平成三十一年 小寒
正月考
親爺正月に考える
井伏鱒二 『厄除け詩集』
正月になると思い浮かぶ「五言絶句」がある。高適の「田家春望」であるが、私が五言絶句を堪能できる知識もあるはずもなく、井伏鱒二の名訳によってである。
田家春望/高適
出門何所見
春色満平蕪
可歎無知己
高陽一酒徒
家を出てみりゃ 当て所も無いが
正月気分が 何処にもみえた
ところが会いたい ひともなく
阿佐ヶ谷あたりで 大ザケのんだ
訳/井伏鱒二『厄除け詩集』
この訳詩は秀逸である。
高適の五言絶句であるのには間違いないが、井伏鱒二はこの訳によって高適の手からこの詩を奪い取って完全に自分の詩としまった。
なにせ4句の結句は「阿佐ヶ谷あたりで大ザケ呑んだ」である。意訳を超越しまっている。
感心するのは、一見自由奔放でありながらも、2句と4句の末字が〝みえた〟〝呑んだ〟と五言絶句の決まり事である〝韻〟をちゃんと踏んでいることだ。
周知のように五言絶句は〝起承転結〟で構成されるが、井伏鱒二は平易な日本語の文章でもって日常の風景に転化させることで、見事に情景を映し出した。それはまさに他人が観る風景ではなく井伏自身の日常の切れ端であり、彼の酒臭い息遣いまで漂ってくる。
五言絶句の漢詩の世界が、売れない作家井伏鱒二の日常の世界〝私小説〟へと我々を誘う。この時の井伏の姿はきものであろう。それも少しくたびれた紬が良い。なんといっても売れない作家の衣は、よれた着物に限る。
というように、正月を迎えれば、この井伏鱒二の〝五言絶句〟訳詩から、大酒呑みの酒臭い〝親爺のきもの姿〟が浮かび_それはひょっとして現在の〝自分自身の姿〟か_と、私の連想は続くのである。
正月回顧
正月に思い浮かぶ事柄はたくさんある。
まずは、この『麻布御簞笥町倶樂部』のコンセプト「親爺のきもの」の私の原点は〈正月の記憶〉にある。
元旦の朝は、毎年父親が観る元日能の謡の音で目が醒める。
顔を洗い、枕元に置いてある着物を着て、親に新年の挨拶をする。
神棚と仏壇を拝んでから、お節のお重が置かれる食卓に親と妹と一緒に座りお屠蘇を呑んで、お雑煮とお節をいただくというのが、大学で上京するまでの正月の決まった始まり方だった。
元旦の一連の慣習の中で、小学生低学年の頃まで私のお気に入りだったのは、〝お屠蘇〟だった。
少し味醂が入っているとはいえ、親公認で大っぴらに酒が飲めるというのは、私にとって正月というものを特別にした。
独特の漢方の香りのする、あの甘くてどろりとした酒、お屠蘇は〝背徳の香がする淫らな液体〟であり、子供の私は夢中になった。
朝餉の後も親の隙を伺ってこっそり呑んでは、赤い顔でへらへら笑っているのを父親に見つかり、正月早々にさっそく拳固を喰らうのであった。
〝お屠蘇〟は古来中国から渡ってきた薬草の入った酒で、「鬼気を屠絶し人魂を蘇生する」といわれたことから〝屠蘇〟と呼ばれるようになった。
江戸時代では、大晦日の日に赤い絹の袋に屠蘇散をいれて井戸に浸し、それを元旦の朝、若水を採ったときに屠蘇散を浸しておいた水を飲むと、年中の邪気を払うとされていた。井戸から取り上げた屠蘇散は酒の中に入れて、年賀に来た人に勧めていたようである。
現代の正月行事で一番行われていないのが、元旦の早朝に井戸の水を汲む、この〝若水〟であろう。
〝若水〟は、地方によっても違いがあるだろうが、大晦日の夜は寝ずに、元旦の日の出とともに、注連縄を廻した井戸から水を汲み、それをまず神棚に供えたらしい。
また、この〝若水〟で雑煮を作ったり、梅や昆布、山椒などを入れた〝福茶〟を淹れて家族で呑み一年の邪気を払ったという。
古来、水は邪気を払い、身を雪ぐものと捉えられていたため、昔の人は、まず年の一番初めに水に礼をつくし、己を清めた。吉原の遊女は、元旦の朝暁け七つ/午前4時に初湯に浸かり、蛤の吸い物をいただいてから、屠蘇雑煮で祝ったという。
私の実家では〝福茶〟を飲む習慣はなかったが、最近はひとりしみじみ呑むようにしている。一年に一度ある期間だけに呑むものを愉しむのは、なんだか嬉しい。
この〝若水〟を始めとした正月の行事は「年男」が務めていた。「年男」とは行事を行う主役であり、それは大抵の場合、家の主人である家長の役割であった。
