平成三十一年 清明
新元号と芸能の人
新元号と大人の智慧
春爛漫
この時候の季語、【麗(うら)らか、長閑(のどか)、春風、蝶、囀(さえず)り、雲雀(ひばり)】が示すように、清々しく明るい陽が辺りを包む季節の到来である。
花も盛りと咲くこの時期に、加えて新元号〈令和〉が発表された。
この〈令和〉の出典元が、たまたまこの連載の「雨水/2月19日」の回に取り上げた
『万葉集』
「我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れくるかも」〈大伴旅人〉
「春されば まづ咲くやどの 梅の花 ひとりみつつや 春日暮らさむ」〈山上憶良〉
の歌の序文である事に驚き、感慨深い思いがした。
また、元号発表を特集したテレビの番組で言語学者が、元号は語尾の音・韻が〈締まる言葉〉と〈開く言葉〉が交互に使われていると解説していた。
例えば、明治は〝めいじ〟—〝じ〟と〈止まり締まる〉、大正は〝たいしょう〟—〝しょうー〟と〈開き広がる〉音であり、昔からこれが交互に連なっているというのである。
近代以降は明治〈締まる〉・大正〈開く〉・昭和〈締まる〉・平成〈開く〉と来ているので、今回は〈締まる〉音の元号になるだろうと予想していたが、果たして〈令和〉〝れいわ〟—〝わ〟と〈締まる〉音の元号が発表されたのが、興味深かった。
時候に戻ろう。
〈春真っ盛り〉と、同様の表現に〈春たけなわ〉というのがある。
〈たけなわ〉という言葉は、〈秋たけなわ〉〈宴たけなわ〉という風にも使われ、漢字は「酣〈ケン〉」「闌〈ラン〉」の字が当てられる。
「酣/さかり・たのしむ」は、見ての通り酒が〈甘い〉—最高潮に美味い瞬間を表しており、まさにこれ一字で〈宴たけなわ〉を表現するものである。
「闌/しきり・さえぎる」は、建物の手すりの〝欄干(らんかん)〟や、出入り禁止を破る〝闌入〟などに使われ、物の境という意がある。
ふたつの字の共通する点は、物事の様子が徐々に進み、最高潮に達した時点、〝さかり〟〝しきり〟を表すところにある。
では〈真っ盛り〉と〈たけなわ〉の違いは何であろう。
真っ盛りは〝最高に達した瞬間〟の点を示し、たけなわは線上にある〝最高潮の時〟で、やがて祭りが終わった後の静けさ、寂しさに差し掛かる時を予見させ、それに至るまでの過程を楽しむという「日本人独特の感性」を表しているといえば、言い過ぎであろうか。
俳人の長谷川櫂は「桜の花なら満開をやや過ぎて、はらはらと散りはじめるころ、酒宴なら、はや半ばを過ぎてしまっているころ。それを惜しんで〈たけなわ〉という」そして「〈惜しむ〉とは、時とともに過ぎ去るよきものに対してのみ使う」と説いている。
この時候の、〈時とともに過ぎ去るよきもの〉とは、桜に違いあるまい。
わずかの短い期間に満開となり、儚くも散りゆく花は、
「世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし」
と、在原業平が詠んだように、いにしえより日本人の心を掴んではなさい。
もっとも最近、この時期に桜を見るために海外より観光客が押し寄せていることを思えば、桜の魔力も、グローバル化したということか。
時とともに過ぎ去るもの
〈時とともに過ぎ去るもの〉といえば、この平成の最後に個性的な二人が鬼籍に入った。
「内田裕也」と「ショーケン〈萩原健一〉」
「内田裕也」は79歳とその生き様からすれば長生きした方ではないかと思うが、「ショーケン」の68歳は若すぎる。
我々60歳代から70歳までの熟年世代にとって『反逆のカリスマ』「ショーケン」は、単なる時代のスターやアイドルの域を超えた「ショーケン」という存在そのものが我々の青春を表す姿・証であった。
当時高校二年であった私にとって『傷だらけの天使』は、強烈という言葉には収まらないインパクトの強すぎるショックッキングな、ある種の〝事件〟だった。
「ショーケン」については、また別に取り上げたい。
「ショーケン」と「内田裕也」に共通するのは、薬物を含め逮捕歴が複数回あることだ。
ショーケンは、その著書『ショーケン/講談社刊』の中で
「そのころの生活と言ったら、朝からマリファナ、ビール。マリファナを吸っちゃ、ビールを飲む。昼になったら酒、コカイン。酒をあおっちゃ、コカを吸う。スーッと鼻から、たまらねえ。アル中と麻薬中毒で、身も心もボロボロになった。眠れない夜は、しょっちゅう睡眠薬も呑んだ。要するに、一日中シラフのときがなかった。女性とも随分寝ました。何人もの女性と愛し合った。」と記しているようにどっぷりと薬物に浸かっていた時期があったようだ。
