1. HOME
  2. 24節気に想ふ
  3. 平成三十年 霜降

平成三十年 霜降

2018年10月23日

ある偉大なる画学生のこと

東山魁夷のこと、鑑真のこと

今回の〝霜降に想う〟では前回〝寒露(体育の日)〟に続いてオリンピックに関連した話「金メダリストは爵位の不良騎馬将校/バロン西」について取り上げるつもりであったが、西男爵が彼の競技種目[馬術/障害飛越]同様〝ひょい〟と今回の霜降を飛び越して〝立冬〟に愛馬ウラヌスと着地してしまったので、次回に譲ることに相成った。

ということで、今回登場するのは「東山魁夷」である。

東山魁夷/ひがしやま・かいい

日本人の誰もが知り、そして愛した日本画家「東山魁夷」。

その生誕百十年記念展が10月24日より12月3日まで国立新美術館で開催される。

今回のこの展覧会で特筆すべきは、代表作50点とともに「唐招提寺御影堂/障壁画」が全て特別展示されることにある。

東山魁夷は、1971年から1981年までの10年間をこの障壁画の制作のみに費やした。

魁夷、画家として一番脂の乗り切った60代を全て障壁画作成に捧げたのである。

唐招提寺は759年唐の高僧〈鑑真〉により奈良市五条町に建立された律宗の寺である。

鑑真は、日本仏教興隆のため来日し日本仏教の礎を築いた人である。

そして御影堂こそ、鑑真和上像が坐しその御霊を祀っている場所である。

障壁画は和上像の周囲にあり御霊をお慰みしている。

東山魁夷は10年という年月をかけ、この障壁画に画家としての魂を込めたのである。

地獄の門_鑑真

遣唐使として唐に渡った留学僧の栄叡と普照が、揚州大明寺に名僧の誉れ高い鑑真を訪れ日本に高僧を招聘する相談をした742年の当時、日本への旅路は大変危険な航路として知られていて、それは「地獄の門」と呼ばれていた。

その証拠に、遣唐使団の三分の一が目指す唐の地を踏むことなく、もしくは日本に帰り着けずに海の藻屑と消えていた。

ましてや、文化の爛熟期を迎えていた唐から、海の向こうの日本のような後進国に進んで行こうという者は中々いるはずもなく、さらに当時の唐では日本に渡ること自体が国禁であり、密航となるのであった。

居並ぶ弟子たちの中から志願する者がいないのをみた鑑真は、皆にこう宣言する。

「何ぞ身命(しんみょう)を惜しまんや 諸人(もろびと)行かざれば 我即ち去くのみ」

〈(仏法を伝えるために)なんで身や命を惜しんでいられようか。誰も行かぬなら、私が去くのみだ〉

この時、鑑真五十五歳、そして鑑真が日本に至るまでの道はまさに「艱難辛苦」の旅となった。

鑑真一行は、十二年の間に五度の渡航を試み、六度目でやっと日本にたどり着く。

754年12月20日に薩摩の秋目浦に一行が上陸した時、67歳の鑑真の目は光を失い盲いていたほど過酷な旅であった。

この後、鑑真一行は都の奈良を目指すのであるが、その道中の逸話が今に残る。

一行が備前を通っていた時、山から良い香りが漂ってきたので、その山に登り、しばし香りを楽しんだという逸話から〝香登〟という地名が残ったと、彼の地に窯を構える「金重晃介」さんに聞いたことがある。

奈良の都についた鑑真は、東大寺の大僧都となり、多くの人々に僧になるための戒律を授けた。のちに自らの寺である唐招提寺を建立する。

鑑真が渡来して、正式な僧になるために必要な戒を授けたこと。また鑑真が持参した三千粒の仏舎利(仏陀の骨)によって日本仏教の精神的な主柱が、ここに初めて現れたと言える。

また鑑真が日本に伝えたものに、豆腐・納豆・甜鼓(てんし)がある。甜鼓は聖武天皇が召し上がって「この味未曾有なり」と発したことから「味噌」となったと伝えられる。鑑真は仏教のみならず、現代の日本料理の礎を築いたとも言えるのである。

鑑真の入寂が近いと悟った弟子の忍基は、師が結跏趺坐した姿の寿像(生前に作っておく像)を作った。そのおかげで今日我々は、紛うことなき鑑真和上のお姿を拝むことができるのである。

一説に、坐像の裏側には鑑真和上の位牌が塗り込まれており「遺灰像」である可能性もあるという。

鑑真和上坐像/撮影・汪蕪生

自らの信ずる道に身命をかけた鑑真和上の精神と、それを現した坐像は人の心の奥を打つ。

元禄元年(1688年)、 鑑真和上坐像に拝した松尾芭蕉は
「若葉して おん目の雫 ぬぐわばや」
〈初夏、鑑真和上の目から雫がこぼれている。若葉でそっと拭って差し上げたい〉と詠んだ。

また、井上靖は鑑真の渡航の困難を留学僧の目を通して描いた「天平の甍」を執筆した。

そして障壁画を描いた東山魁夷は

「静かである。うちに向かって凝集していく思念、毅然とした力が充満している。しかし、それは人間の意思的な力を越えて、遥かに大きなものに身を任せ切っている人の、泰然自若とした風貌とも見られる。慈愛ともいうべきものであろうか、穏やかで、温かな包容力が自ら溢れ出ている/唐招提寺への道より」

