つ教官がおり、バロン西はこうした教官にも恵まれますます技術を伸ばしていった。

やがて彼は、ドイツ式、イタリア式、フランス式という乗馬法がある中で「バロン西式」ともいえる彼独自の乗馬法を生み出し、現在ではこの「バロン西式」が主流となっているという。もともと乗馬競技というものは欧州で生まれ発展したものである。そのような中で、極東の日本人が生み出した流儀・乗馬法が主流となるのは画期的なことである。

この時代の軍人は垢抜けている。欧米の軍備・軍術とともに欧米文化や遊びをいち早く吸収したのは軍人たちである。

私の祖父は〝日清戦争〟生まれの職業軍人であったが、古いアルバムに、その頃アメリカ経由で入ってきた麻雀やビリヤードに興じる写真が残っている。

スポーツも、野球をはじめとして、バスケットボール、バレーボールのゲームが士官学校で行われていたようだ。

軍服姿の写真にも、ピカピカに磨かれた軍靴に仕立ての良いコートを羽織っている姿のものがある。

このころの軍人は、いわゆる時代のトレンドセッターであった。

当然財力が潤沢にあり、麻布育ちの都会人・青年騎馬将校・西竹一は持ち前のセンスと洒脱さを大いに発揮し、残された逸話は多い。

自動車は、クライスラーやリンカーンを乗り廻し、バイクはハーレー・ダヴィットソン、毎夜、友人や将校仲間と銀座のバーや赤坂・新橋に繰り出し、芸者やホステスを引き連れて銀座・築地川に係留してあるジョンソン社製の高速ボートで深夜の東京をすっ飛ばしたという。

また、ブーツを含む馬具一式は、パリ「エルメス」で特注したものを揃え。身に付けるものは軍服から軍帽に至るまで、全てを欧州で特注仕立てで誂えた。

周知の通り、もともと「エルメス」はフランスをはじめとする欧州貴族のための馬具屋である。もちろん現在でも馬具を販売していて、鞍やブーツなど一式を揃えると、既製品でも二百万以上かかる。当然特注・オーダーメイドとなるとその価格は跳ね上がる。

オーダーメイドの乗馬服などは、店内にある鞍にまたがった状態でなど徹底した採寸が行われる。

これを80年前にやってのけた日本人はなかなかいない。

エルメス/馬術の世界
http://www.maisonhermes.jp/feature/570649/

バロン西は、馬術のパートナー選びにも妥協しなかった。
軍から半年の休暇をもらい、名馬を求めて欧州を巡った。

もちろん自費である。

そしてイタリアで生涯の愛馬「ウラヌス」との運命の出会いを果たし、ウラヌスとともに挑んだロサンゼルス大会で、見事金メダルを獲得するのである。

愛馬ウラヌスとバロン西

この旅では、2年後のオリンピックの下見も兼ねて、最初にロサンゼルスに滞在してからニューヨークに移動、そこから航路欧州に向かったのであるが、この船旅の最中生涯の友となるハリウッドスターのダグラス・フェアバンクスと邂逅する。

意気投合した二人は、一等船客専用甲板を借り切って素っ裸で〝ターザンごっこ〟をしたというのだから、この両者_只者ではない。

やがて日本は太平洋戦争へと突入していく、バロン西のような派手で破天荒な性格の人間が、戦時下の軍部に受け入れられるはずもなく、少佐となった彼は満州最前線の荒野に転属させられる。

騎馬隊は戦車隊へと様変わりし、戦況が最終局面の中、硫黄島守備の戦車隊隊長としてバロン西は着任する。

その時の出立ちは、エルメスの乗馬ブーツに馬用の鞭という、アメリカ戦車軍団パットン将軍と同じであったという。

いよいよ明日、アメリカ軍が総攻撃を仕掛けるという時、「バロン西、あなたの名誉は保たれた。我々は貴下を殺すことはできない。どうか投降してください」というアメリカ軍の放送が硫黄島中に響いたという。

しかし翌日、バロン西は降伏することなく、アメリカ軍に突撃して戦死する。

2006年のクリント・イーストウッド監督作品『硫黄島からの手紙』にもこの逸話が描かれている。(バロン西は井原剛志が演じている)

古今東西、大金持ちや成金は数多(あまた)いるが、洋の東西を問わず好かれる漢(おとこ)は稀である。

漢の基準〈スタンダード〉

バロン西こそが、見事な己の「基準」を持つ漢であったからこその所以である。

「基準(スタンダード)」を持つことは、その人の矜持、姿勢、謙虚さ、優雅さとなり、それはすなわち「判断停止(エポケー)」と「自己アイデンテティの確立」に直結している。

最近の出来事、ジュリーこと沢田研二の公演キャンセルの件も、彼の基準の中の問題である。
人の基準はそれぞれ違う、ひとつの事を成して全ての人に賛同されることはあり得ない。
誰に信じ・支持してもらうか、誰に信じられなくとも・支持されなくとも良いか、それは各個人の基準に沿った覚悟でもある。
この己の基準を曲げて行なった結果には常に、己の後悔がそこに生まれる。
結果がうまくいこうとも(多くの場合失敗するが_)、自分に嘘をついた悔いはずっと残るのである。

ジュリー(沢田研二)の場合も、今回のことで彼を支持するファンと支持しないファンがいて、支持しないファンが離れて行ってもそれは詮ないことで、ジュリーは己の基準に法って今までもそうしてきたように、これからもそうしていくのであろう。

それがジュリーであることの証明であり_長くショービジネスの世界で生きてきた彼の基準であり矜恃である。

だからジュリー、せめてもう少し痩せていただきたい!

シリアで武装組織に拘束され、3年4ヶ月ぶりに解放された安田純平氏も同様に、彼自身のジャーナリストとしての基準があり、それに従って起きてしまった事態であろうが、それが支持され、賛同されるかは、「自己責任論」も含めて大いに議論のあるところだろう。

しかし、ひとつ言えるのは、どのような人間であろうが、国内外において自国民の生命身体が不当に傷つけられようとした時、それを救うべく最大限の努力をするのは国家の義務である。

編緝子_秋山徹