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令和元年 白露

2019年9月8日

蜻蛉の国

虫の音を愛でる稀有な民族

白露

白露—草木国土悉皆に[しろつゆ]が降りる候である。

昼間は蜩(ひぐらし)が鳴き、夜には秋の虫たちが鳴き始める頃でもある。

しかし、私たちが子供の頃にたくさんいた虫たちはどこに行ってしまったのだろう。

秋の空には、赤とんぼが群れをなして飛んでいたし、夜、私たち子供が寝床に入る頃も、蟋蟀(コオロギ)や松虫や鈴虫・轡虫(くつわむし)の音が子守唄がわりだった。

初夏の蛍も特定の場所でしか見られなくなった。

欧米人には騒音

フランス文学者で虫のエッセイストでも知られる奥本大三郎によれば、日本人は虫を愛でる民族だという。

欧米人にとって蝉の鳴き声は騒音にしか聞こえず、虫の音を親しみ愛でるなどということは、全くあり得ないことだという。

それを裏付けるように、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が彼の著『虫の音楽家』に次のように記していると云う。

「(西洋人は)虫がそれぞれ特有の声で珍重されているのだと聞いたら、きっと不審に思うに違いない。そういう連中に、ある非常に洗練された芸術的な国民の美的生活のなかでは、これらの鳴虫が、ちょうどわれわれのツグミや、紅雀や、ナイチンゲール、カナリアなどという鳴禽が、西欧文化の中で占めている位置に比べて、それにまさるとも劣らぬ位置を占めているのだということを納得させるのは、なかなか容易なわざではあるまい」

この一文を読んで面映いのは、この「非常に洗練された芸術的な国民」は、小泉八雲の時代からわずか百三十年足らずで、美しい川や湖や池の水を汚染して、コンクリートで囲い埋め立て、これら虫たちの棲家を奪い「美的生活」を放棄してしまったと云うことである。

秋津洲_蜻蛉の国

さて、虫、それも蜻蛉(とんぼ)である。

そもそも、日本の国の古い名称に「あきつしま」(秋津洲・秋津島・蜻蛉洲)があるが、この「アキツ」は蜻蛉の古名である。

なぜ日本を〝とんぼのくに〟と呼ぶのかは、大和国(日本)を平定した神武天皇が「なんと素晴らしい国を得たことか、狭い国ではあるが、蜻蛉が交尾しながら飛んでいるような山々だ」と発したことにある、と『日本書紀』に記されている。

益虫である蜻蛉は、素早く飛び回って害虫を捕らえ、前にしか進まず退かないところから「不転退」を象徴するものとして、「勝ち虫」と呼ばれた。

そこから勝負に縁起の良い虫として戦国武将に好まれて、甲冑や衣服に蜻蛉の文様が好んで使われた。

有名なものに織田信長や前田利家の〝蜻蛉の前立ての兜〟がある。

また、蜻蛉は毎年お盆の時期に現れてくるので、先祖の御霊が、この蜻蛉に身を変えてやってくるともされて、蜻蛉を取ることを禁ずる地域もあった。

縁起の良い虫である蜻蛉は日本各地に物語が残る。

なかでも、秋田県鹿角(かづの)市八幡平「大日霊貴神社/おおひるめむちじんじゃ」通称[大日堂]にまつわる「蜻蛉長者/だんぶりちょうじゃ」〈だんぶりは東北地方の方言で〝とんぼ〟のこと〉の次の話は有名である。

昔々、鹿角(かづの)に太郎という貧しいが働き者の若者と徳子という気立ての良い娘がいたが、夢の中の天のお告げによっ太郎という若者と夫婦となり、貧しいながらも幸せに暮らしていた。

ある日、農作業の途中に太郎が休んでいると〝蜻蛉〟が太郎の口にその尾をつけて、太郎を誘なった。誘いに応じた太郎は薬効のある酒の滝を見つけ、その酒を売り出したところ大金持ちとなる。やがて二人に桂子という美しい娘ができるが、長じて娘は、帝(みかど)に召され吉祥姫となった。太郎は帝から「蜻蛉(だんぶり)長者」の名前を拝命しこれを慶んだ。時が流れ、太郎と徳子の夫婦が死んだ際、長者夫婦を祀るため帝が開いたのが「大日霊貴神社/大日堂」であり、大日堂建立の際に、蜻蛉長者の物語を由縁とする舞楽が納められ、それが今日まで伝承されたものとされている。〈大日堂舞楽HP由緒の要約〉

この後、千三百年伝えられた「大日堂舞楽」は、平成二十一年にユネスコの無形文化財に登録された。

こうして蜻蛉は、いにしえより大和国(日本)とともにあった。

その蜻蛉たち、子供の頃、野山を駆け回ったときに群れなして飛んでいた「赤とんぼ」は、一体どこに行ってしまったのだろうか。

以前、イタリア・トスカーナのワイナリーでエノロゴ(ワイン醸造の責任者)にインタビューした際に、あまり程度の良くないワインを生産する畑の話になった。

エノロゴ曰く、「トスカーナの風景・景観として、どのような品質のワイン畑も必要である。それは精神性の問題であり、これらは存在しているだけで我々に精神的な恩恵を与えている」と説明した。

かつて日本に多く生息していた〝秋の虫〟たち、たかが虫であるが、されど虫、日本の古名であった虫、これらが存在しているだけで、かつて小泉八雲が賛美した「洗練された芸術的な国民の美的生活」と云う日本人の確かに一部だったのは違いない。

その昔、「蟋蟀/コオロギ」は「螽斯/キリギリス」と呼ばれ、「キリギリス」は「機織/ハタオリ」と呼ばれていた。
「鈴虫」と「松虫」も同様に、平安時代には呼び名が反対で、「鈴虫」を「松虫」、「松虫」を「鈴虫」と呼んでいたといわれている。

「カマキリ」と「トカゲ」も地域によって呼び名が逆だったという。

都会の街路樹から聞こえるのは、「松虫」ではなく外来種の「青松虫」であるという。
「青松虫」マツムシ科の昆虫。体長約24ミリメートル。体は扁平でやや細く,マツムシに似るが,全身が鮮やかな緑色。樹上でリューリューとかん高い声で鳴く。明治年間に中国大陸から帰化したとされる。〈大辞林〉

「コオロギ」や「キリギリス」「松虫」「鈴虫」「「カマキリ」「トカゲ」これらの名前を違えようが、在来の「松虫」が外来種の「青松虫」に取って代わろうが、虫たちが存在している限りは、日本の「美的生活」はどうにか保たれる。

しかし、虫たちの生息地を一旦失ってしまえば、生態系を取り戻すことは容易ではない。

伝統工芸も全く同じである。

人と人がいて技術や文化は紡がれるが、この糸が途切れてしまったとき、伝統と文化は危機を迎える。

ぼーっとしていると、人も国も大切なものをいつの間にか失ってしまう。

うかうかと 人に生まれて 秋の暮—一茶

ぼーっとしたまま、人生の秋の暮れを迎えてしまった我が身の悲しさが沁みる。

編緝子_秋山徹