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令和元年 小満

2019年5月21日

万物が満ちはじめる

春の名残と夏の走り

三社祭と若葉のころ

小満_令和最初の「江戸の春の大祭/三社祭」が17・18・19日の日程で執り行われた。

気のはやい〝江戸っ子〟は、「三社祭で浴衣の解禁」とする人もいる。

さすがにこれには倣わないが、気温が25度を越した日には〝単衣〟を着ることにしている。

夏が近い。

この時候は、陽気盛んで、山野の植物は花を散らして実を結び、田に苗を植える準備を始めるなど、万物がほぼ満足する季節と『暦の本』にある。

また別の書物には「万物が成長し天地に満ちはじめる」ともある。

若葉のころ

この時候の季語に、山野一面を覆う新緑をあらわす「万緑」がある。

私の中にも「万緑」を思い起こす場面がいくつかある。

郷里の九州の田舎では、樟(くすのき)の大樹がこの時期見事な黄金色を抱えていた。

もっとも樟に対して抱く私の強烈な思い出は、小学生低学年のころ悪さをした私を、夜中に父親がこの木に縛り付けたことである。

漆黒の闇の中、大樹に縛り付けられ泣き叫んだ私の声は、四方八方隣近所に響き渡り、翌日近所の子供達にくどいほど冷やかされた。

また二十年ほど前に、やはりこの時候の「奈良/山野辺の道」を取材した際、脇道に逸れた場所に柿木畑を見つけた。

その艶やかな緑にカメラマンも私も息を飲んだ経験がある。

あたり一面に漂う生命力と、澄み渡った爽やかさとを同時に感じた瞬間だった。

蕪村の句に「茂山や さては家ある 柿若葉」というのがある。

これも奈良の「柳生街道」で目の当たりにした、楓の若葉—若楓の葉と葉の緑の隙間から一条の陽が差し込む風景も見事であった。

若い頃は気にも留めなかった風景に想いを巡らせ、味わえるようになったのは、少しは成長したことの証しであろうと、無駄に齢を重ねてきた私も最近想うようになった。

草木国土悉皆成仏

またこの時候は、春の名残りと夏の走りを味わう季節でもある。

春の名残りは、筍、蕨、芹、空豆、甘鯛、白魚

夏の走りは、セロリ、トウモロコシ、枝豆、鯵、鮎魚女

現在は、流通と生産技術が進んで一年中手に入るものもあるが、季節の変わり目のテーブルに、旬の食材が同時に乗るのは楽しい。

もっとも独り者の身には、過ぎ去った過去の食卓を思い出すのみというのが悲しい。

「セロリ」は1600年代安土桃山時代の秀吉朝鮮出兵の際、加藤清正が朝鮮からその原種の種を持ち帰ったため「清正人参」と呼ばれていて、江戸時代末期にはオランダからも持たされたので「オランダ三つ葉」と呼ばれていたのだと教えてくださったのは、西麻布の日本料理「分とく山」の野﨑洋光料理長である。

野崎料理長には現在進行中の料理動画に関する仕事で、度々お会いする機会があり、その都度、この「セロリ」のような食材の話や料理についての興味深いお話がお聞きできて、とても楽しい時間を過ごさせていただいている。

野﨑さんは、日本人の先人達は、旬の食材を旬の時期にシンプルな調理法で、日本人の体にあう健康に良い食べ合わせ〈薬食い〉をしてきた民族であるという。

酵素やビタミン類などの栄養素を、人工的なサプリメントなどで補うのではなく、自然の食材から摂取するという日本人本来の食生活を取り戻せば、日本人はもっともっっと健康になれるはずだと仰る。

—現在、野﨑さんをはじめとする18名の料理人の方々の「美味しい健康」に対する取り組みを、動画とともに紹介するサイトを制作中であり、6月1日に配信開始予定である—

日本人の中には仏教の教えから、「山川草木悉皆成仏(やまかわ そうもく しっかい じょうぶつ)あるいは草木国土悉皆成仏とも」という想いが少なからずある。

魂を持たぬ山や川、国土、野菜を含む草や木や動物なども悉(ことごと)く仏性を持つ、というもの。

万物は霊魂(アニマ)を持つというアニミズムにも通じ、日本神教とも同根かもしれない。

この思想を最初に中国から持ち帰り説いたのが「空海」で、その後「天台宗」をはじめとする「密教」の教義のひとつとなっている。

近年では思想家の「梅原猛」が、経済中心の物質社会一辺倒となった日本人に警鐘を鳴らす言葉として用い、「現代の日本人は精神的に音痴になるように教育されてきた」と、精神性の衰えを憂いた。

現代において、精神性の衰えと食生活の衰えは密接な関係を持っているように思える。

野﨑さんが仰るように、古来日本人は食物から〈薬食い〉で健康となる栄養を〝いただいて〟きた。

魂はなくとも命育んだ自然の食物から〝いただく〟のと、同じ栄養素であっても、人工的に生成されたものから摂取するのでは、人体およびその精神性には雲泥の差が生じるはずである。

食の「安・近・短」

野﨑さんとお話しをしていて「安・近・短」という言葉が浮かんだ、

「安(値)・近(場)・短(期間)」はバブル経済以降の旅行の傾向を表したものだが、これは現在の食品事情にも当てはまるのではないかと想う。

「安(価)・近(代的製法)・短(時間調理)」という風に、確かに安価で近代的(科学的)な製法で調理に時間がかからないものは、一見便利で合理的である。

そして、今現在この「安・近・短」な食品がスパーマケットやコンビニエンスストアに溢れている。
しかし、この利便性を得ることで我々が失っているものは多い。

安価で近代的な製法とは、自然の食品・天然のものに近い色素や香り味を作るかを研究し、人工的に生成するかという成果の産物である。

高い自然食品を使わずに、いかに人工的で廉価な化合物を使うかを追い求めた結果である。

日本は世界に冠たる食品添加物王国となった。

乳製品が全く使われていない「マーガリン」、重量の60%が添加物である「高級ハム」、某国の廃棄する茶葉の茎で作られたペットボトの「緑茶」、我々は何を食べさせられ、飲まされているのか。

同じ「安・近・短」でも、野﨑さんが提唱される食は、「安(心安全で)・近(くの生産地で取れた旬の食材を)・短(い距離での調理/キッチンから食卓まで)」である。

日本人は、食の入り口、命の入り口を考え直す時に来ている。

特に齢を重ねた我々は、次代の子供と若人のために—

 

編緝子_秋山徹