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平成三十年 小暑

2018年7月7日

タイでおもろい坊主になってもうた 後編

おいらは仏陀のサンドイッチマン

再び我らが藤川〈チンナワンソ〉清弘である

比丘(びく)の生活

チンナワンソの本出家は、バンコクからタイランド湾方面に車で約1時間半ほど、マテガイの群生する砂州で有名な〝サムットソンクラーム(Samutsongkram)〟の寺〈ポムケウ寺(Wat Pomkeaw)〉で得度(とくど)式が行われ叶えられた。

比丘となった者は、翌朝から托鉢に出ることになる。

早朝、比丘は托鉢へ向かう前に水を浴びて身を清め、着衣の鬱金(うこん)の袈裟を整えて、首から前に大きな鉢を架け、肩には頭陀袋を下げて素足で信者の家々を廻る。

鉢は腹のあたりで両手で支え、この中に信者は食施やお金を入れる。

この托鉢の際に首から架けている〝鉢〟をタイでは「バーツ」と呼び、国の通貨の単位となっている。

信者がバーツに入れる食施は、決して前の日の残り物などではなくて、新しく作るか、食施用に総菜屋で購入されたものである。

タイでは、〝食施〟や〝お布施〟は「タンブン」と呼ばれ、「タン(ム)」は〈行う〉、「ブン」は〈将来、自分自身に楽果として返ってくるであろう善行〉であり、タンブンを行う行為は「積徳」〈徳を積む〉と考えられている。

比丘の食事は、手のひらの手相〈シワ〉が見えた時から太陽が頭上に来るまで〈ほぼ正午〉までに朝食と昼食を終わらせ、それ以降は一切の物を口に運ぶことは禁じられる。(水・牛乳・チーズなどは認められている)

イスラム教のラマダーンとほぼ逆だが、ラマダーンが1ヶ月間の期間限定なのに対し、比丘は比丘である限り、一生これが続く。

またその日に食施として施された粥飯(朝昼食事)は、その日の内に消費しなければならず、残ったものは、全て捨てなければならない。

残り物を明日の粥飯に回すことは許されず、残すことは蓄財と捉えられ、蓄財は欲となり欲は煩悩を引き起こすと教えられる。

明日、托鉢に赴きバーツに何も入らなければそれまでで、その日は何も食べずに過ごすのみである。

これが比丘とは食を乞う者〈乞食〉と呼ばれる由縁である。

また、食事だけではなく、身に纏うものと身の回りのすべて、寺院の釘一本までも寄進された物のみで生活しなければならない。

比丘(びく)の暦


仏日(布薩日/ワン・プラー)
ひと月の間に満月と新月の二回「仏日(布薩日/ワン・プラ)」があり、この両日は比丘が托鉢に行くのではなく、信者が寺に食施を持ち寄り、説法を聞く日となっている。
この日、信者はそれなりにキチンとした身なりでやてくる。
キリスト教教会で行われる日曜礼拝に近い。

基本的には、満月と満月の間を8日目、15日目、23日目、30日目の四つに分けたものが、仏教徒の休息日とされる。
比丘は「仏日」の前の日に、剃髪をし、眉も剃る。

安居(パンサー)
七月の満月の日・三宝節(仏陀が最初に説法をした日)の翌日が入安居(カオ・パンサー)で、約3ヶ月後の十月の満月の日が出安居(オーク・パンサー)となり、この3ヶ月間、比丘は寺にこもって修行する。
安居は、インドの雨季修行〈雨安居〉に由来し、タイもインド同様この時期は雨季に当たる。

比丘のキャリアは、年齢には関係なく、幾度の「安居」を経験したかにある。

最初の安居を終えた新人比丘には、安居明けの試験が科せられ、これに合格しなければ、その安居を終了したことにならない。経典のパーリ語で行われるこの試験は、タイ語もおぼつかない〈チンナワンソ〉には大きな試練であった。
これを本当のところ、いかにして乗り切ったかは、ついぞ聞けなかった。

雨季の終わり、十月の安居が明ければ、旅に出る比丘が多い。
積極的に広く旅に出て、己の見聞を広めながら、布教に勤めるということは、仏陀も奨励したことである。

旅に出ている間も、当然日々の糧は托鉢である。

寺から寺へと旅をつなぐことが基本ではあるが、托鉢の習慣の残る国や地方とはいえ、寺に泊まれなかった時は、ままならぬことも多く、またアクシデントも起こる。

〈チンナワンソ〉も、安居明けの旅で、インドやミャンマー、カンボジア、ラオスなど水や食の違う地域で供養された「食施」を食べて、死にそうになった経験が幾度かあるという。

徳を積もうと供養された食べ物にあたり、のたうちまわる。
これまた大切な修行なのである。

〈チンナワンソ〉のいくつかの旅に数日同行したことがある。

タイ、ミャンマー国境近くのメーソッド(Mae Sot)近郊の「メラアン・キャンプ」
軍事政権のミャンマーから逃れてきた〈少数民族カレン族〉のキャンプ、キャンプという名称だが、30年以上の歴史を持ち、1万人近くが大きな集落を形成していた。

未帰還兵
メーソッドに住まわれていた「中野弥一郎さん」「坂井勇さん」、チェンマイ近郊ランプーン県の「藤田松吉さん」の三人の未帰還兵〈大戦後も日本に帰らず現地に留まった日本兵〉のお宅では数奇な運命に接することができた。
特に藤田さんに興味を持った映画監督「今村昌平」は、『未帰還兵を追って/タイ編1971年』『無法松故郷に帰る/1973年』という二本のドキュメンタリー番組を撮った。

ミャンマー・メイテーラ
かの地には大戦下の「インパール作戦」大敗で敗走する日本兵を、現地の人が介護してくれたという逸話が残っている。
※「インパール作戦」の敗走路は、日本兵の骸が無数に転がり「白骨街道」と呼ばれた

現地の寺に〈チンナワンソ〉が中心となって、日本語教室を開いていたので、日本から教科書や文房具を運んだ。
講師はメイテーラ大学の日本語学科の卒業生達が勤めていた。
当時は、名門メイテーラ大学の優秀な卒業生でも、なかなか職を得られなかった。

日本の『あいのり』というテレビ番組が撮影でこの寺を訪れ、この日本語教室のミャンマー人生徒と日本語試験の点数を競い合い、日本人出演者が負けてしまったという後日談もある。

日本語教室の建物

日本語教室の生徒

カンボジア
旅には同行していないが、その晩年に〈チンナワンソ〉が特に力を入れて活動していたのがカンボジアの「児童人身売買」阻止である。
近年まで、カンボジアでは貧困から、自分の子供を売る家庭が多くあった。
その多くはタイに連れて行かれて、外国人相手の臓器売買の商品とされる。

〈チンナワンソ〉は、この子供たちを仲買人から買い戻し、寺などで教育するという運動の資金集めに奔走していた。

藤川〈チンナワンソ〉清弘は、経典の説法というよりは、このように行動で仏教を示す人だった。

そして彼の口癖は「俺(おいら)は仏陀のサンドイッチマン」だった。

安居を一定数過ごした比丘は、自分の修行と布教の場を自ら選ぶことができる。

〈チンナワンソ〉は、日本をその場と決め帰国した。

帰国後、全国を精力的に廻わったが、それは重度化した持病の糖尿病との戦いでもあった。

最期、京都の〝半グレ〟らしい台詞(ここではとても書けない言葉)で逝ったのが

〝おもろい坊主〟の面目躍如であった。

合掌

編緝子_秋山徹