令和元年 小雪
三島忌
小雪—北の国では文字通り雪がちらつき出す時候
紅葉で色づいた「山粧(よそ)う」から、草木が枯れ始めて「山眠る」季候となる。
反面、小春日和と呼ばれる穏やかな日もある候でもあり、陽気につられて春の花が咲くのを〝狂い咲き〟または〝忘れ花〟〝帰り花〟とも呼ぶ。
〝忘れ花〟という言葉はなんとも趣があって響きが良い。
こんな言葉を探り当て拾うのは楽しい。
「雪」は中国の禅僧の偈にあるように
春有百花秋有月
夏有涼風冬有雪
春に百花あり、秋に月あり
夏に涼風あり、冬に雪あり
と、季節の情趣として捉えられている。
いざさらば 雪見にころぶ ところまで—松尾芭蕉
の、芭蕉ように、俳諧でも雪を風雅な情景として迎えて詠ったものが多いが、東北出身の一茶などは雪は辛いものとして詠んでいる。
これがまあ 終の住処か 雪五尺—小林一茶
は、これから余生を送る庵が五尺の雪に埋もれる場所であることにうんざりして、まったく風雅な趣のない身も蓋もない様子で詠っている。
もっとも、次のような雪国の無邪気な子供らしいものもある。
うまさうな 雪やふうはり ふうはりと—一茶
霜月には新暦と旧暦の違いがあるが、
一茶忌/11月19日(新暦では1月5日)
芭蕉忌/11月28日(旧暦では10月)
のように、この時期に両俳人の命日が季語としてある。
そして約半世紀前の一九七〇年11月25日に生まれた命日にちなむ季語が〈三島忌〉である。
三島忌/憂国忌
その水曜日のことは、よく覚えている。
勤労感謝の祝日連休に風邪をひいた私は、治りかけのその日も中学を惰性で休んだ。
布団の中にいても退屈なので昼食の後、近くの書店に本を立ち読みに行くと、書店主が客そっちのけで食い入るようにテレビを見ていた。
そのテレビから「三島由紀夫割腹自殺」という言葉が飛び出してきた。
えっ—割腹自殺——三島由紀夫が——
その頃、毎年ノーベル賞受賞者発表の時期になると、その度に、文学賞候補として「三島由紀夫」の名前が取りざたされていたので、中学一年生の私もその作家の名前は知っていた——彼の作品を貪るように読みだしたのは、高校生になってからである。
家に飛んで帰って、母親の〝学校を休んだ病人は寝ていろ〟と云うのを無視してテレビを点けた。
どの局のチャンネルを回しても、この事件で大騒ぎである。
市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地の上空をヘリコプターが飛び回り中継を結び、スタジオではアナウンサーや解説員、評論家が騒ぎ立てている。
やがて夕刻となり、父親も勤めから戻って二人してテレビを見つめていた。
普段は何かと厳しい父親が、不思議とこの日はテレビを見続ける私を咎めなかった。
刻々と事態の概要が伝わってくる。
午前10時58分に、市ヶ谷陸上自衛隊駐屯地を森田必勝、古賀浩靖、小賀正義、小川正洋ら『楯の会』メンバー4人と訪れた三島由紀夫は、東部方面総監室に総監・益田兼利陸将を人質に取り、総監室バルコニーから自衛隊員に対し、決起を促す演説を行ったのち、総監室にて古式作法に則った割腹自殺を遂げた。
また、三島自決のあと森田必勝も同じく割腹自殺で殉死した。
三島の介錯は最初森田必勝が行ったがうまくいかず、古賀浩靖が行い、森田の割腹の際の介錯も古賀が務めた。
三島と森田の割腹の後、古賀・小賀・小川の三名は益田総監を伴って総監室を出たところで逮捕された。
警察の温情から三名には手錠はかけられなかったという。
また市ヶ谷の現場には、三島の友人「川端康成」が、いち早く駆けつけたという。
「正気の沙汰ではない」「まるで気違い沙汰だ」という、当時の総理大臣・佐藤栄作や防衛大臣・中曽根康弘の談話が入ってくる。
この事件に関する三島の真意は未だわからない。
バルコニーから自衛隊員に対して演説を行ったからといって、彼らが決起するとは三島も考えていなかったであろうから、最初から割腹自殺することは決めていたのであろう。
三島の心情の一端を窺い知ることのできる一文が、事件の4ヶ月前に産経新聞に掲載されている。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。/産經新聞1970年7月7日夕刊」
このような憂国の念から、当時、三島由紀夫の自決を諌死(かんし/死んで諌〈いさ〉めること)と捉えた人も多い。
今、振り返えってみれば、半世紀前に三島が予言し危惧したように、三島が愛した「日本」は、極東の一角に残った〝無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国〟の姿を晒している。
この事件の影響で、三島由紀夫の遺作『豊饒の海/春の雪・奔馬・暁の寺・天人五衰』四部作は後日ベストセラーとなった。
私も、父親が買ってきたのを、さっそく読んだが中学一年生の乏しい知識では当然理解できなかった—かくいう現在でも良く理解ができていないのだが。
この遺作『豊饒の海』の入稿を終えたその足で、市ヶ谷に赴いていることからも推し量れるように、『豊饒の海』は三島由紀夫渾身の作である。
ひとりの男の四たびに渡る輪廻転生を軸にした物語は、ストーリーを追うだけではなく、その奥に置かれた三島の思想を読み取ることが求められるが、これが、難解である。
生半な知識では、仏教や神道の哲学、能の世界観などが散りばめられたこの作品の解釈は困難を窮める。
次の一文に、三島の小説という芸術表現に対する想いをみることができる。
「ことばというものは終わらせる機能しかない。はじめる機能などありはしない。表現されたときに何かが終わっちゃう。その覚悟がなかったら芸術家は表現しなければいい。一刻一刻に過ぎてゆくのをだれもとめることはできない。しかしことばが出たらとめられる。それが芸術作品でしょう。
(中略)
鴎外の「高瀬舟※」ではないけれども、ことばというのは安死術です。そうしなければ時が進行してゆくことに人間は耐えられない/対談・人間と文学」
※森鴎外『高瀬舟』/遠島送りになる咎人を乗せて運ぶ「高瀬舟」、ある晩、乗り合わせた罪人・喜助と同心・羽田の二人の心が交差する様を描いた短編ながら心に沁みる作品。
三島は、一刻一刻「日本」という存在がなくなっていくことに耐えられず『豊饒の海』ということばで止めようとした。
『豊饒の海』が小説の遺作であるならば、割腹自殺は、三島由紀夫自作自演による最後の舞台作品であったと、私は想像している。
三島由紀夫が命を賭して日本を憂いてから、半世紀もの時が経ってしまった。
まさに、光(太陽)陰(月)は矢の如し。
我々は何をやってきたのだろう。
市ヶ谷陸上自衛隊駐屯地、東部方面総監室に遺された三島由紀夫の辞世の句が二首
益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜
散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐
三島由紀夫、享年45歳の若さであった。