「唐招提寺の魅力は、同時に鑑真和上の魅力であり、それが千二百年以上を経ても続いているのは、和上その人の偉大さと、天平の金堂、講堂等の主要な建築や仏像が、災害を受けずに残ったこと、和上の住まわれた場所や廟墓が、はっきりとしていることなども挙げられる。和上の肖像彫刻が古今の名作であることも要因の一つである。/唐招提寺の魅力より」と記している。

いつまでも画学生の心を持ちたい

鑑真和上坐像は、御影堂のお厨子の中に坐し、廻りを東山魁夷が描いた襖絵・障壁画が包んでいる。東山はお厨子の間の前室「宸殿」「上段の間」に、失明した鑑真が見ることの叶わなかった日本の海《涛声》と山《山雲》を配し、お厨子がある部屋と両脇の部屋に和上の故郷の風景《揚州薫風》《黄山暁雲》《桂林月宵》を墨絵で、お厨子の扉絵には秋目浦入稿の図《瑞光》を捧げている。

東山魁夷は、この一連の作品のために長い素描の旅に出かけ、日本全国と中国を巡った。

そそり立つ峨々(がが)たる山嶺、高く大きい巍々(ぎぎ)なる霊山_黄山

旅の中でも、特に中国安徽省の黄山は印象深かったようだ。

「中国安徽省の南部にある黄山は、中国では数々の名山の中でも最高であると昔から言い伝えられてきました。私は第二期唐招提寺障壁画の題材の中に、ぜひ黄山を描きたいと念願していましたが、中国側では登山路が嶮しく、まだ宿泊設備が整っていないからという理由で、なかなか案内してくれませんでした。幸い昭和五十三年に私の希望を受け入れ、待望の黄山に登ることができました。黄山は一つの山ではなく七十二の峰のある広い範囲にわたる山岳の集まりの名称です。すべて岩山ですので道は急な石段の連続なのです。登山の第一日目は雨降りで霧があたりに立ちこめて、その中を一歩一歩石段を登って行くのは容易ではありませんでした。登るにつれ雨が止み、霧の中から松の生えた岩山が現れては消える有様は、名山の名にふさわしい神秘的な景観でした。/『東山魁夷館所蔵作品集Ⅰ』より」と記している。

この黄山を被写体として多くの作品を残した写真芸術家「汪蕪生/ワン・ウーシェン」(小満で紹介)と、「東山魁夷」の二人は生前から交流があり、汪さんは魁夷について、

「芸術的・精神的な支えとなって頂いた方に故東山魁夷先生がいます。東山先生は、私が日本で出版する初めての写真集1点1点に色々な視点からのアドバイスをしてくださいました。何より私が感銘を受けたのは東山先生の絵画に対する純粋な姿勢です。東山先生は〝常に純粋にものを見られるように、いつまでも画学生の心を持っていたいから、弟子も子供もいらない〟という言葉の通りの人でした。〝絵は人なり、書は人なり〟ということを東山先生の姿から学び、〝写真も人なり〟であると考えるようになりました」と話していた。

また、魁夷は汪蕪生の作品について「私は再び眼前に神韻を帯びた黄山の風景が次々に浮かび上がるのを感じた。白黒のフィルムによる撮影に、中国古来の水墨画の持つ深い味わいに通じるものが現れている」と評している。

東山魁夷没後の2005年ニューヨーク国連本部展示ホールで「東洋の心 山水の美—国連展」と題した共同出展の企画展が開催された。

風景は心の鏡

「庭はその家に住む人の心を最もよく表すものであり、山林にも田園にもそこに住む人々の心が映し出されている。河も海も同じである。その国の風景はその国民の心を象徴すると言えよう。/日本の美を求めて」

「母なる大地を、私達はもっと清浄に保たねばならない。なぜなら、それは生命の源泉だからである。自然と調和して生きる素朴な心が必要である。人工の楽園に生命の輝きは宿らない。/日本の美を求めて」

魁夷の自然観、風景観である。

人の心が荒れれば美しい自然は残らない。

人工の楽園に生命の輝きは宿らない。

絵画にとどまらず、国の根幹に関わる重い言葉である。

鑑真・松尾芭蕉・東山魁夷・汪蕪生、に共通する言葉として〈静謐〉〈清澄〉が思い浮かぶ。

これからの日本の風景に映し出される我々の心に当てはまる言葉はなんであろう。

生誕百十年記念展の内覧会で作品に接してきた。

代表作50点は当然素晴らしいが、障壁画が展示されている場に来ると、漂う空気は一変した。

襖絵からは、力づよくも美しく、そして静かな風が発せられ、そして何より拝するものに心の安寧を与えている。

これからずっと鑑真和上の魂は、東山魁夷のこの障壁画がそっと包み込んで守り続けるのだろうと実際に目の当たりにした。

皆さんも、稀代の日本画家が10年を捧げた魂の作品を、この機会にご覧になってはいかがだろうか。

編緝子_秋山徹