「年男」は家に幸いをもたらす〝歳神様(歳徳神)〟を迎え、接待するのがその役目である。
年男は、年末の〝煤払い(大掃除)〟から〝松飾り〟の設え、〝若水〟迎え、供え物の準備、おせち料理を作るなど、正月行事の一切を取り仕切った。
〝歳神様〟の接待は、すべて一家の長である「年男」の役割であり、それ以外の人間には炊事もさせなかった。
今は、普段忙しい主婦に正月の三ヶ日くらいはゆっくりさせるために、「おせち料理」があるという謂れが一般であるが、本来「おせち料理」は〝歳神様〟へのお供え物であり、それを作るのは家長である「年男」、家族はお供え物のおすそ分けをいただいているというのが正しい姿であるらしい。
故に正月には、片方が自分用、もう片方は〝歳神様〟用に、両端が細くなっている柳箸を使う。
最大の年中行事_正月
結局のところ、正月/松の内というのは〝歳神様〟が各家に滞在している期間である。
〝歳神様〟を迎え家族が一年を安寧に過ごせるように、一家の長である「年男」は、年末から〝煤払い〟で家を清め、〝松飾り〟を飾って依り代を準備する。
餅を搗き床の間に〝鏡餅〟を置き、おせち料理を作って〝供物〟を用意した。大晦日から元旦の朝にかけては寝ずに、注連縄を張って屠蘇散を浸していた井戸から〝若水〟を迎えて神棚に供え、さらに手水として自らを清め、〝お屠蘇〟や〝雑煮〟を〝歳神様〟に供してともにいただく。
三ヶ日は掃除や喧嘩を避けて〝歳神様〟が帰らぬように、家族は静かに穏やかに過ごすよう務める。
〝歳神様〟がお帰りになり松の内の開ける7日は〝人日(若葉)の節句〟には七草粥をたべて一年の健康を願う。
11日には刃物を使わず鏡餅を割り〝鏡開〟を、15日には正月に飾った松飾りなどを焼く〝左義長(どんど焼き)〟と〝小正月〟として小豆粥を食す。
これがざっと正月の一連の行事であるが、昔ながらの中にはもっと細かいものが多くある。日本の年中行事の中でこれほど長く、密に入ったものがないことから、古来、日本人が正月というものをいかに大切にして来たかがよく知れる。
このような正月行事も時代によって変化する。
元旦は「家族が揃い家の中で穏やかに〝歳神様〟を静かに待つことが習わしとされていた」が、やがて江戸時代の後期には、その年の恵方の神社にお参りする〝恵方参り〟が始まった。
この場合も、歩いて行ける範囲の神社となっていたが、明治時代になり鉄道が開設されると、多くの参拝客/乗客を得るために神社仏閣と鉄道会社が連携して大規模な宣伝が展開されて、遠方にも参る〝初詣〟が生まれる。現在のように、明治神宮や成田山新勝寺、川崎大師に何百万人もの人が参拝に訪れるようになった歴史は、そんなに遠くない。
このように時代と環境によって伝統行事は変わっていく、伝統とは、その時代時代の変化に則したものに姿を変えながら続いてきたものだろう。
しかし、歌舞伎ではないが、型があっての〝型破り〟、基本があっての応用である。本来の由来〝根っこ〟が無くなって形だけが残っているものは存続さえ危うい。
正月行事の中には形だけが残るものもあれば、無くなりつつあるものもある。
中・高校生の塾講師である友人に聞いた話では、〝お屠蘇〟そのものを知らない生徒が少なからずいるという。家庭でやらないというだけでなく、存在そのものが失われつつある。
この年末年始に海外に出国した人は70万人を超え過去最高を記録したという。この家庭の〝歳神様〟は何処に行かれたのだろうか_やはり海外か
私は、この日本独特の年中行事、人生儀礼は美しい遺風(いふう)であり、素敵な風習だと思っている。自分自身で出来るだけ設えていこうと思う〝きもの〟とともに
正月とは関係ないが、冒頭つながりということで、好きな井伏鱒二訳の五言絶句を『厄除け詩集』から二題ご紹介
古別離/孟郊
欲別牽郎衣
郎今到何処
不恨帰来遅
莫向臨邛去
別れにくさに袖 牽(ひ)き止めて
お前これから何処(いずこ)に行きやる
帰りの遅いを恨みはせぬが
吉原あたりが気にかかる
勧酒/丁武陵
勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
この盃を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
「サヨナラ」だけが人生だ