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平成三十年 秋分其の弐

2018年9月23日

トニー・ベネット後編

隠居の本懐

啐啄の機/そったくのき

禅語に〝啐啄の機〟というのがある。

雛が卵から孵(かえ)ろうとする時、雛が内から殻をつつくのを〝啐〟、母鳥が外から殻をつつくのを〝啄〟ということから、禅において師家と修行者の呼吸がぴったり合うことをいう。機が熟して悟りを開こうとしている弟子に、師がすかさず教示を与えて悟りの境地に導くことを現している。

才能の花開かんとする弟子と、それを見抜き引き上げんとする師、双方の出逢いやタイミング・頃合いがピタリとあって、初めて全てがうまくいく。

トニー・ベネットの『デュエットⅡ』は、若いシンガー達にとって、まさにそんなアルバムであったろう。

早すぎず、遅すぎず、互いに縁のあったものがレコーディングに参加した。

惜しむらくは、雛の中で最も有望であった雛〈エイミー・ワインハウス〉が、殻を破った途端に、この世を去ってしまったことである。

筋金入りのヒューマニスト

参加者のコメントの中には、次のようなトニー・ベネットの音楽以外の姿をうかがわせるコメントがあった。

ボノ(U2)
〝共演できて楽しかった。一生 忘れないよ。僕たちは似たもの同士だよ。あなたもキング牧師と行進したり、公民権運動に参加した。重要な時にはいつでも立ち上がってきた〟

スティーヴィー・ワンダー
〝あなたは昔から行動力があった。社会情勢や弾圧、公民権や不正などをめぐって闘ってきたんだ。まだ無名の頃から世間が声を上げるよりも先に、あなたは立ち上がり行動していた。アフリカ系アメリカ人として、そして、アフリカにルーツを持つ者としてこう言わせてもらいたい。あなたという人間を心から尊敬してるよ〟

また『デュエッツⅡ』のドキュメンタリービデオでは

〝トニーへ、素敵なお花を届けてくれて、どうもありがとう。60年代の公民権運動の時も、あなたは力を貸してくれた。共演を楽しみにしている〟というアレサ・フランクリンから届いた手紙が紹介され、アレサとのレコーディングの際、トニー・ベネットがルイ・アームストロングの逸話を紹介する場面がある。

「ルイのある逸話を聞いた。ある時、ルイは最高のシンガーは誰かと聞かれ、こう答えた。〝エラ(フィッツジェラルド)の次に?〟」

この逸話に加えて、トニーはエラ・フィッツジェラルドとの家族ぐるみの交流を語る。

「私たち家族は、クリスマスにはエラの家で過ごしたものだ。私の娘たちは彼女の娘も同様だった。そしてエラはいつも私に言ってた。〝みんなここにいる。人種や宗教の違いは大した問題ではない〟とね」

さらにトニーは続ける「今も忘れられない。私たちはここにいる。だが多くの人は気がつかない。私たちはもっと学ぶべきだ。生きることの尊さや思いやりについて。欲に振り回されるなんて愚かしい。自分の利益だけでなく世の中のことを考えるべきだ」と。

米国アフリカ系アメリカ人の公民権運動史上、最もエポックメーキングな出来事に〈ワシントン大行進〉と〈セルマ大行進〉があるが、トニー・ベネットはセルマ大行進でキング牧師とともに行動をともにした白人の一人である。

エラとの逸話でもあるように、イタリア系白人のトニーは、黒人歌手のエラと家族ぐるみの付き合いをしている。これは当時のアメリカでは非常に珍しいことである。

こういった人種にとらわれない彼の信条は、彼の生まれ育った街の影響も強い。彼が生まれ育ったのはニューヨーク・クイーンズ地区アストリアで、アストリアはクイーンズの他の街と違って、民族的に多彩な街だった。
幼い頃からトニーの遊び仲間の多くが、ユダヤ人やアフリカ系アメリカ人だった。

