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平成三十一年 立春

2019年2月4日

香りの禁忌

花の香、この匂い、あの臭い

沈丁花の香

二月四日—立春、今年は二日が「初午」となったために三日「節分」と3連続で節気と雑節が連なった。

稲荷神社では毎年三日と日取りが決まっている「節分」以上に「初午」は大きな行事であるため、連日を嫌い今年は「二の午」にあたる14日に「初午祭」を行うところも多い。

なんだか、同日の「聖バレンタインデー」同様、商売の気配が匂い漂う。

立春は「春は名のみ」といわれるが、平成31年二月四日の立春、東京の午後2時の気温は18度超えである。「名のみ」ではなく、真の春の日を迎えてしまった。

二月末から三月にかけて、芳香を漂わせる「沈丁花」が狂い咲きしてしまいそうな陽気である。

沈丁花だけは早く咲いて欲しくない。

沈丁花は三月にこそふさわしい花であり香りである。

春の気配はするが、うっすら寒い早朝、歩いていると穏やかな風とともに漂ってくるあの香り。

花の香りは、季節と一日の流れの中のある一瞬、それに場所が伴って鮮明に記憶に残る。

何年も先に、遠く離れた場所からでも、あの日、あの時、あの場所が蘇る。

特に沈丁花は、甘く切ない薫りを放出し、私の胸に迫りくるので、とても好きな花である。

人の記憶は、映像や音などよりも匂いの影響を強く受けるように感じるのは私だけであろうか。

良い記憶だけではない。

悪い記憶も匂いによって強く刻まれている。

脳裏に刻まれた、あの臭い

こんな香りの記憶がある。

むかし馴染みにしていた寿司屋があった。

霞町の交差点の近くにあった店だ。

板前に〝おまかせ〟で頼むと旨い肴を出してくれた。

燗を呑りながら、それをひとりゆっくり突つくのが楽しみだった。

板前は若いが料理に熱心な男で、それなりに手を懸けた料理を出してくれた。

ある夏の夕暮れ時、空が茜色に染まりかけた時間であった。

店は賑わっていた。

暖簾をくぐると、いつも座るカウンターの端が空いていなかったので、案内された真ん中のあたりに座った。

椅子に腰を下ろした途端、寿司屋ではありえない匂い、あってはならない匂いがした。

ムスク系の香水の強烈な匂いだ。

たぶん高級ブランドなのであろうが、どう見てもチンドン屋にしか思えないようなスーツを着て隣に座る男、いや、馬鹿が、頭から香水を被ったのかと思うほどのムスク臭を店中に漂わせていた。

どうりで店のメインのカウンター中央が空いているはずである。

馬鹿には連れがいた。ひと目で六本木あたりのクラブ勤めとわかるシャネルスーツを着た女だった。

この女の香水もきつかった。

他に空いている席もないのでしようがなく、いつも通り〝燗とお任せで〟と板前に注文したが、私の眼差しに非難の色を見てとった板前は、私とほとんど目を合わせずに下を向きながら、すまなさそうに「はい」と言った。

燗酒とお造りが出てきた―

どうもいけない、味も香りもしない。

というよりも判らない。

ありえない悪臭にかき消されてしまっている。

私が混乱しているそんな中で、隣でムスク馬鹿が馬鹿でかい濃声で馬鹿に高いネタを高級シャンパンと一緒に、カバのようにバカバカ喰らい呑む。

するとこれに負けじとシャネル馬鹿女が、馬鹿に甲高い声でこれまた馬鹿高いネタとシャンパンを馬鹿みたいに喰らい呑む。

馬鹿が_バカと_馬鹿に馬鹿高い_馬鹿喰い_バカバカバカバカ_______

と、我慢の限界に達しようとしたその時、カウンターの端が空き、そちらの席に案内された。

私は、席を移動する際、これみよがしに「ありがとう、早く移りたかった」と隣に聞こえるように言ったが、馬鹿ふたりには通じなかったようだった。

まあ、もっとも、このくらいのことが気付く程度の馬鹿ならば、頭から香水をかぶることもないであろうが—

カウンターの端に座り直した私は、堪え忍び切れる寸前だった袋の緒を締めなおして、熱燗を口にした。

しかし時はすでに遅く、私の鼻は完全に馬鹿になってしまっており、一切の香りが失せていた_残るは安っぽいムスク臭のみである。

—今日はもういいや—と、握りをつまむこともなく寿司屋をでた。

もの凄く損をした気分になって家に戻った。

その後引っ越したこともあって、それ以来その寿司屋からは足が遠ざかった。

決して職人が悪いわけではないことはわかっている。

客商売は難しい。

「お客さん、香水の匂いがきつすぎて、他のお客さんの迷惑になりますのでお帰りください」と言える寿司職人が何人いるだろう。

この香りひとつで

職人の仕事が台無しである。

魚も成仏できまい。

米作農家も納得できまい。

シャンパーニュの醸造所も気の毒である。

現在、麝香鹿から香料用として麝香(ムスク)を採取することは禁じられているため、ムスクとして香水に使用されているのは合成されたものだという。

だとすれば、麝香鹿もいい迷惑である。

これらすべてのイメージが損なわれてしまった。

つい先日、久方ぶりに西麻布を歩くことがあったので、近くを覗いてみたらその寿司屋は無くなっていた。

まことに八方不幸なことだらけである。

「馬鹿につける薬はない」というが「馬鹿につける香りはない」と言いたい。

あの時の馬鹿二人の顔は忘れてしまったが、胸糞悪いムスク臭は今でも思い出すことができ、思い出してしまうと途端に食事が不味くなる。

トラウマではなくウマシカである。

編緝子_秋山徹