平成三十年 処暑
男の居場所
素敵なものほど無くなるのは、何故
わたしのニュー・シネマ・パラダイス
物心ついた頃、私の家の前には映画館と酒屋があった。
右斜め前に映画館、目の前が酒屋である。
どちらも屋号は忘れたというより、はなから覚えていない。
幼児の私にはどうでも良く、そんなものがあることさえ知らなかった。
映画館ではよく遊んだ。
日本映画華やかし頃とて、世界が三歳児のものである昼間から盛況な映画館はなかったから、〝もぎり〟のお姉さんだったか、おばさんだったかは、
「騒いじゃダメよ」と言い含めて、私を自由に入れてくれるのだった。
「うん」こくりと頷くそばからもう駆け出していく私。
「あらら」とお姉さん。
暗くて大きな映画館は、冒険家気取りの三歳児にとって巨大な宝島のようだったが、ひとりっきりだった私は、おおむね大人しく座っていたように思う。
映写技師は生真面目な男で、私を映写室に入れるようなことは決してなかったから「ニュー・シネマ・パラダイス」のトトのような経験は残念ながらできなかった。
毎日のように映画館に行っていたはずであったが、いま同様〝ぼーっ〟としていた私は、不思議というか、映画そのものはほとんど覚えていない。
唯一覚えているのは『楢山節考』の一場面で、姥捨山まで母親を背負ってきた息子が母親を下ろし、立ち去る。
遥か遠くの谷間の道に小さくなってしまった息子の背に、老婆は「お〜い。お〜い」と手を振り、その声に耐え切れず、息子は山道を転がるように逃げ出すシーンである。
老婆の「お〜い。お〜い」という声と仕草が、映画館の暗闇と、独特のすえた匂いに混ざり合って、三歳児の私に襲い掛かった。
なんだかそれにすっかり怖気づいた私は、少し映画館から遠のいた。今でもくっきりその場面だけは思い出すことができ、少し身震いする。
前ほど行かなくなっても、〝もぎり〟のお姉さんに手招きされれば、遊びに行った。
やがて私は保育園に通うようになり、映画館通いも侭ならぬようになったが、ある日、保育園の行事で、わが映画館にアニメ映画を見にいくことがあった。
はしゃぐ周りの園児の中で、私はひとり機嫌が悪かった。
それは、私ひとりの秘密の場所が、秘密ではなくなり、私が独占していたこの場所に、無遠慮にヅカヅカと入り込んで、無神経にはしゃぎまっくっている奴らが疎ましかった。
とりわけ女の子がはしゃいでいるのが癪に触った。
その時の私にとって、宝島の冒険は男の子だけの特権のはずだった。
のちに女の子がいた方が、いやがおうにも盛り上がることを知る。
そしてなにより、この私の場所にこいつらを引率してきた大人たちを本当に恨んだ。現在の私のへそ曲がりの性格は、やはり、幼児のころから培われたものだった。
私は、よほどこの恨みを引きずっていたとみえて、数日後、園の保育時間中に、入り口の門を乗り越え、勝手に抜け出して家に帰ってしまった。
私の姿が見えなくなって保育園は大騒ぎとなり、我が家で私の無事を確認して騒ぎは収まったが、私は親父にお仕置きとしてその夜、物置に入れられた。
それにも懲りず翌日から、保育園に行きたくないと駄々をこねた。
朝、保育園の先生が迎えにきたが、私は頑として行かなかった。
若い新米の保育園の先生は、「何が悪いんでしょう」と我が家の玄関で泣き出す始末だった。
終いには、親父が泣きわめく私を担いで無理やり保育園に連れって行って、この件は落着した。
私の学校嫌いも、この頃からの筋金入りのものだったということか。
角打ち
馴染みを深くした映画館に比べて、目の前の酒屋は拒絶された世界であった。
酒屋の入り口から、人の影が落ちるくらいの間隔より先へは近づけなかった。
こちらはお世辞にも繁盛している様子のない酒屋に、昼の日中から大の大人がカウンターで酒を呑んでいた。私が育った地域の酒屋の多くには、店の一角に日本酒や焼酎の量り売りを立ち呑みできるカウンターがあり、昼間からスルメや豚足を片手に一杯やっている〝おいさん(北九州では〈おっさん〉のことをこう呼ぶ)〟がいた。
この酒屋にある立ち呑みを、北九州では〝角打ち〟と呼ぶが、なんだか最近この〝角打ち〟という言葉と、量り売りの立ち呑みシステムが全国的に流行っているようで、あちこちで小洒落た酒と肴の〝角打ち〟を見かけることが多くなった。
しかし、私の記憶にある〝角打ち〟は、居酒屋で呑む金もない仕事にあぶれた〝おいさん〟が、真昼間から呑んだくれている場所であり、決して品の良くない、小洒落た雰囲気から遠く離れたところにあるものだった。
子供心にこの大人たちは違うと、遠巻きに眺めるようにしていたのだが、なんだか子供の時間を取られたようで、訳も分からず腹立たしい気がしたものだった。
夕刻ともなれば、仕事帰りの男たちも加わり、〝おいさん〟たちの人息れで酒屋は充満し、安酒の匂いが夕暮れの街に漂っていた。
酒屋の男たちは、家の前にぼんやり立って眺めているわたしに手招きして、つまみをくれようとしたが、わたしは足がすくんで、ついぞ酒屋に足を踏み入れることなはなかった。
ごく稀に、自分の父親が呑み仲間と一緒にいるのを見ると、悲しくてやりきれない思いがした。私にとってあちら側の酒屋は「楢山節考」よりも怖ろしい世界、それは怠惰な大人たちの男たちの世界だった。