かつて、薬物関係で世間を騒がして、傑作だったのは何と言っても「勝新太郎」だろう。
勝新は、1990年1月ハワイのホノルル空港でマリファナとコカインをパンツの中に隠し持っていたのを発見され逮捕される。
現地で行われた記者会見での勝新の説明がふるっている。
機内のトイレ前で紳士風の男性に「ファンです」と言われて、プレゼントを手渡された。
トイレで中身を確認したら「これはまずい」とパンツの中に入れたという。
ハワイではすぐに釈放されたが、日本での逮捕を逃れるためにか、一年以上もハワイに滞在をする。
やがて日本政府の圧力もあり、ハワイ州から退去命令が出て帰国したところを逮捕された。
空港で逮捕された後の尿検査では、陽性反応が出て、なんとホノルルを発つ前の夜にもコカインをやっていたことがわかったという。
初公判での供述が凄い
「大麻は自分に合っているようで気分が良くなる。食欲が出る。コカインは鼻の周囲がシビれて合わない。覚醒剤はイライラする。LSDは1度だけ」—裁判所の中でこの台詞である。
勝新は、公判を〝舞台〟、〝傍聴人〟を客と呼び、台本を用意考えて裁判に臨み、公判前には廷吏に〝今日は満員かい〟と入りを確認したという。
薬物裁判をエンターティメントとして捉えたのは、後にも先にも勝新だけではあるまいか。
執行猶予のついた有罪判決を受けた後の記者会見では、
――麻薬について考え方は変わったか?
勝新:覚醒剤はオレに合わなかったけど、マリファナを吸ってずいぶん助けてもらったのも事実だ。まあ、それが麻薬なんだろうし、やってる人がいたら、やめろと言いたい。もう、麻薬と聞くと、いやだね。
薬物の被害者は自分自身であることだ。自身の体に変調をきたすのみならず、社会的な地位や仕事、お金、家族さえも失いかねない。
勝新も、この逮捕劇でCMが放映中止となり億に上る賠償金を支払うことになり、その後芝居からも遠ざかった。
ショーケンにしても、薬物中毒同然だった若い頃の無軌道な生活が命を縮めた一因であるかもしれない。
しかし、俳優やミュージシャンという己の体ひとつでもって表現をする創作者が、創作活動を続けていく中で持つ、不安、悩み、閉塞感というものは、普通の職業の人間に比べ、生半ではないと思う。
決して薬物を肯定も、奨励も、しているわけではないが
我々は、そんな彼らがもがき苦しんだ末に生み出された作品に対して金を払い、彼らはその対価として大金を得るのである。
少し前までは、歌舞伎役者は〝河原乞食〟、相撲取りは〝男芸者〟と呼ばれ卑下された。
歌手なり、俳優なり、芸能界に入るということは、一般人よりも一段階下の世界に落ちるということだった。
だから、昔のほとんどの親は、我が子が芸能界に入ることを反対したのである。
しかし、最近は様子が違うようである。
先日何かの番組で、元県知事をやったことのあるタレントが「いまや、芸能人は半公人であるので、その行動には気を配らなければならない」と言っていた。
冗談じゃない。
芸能人とは、公人の真反対の対角線上にある者たちであるべきだ。
いつから、芸能人が社会の規範の模範となり、週刊誌はモラルの番人となったのだ。
品行方正な真面目人間を見て何が面白いのだろうか。
型破りで破天荒な人間達が、常人には及びもつかない発想で制作し、提供された作品に金が払われ、彼らは高額の収入を得る。
この図式が壊れたのが今の芸能界であり、無料で番組を垂れ流すテレビが全く面白くないことの理由であろう。
大人の智慧
先日来、コカイン使用等で捕まった「ピエール瀧」の事件でマスコミがまた喧しい。
マスコミが一個人を叩き潰すのを眺めるのはなんとも気持ちが悪いものである。
もっと世論を建設的な方向に導く報道の仕方を模索する時期ではなかろうか。
今回の騒動を見ていると、1977年ローリング・ストーンズのキース・リチャーズがカナダでヘロイン所持で逮捕された時のことを思い出す。
長い裁判の末、カナダの裁判所は、キースを刑務所に入れるよりも、2回の大規模なチャリティコンサートの開催をローリング・ストーンズに命じた。
もちろんノーギャラである。
キースを刑務所に入れても誰のプラスにもならない。
キースを刑務所に入れない替わりに、彼の天性の才能をフルに活用して、麻薬撲滅運動や治療活動のための莫大な資金調達をした方が有益であると判断したのである。
これが〝大人の智慧〟ではなかろうか。
もっとも日本の司法制度では無理な話なのであろうが—
「令和」の時代は、なんとか〝大人の智慧〟が発揮される日本となるのを望むばかりである。