この環境が、トニーを人種や宗教にこだわらない大らかな人間とした。

トニーは、反戦を貫く平和主義者であるとともに、人種差別を憎むヒューマニストでもあった。

[ワシントン大行進]
人種差別撤廃を訴え1963年8月28日に行われた行進で、全米各地から20万人以上が集まった。
「I have a dream」で始まる〈マーティン・ルーサー・キング牧師〉の17分間の有名な演説は、この時行われたものである。
参加者には、〈ボブ・ディラン〉〈バート・ランキャスター〉〈ポール・ニューマン〉らの姿もあった。
この行進の後1964年に投票、教育、公共施設利用上の人種差別を禁止する公民権法が成立したが、実行されるには程遠いものだった。

[セルマ大行進]
ワシントン大行進後の1965年3月、黒人の投票権を求めてノーベル平和賞を受賞したキング牧師により、アラバマ州セルマからモンゴメリまで実施された行進。
一回目3月7日、公民権運動家など500人以上がセルマを出発したが、警官隊の暴力により多くの怪我人が出たうえに、銃弾を受けた青年が死亡し、のちに「血の日曜日事件」と呼ばれる。
二回目3月9日には、2500人以上が行進に参加したが、警官隊との衝突を避けてエドマンド・ペタス大橋を渡ったところで断念した。
三回目3月21日、3000人以上の行進には多くの白人も参加して、ようやく行進はモンゴメリに到着。
行進の中に〈トニー・ベネット〉の姿があった。
トニーの他には、〈レナード・バーンシュタイン〉〈ピーター、ポール&マリー〉〈ジョニー・マティス〉〈ジョーン・バエズ〉〈サミー・デイビス・ジュニア〉〈ハリー・ベラフォンテ〉の姿もあった。

この時に大きな役割を果たしたのが、テレビというメディアある。
キング牧師の非暴力主義に賛同して、警官隊から犬をけしかけられ、暴力を受けながらも暴力に訴えずして闘う人々のありのままの姿を映し出して、アメリカの蛮行を世界に知らしめ、当時の大統領ジョンソンが選挙権を認めることとなる。

これにより有権者を登録する権限が州から連邦となり、南部でも黒人に選挙権が与えられることになった。

セルマ大行進から50年の節目の2014年、映画『SELMA(邦題:グローリー/明日への行進)』が製作され第85回アカデミー賞「作品賞」「主題歌賞(受賞)」にノミネートされた。

こんな人生を送ってきた男の言葉は重い。

2012年の米TVドキュメンタリー番組『THE ZEN OF TONY BENETTO』で、心に残る言葉をいくつか披露している。

〝LIFE IS GIFT〟
「人生は贈り物だ。私はそう思う。あまりにも多くの人々が人生に不満を抱いて生きている。そんな人生は馬鹿げている。そんなのは時間の無駄でしかない」

「シンプルに歌うほど感情がこもる。どれだけ複雑な曲であろうとも関係ない。シンプルだから美が引き立つ。絵でもそうさ。素晴らしい画家である私の先生は、水彩画を描くのに27色の絵の具を使わなかった。画家のサージェントと同様使ったのは6色だ」

「失敗してもそこから学べばいい。私がそうだ。まだ知らないことだらけだ。もっと学びたい。85歳になった今、新たなスタートを切った気分だ。知識を得たいと言う思いは、これまでになく強くなっている。〈レオナルド・ダ・ビンチ〉は死の床で〝まだ何も学んでいない〟と言った。多くの発明をした彼でさえ、そう感じていた。〝終わりなどない〟と言っている。日本に〈葛飾北斎〉という素晴らしい画家がいた。彼は百二歳の時〝描き方を学んでいる〟と言った。私も日々学んでいる。ステージに立つと心が満たされるのがわかる。私の中の熱い情熱が。私を歌と絵に駆り立てる。義務なんて思ったことなどない。」

−〈黒澤明〉が、アカデミー賞特別賞を受けた際のスピーチで、〝私にはまだ映画というものがよくわかっていない〟と述べたのを思い出す−

トニー・ベネット、92歳になるこの〝隠居の鑑〟は、今宵もステージに立つ。

編緝子_秋山徹