その時はまだ、のちに自分がその世界にどっぷり浸かることになろうとは、想像もできなかった。
小学校入学前に、親父の転勤で隣の市に引っ越した。一年ほどでまた同じ家に戻ったのだが、居ない間に、映画館はスーパーマーケットに、酒屋は薬局に変わっていて、通りは一気に健全化してしまった。
銀座「クールKOOL」
大学生の頃、アルバイトで長く銀座の夜の世界にいた。
当時、私のいたコリドー街の店の二軒隣のビル1Fには伝説のバー「クール」があった。
同じく銀座の老舗バー、三笠会館脇の「ル・パン」、交詢社ビル1Fの「サン・スーシー」と並び、憧れのバーに未だ足を踏み入れたことはない。
もっとも「クール」「サン・スーシー」は、十年以上前に、ビルごとなくなってしまった。
いまは、90年前の昭和三年(1928)開業という一番古い「ル・パン」が残るのみである。
三軒ともべらぼうに呑み代が高いわけではない。
ただ単に敷居が高かったのである。
自分自身の決め事として、大人の男になったら「クール」にいこうというのがあったのだが、まだまだ至らぬ若造だと、自分で納得できずにいたら、歳ばっかり喰って還暦を過ぎてしまった。
そして肝心の「クール」さえなくなっているという、まことに情けない話である。
かつて「クール」はほんの数メートル先にあったが、私にとっては遥か彼方のバーのままとなった。
天使の分け前
私の酒場への感覚を変えたのは、イタリーの〈バールBAR〉である。
ご存知のようにイタリーの〈バール〉は、カフェとバー、店によってはサッカーくじのトトカルチョや新聞、雑誌、タバコなどが置かれていて雑貨屋を兼ねているところも多い。
イタリア人は1日に何度もバールを利用する。
朝、地元もしくは勤め先近くのバールでカプチーノやカフェラテとブリオッシュ(ローマ以南はコルネットと呼ぶ)といった甘いパンの朝食を摂る。
昼食前にエスプレッソ、昼休み明けの16時頃にエスプレッソをもう一杯、仕事終わりにこれも勤め先近くか、地元でエスプレッソもしくはグラッパなどのアペリティフを呑って帰るというのが一般的ではないだろうか。
地元のバールは、近所の住民が通うバールなので分かり易いが、勤め先の近くのバールというのは、職種によって通うバールが違うのが面白い。
フィレンツェでいえば、トルナブオーニ通りには、銀行員たちのバール、ブティックのスタッフたちのバール、などがある。また、アルノ河向こうのサン・フェレディアーノ地区の職人街では職人が集まるバールがいくつもある。
彼らは、休憩でバールに集い互いの仕事の情報交換もここで行う。
それぞれにカフェは旨いのだが、何といっても、カフェを入れるプロのバリスタが出勤前に集うバールに勝るものはない。
イタリア人はそれぞれにカフェの呑み方にこだわりを持っている人が多い。
たとえば、カフェ・マッキアートはエスプレッソに少量のミルクを垂らしたもの(マッキアートとはシミという意味)だが、まずエスプレッソは最初に何杯砂糖(ズッケロ)を入れてから抽出するのか、または砂糖を入れないのか、垂らすミルクは暖かくして(カフェ・マッキアート・カルド)か、冷たいまま(カフェ・マッキアート・フレッド)か、これに加えもっとわがままに、2・3滴グラッパやサンブーカを垂らしたもの(カフェ・コレット)など10人いれば10通りの入れ方がある。
プロのバリスタは、この常連客の多種多様の注文を覚えていて、客が黙っていても各自の注文に応えられなければ、一人前とはいえない。
また、街々にはその街を代表するバールがある。
私が好きなのは、フィレンツェ・レップブリカ広場「ジッリ」、シニヨーリア広場「リボワール」、ナポリのサン・カルロ劇場前「ガンブリヌス」、マルティーリ広場「ラ・カッフェテリア」である。特に「ガンブリヌス」は内装も美術館のように重厚で、ここで呑む砂糖をたっぷり入れたエスプレッソ・コルト(最初のエキスだけ抽出した濃厚なカフェ)は官能的である。
フィレンツェ・リボワール_シニョーリア広場に面するテラスが良い
ナポリやいくつかの街で見かけたのだが、時々客がチップとは別に小銭を置いていく時があった。
大体が天井を指差し、専用の皿や器に入れていく。
どうしても気になったので、ナポリの友人に聞いてみた。
するとその小銭は、ホームレスなどカフェを呑む金すらない人のための募金のようなもので、そういう人がバールの入り口に立った時、一杯分の小銭が溜まって入れば、手招きしてカフェを出すのだと言う。
この小銭を「天使の分け前」と呼ぶのだと彼から教わった。
それ以来、バールにその皿や器を見つけるたびに小銭を入れるようにしている。
この話を古里の小倉で叔父に話した時、そういえば昔〝角打ち〟にもそんなのがあったような気がすると言っていた。
それ以来、事あるごとに近所の年寄り連中に尋ねるのだが、はっきりしたことは判らずじまいだった。もし本当にあったのだとすれば、何故そんな素敵なものがなくなってしまうのだろうか。
私たちの子供の頃に比べれば、世の中は豊かになったが、人の心根は世知辛くなってしまったのか。
そんなことを考えながら、くたばる前に、そろそろ「ル・パン」の敷居をまたごうかと迷っている。