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令和元年 小暑/七夕

2019年7月7日

似非伝統

願いの絲

七夕(乞巧奠)

本日、七月七日は七夕で、五節句のうち四番目の節句。

新暦の現在でも、旧暦のこよみで二十四節気と五節句が当てられているが、季節感のズレを大きく感じるのは、この七夕ではないだろうか。

日本が明治五年まで使用していた旧暦の太陰太陽暦は、月の満ち欠けで暦が定められていた。

従って新月から始まる月の七日目は必ず半月で、その夜空の明るさは満月の十二分の一、つまり星空が綺麗に見える光の夜であった。

星は満月の日では光が強過ぎて綺麗に見えない。

また旧暦の七月は、新暦ではおよそ1ヶ月間の違いがあるが、次のように年によってはそれ以上に違うこともある。

〈旧暦七月七日を新暦に〉
2019年8月7日/2020年8月25日/2021年8月14日
2022年8月4日/2023年8月22日/2024年8月10日
2025年8月29日/2026年8月19日/2027年8月8日
2028年8月26日

本来、旧暦の七夕は、盆踊りや夏祭りの時期が終わり、秋の気配を感じる澄み渡った夜に、綺麗に浮かび上がった天の川を眺めるという風情のものであった。

現在の新暦七月七日では、梅雨が終わっていないこと、秋の澄んだ空ではないこと、半月とは限らないので晴れても綺麗に星が見えるかどうかわからないという、もっとも七夕にふさわしくない時候である。

どうにも「七夕」には季節の違和感を感じてしまう。

仙台の「七夕祭」が八月に行われるのは、実際の天候や季節を、旧暦の風情にできるだけ近づけようとしたものであろう。

誹諧、歳時記では1月から3月が春、4月から6月が夏、7月から9月が秋、そして10月から12月が冬と定められている。

旧暦7月は秋の始まりの月なので、当然「七夕」「天の川」は誹諧では秋の季語となる。

芭蕉や蕪村の「七夕」の句に次のようなものがある。
荒海や 佐渡に横とう 天の川—松尾芭蕉
戀(こい)さまざま願の絲(いと)も白きより—与謝蕪村〈願いの糸=七夕の別名〉

やはりどちらも、浮かぶ景色や情景は秋の風情である。

似非伝統〈お中元〉と〈お歳暮〉

この時期の〝しきたり〟〝習慣〟に〈お中元〉がある。

〈お中元〉は元々、道教の暦法に「上元/1月15日」「中元7月15日」「下元/10月15日」があり、これが仏教と結びついて「三元節」となった。

のちに中元の7月15日に盂蘭盆の仏事を行なうようになった。

これが日本に伝わり、中元に盂蘭盆を行うことが〝お盆〟の行事であったため〈中元=お盆〉であった。

この来歴から〈中元〉という言葉に、「世話になった人に贈り物をする」という意味はない。

これが贈答という意味を持つのは明治30年代、夏場に売上の落ちる百貨店が商戦として始めたものが、定着したものである。

〈お中元〉とは、日本古来よりの伝統文化ではなく、近代に百貨店の商売上のキャンペーンから生まれた「似非(えせ)伝統」であった。

何のことはない、「バレンタインデーのチョコレート」と大して変わらぬものである。

当然〈お歳暮〉も気になるので調べてみた。

〈歳暮〉は、その文字の通り「歳(年)の暮れ」=年末、年の瀬を指す言葉だった。

それが年末に、「年神様」や「先祖の霊」に供える〝魚〟や〝米〟〝餅〟を供物として持ち寄るようになり、習慣となった。

やがて仕事や遠方にいて年末に持ち寄ることができない親戚などが、実家や本家などに送るようになり、それが、お世話になっている人に贈答を送るという習慣に変化したという。

本来の家族単位での〝しきたり〟が形骸化して贈答習慣へと変化したのは、これも百貨店のキャンペーンあたりが拍車をかけたような雰囲気がする。

初詣

このように古くからの伝統文化ではなく、明治以降の近代に商売上の理由から発生し、あたかも伝統のように思われているものがいくつかある。

そのひとつが『初詣』である。

『初詣』は、新しき年を寿ぎ家族で神社にお参りするのが昔からの伝統行事——と考えがちだが、これは実は違う。

日本古来の正月とは、「元日は家族揃って昨年一年の垢(煤)を落とした家で、年神様(歳徳神)を静かに待つ」というのが習わしである。(正月に海外旅行などに出かけた家族の家では年神様はひとり何をする—)

これが少し変化しだしたのが江戸時代後期19世紀で「年神様(福の神)が来るのを待つのではなくて、年神様がいる方向〝恵方〟へこちらから出向こう」という「恵方参り」が庶民の中で流行りだした。

しかし、これとて自宅近くで歩いていける〝恵方〟の方向にある寺社が目的地であった。

これが『初詣』という名称で、有名な寺社に新年のお参りをするようになったのは、明治の中期以降のことであるが、これには鉄道の普及が大きく関連している。

当時鉄道を開設資金の一部を大きな寺社が提供することも多く、鉄道と寺社の両者が互いを利用しあって集客を伸ばしたことが今の『初詣』を形作った。

『川崎大師』と川崎電気鉄道(現・京浜急行電鉄)、『成田山新勝寺』と成田鉄道(現・JR成田線)、『伏見稲荷』と東海道本線、『生駒聖天宝山寺』と大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)など、全国に寺社とつながりの深い鉄道は多い。

これらの鉄道が沿線の寺社への正月のお参りを、新聞広告などで宣伝して集客につなげていった結果『初詣』は正月行事として定着していった。

と、『初詣』の結果を述べれば、こちらも鉄道会社とその沿線寺社の集客キャンペーンの結果生まれた、近代発祥の習慣に過ぎない。

もちろん、正月に家族でお参りに詣でる『初詣』、日頃お世話になっている人に感謝の意を込めて贈る『お中元』『お歳暮』が悪い習慣だとは思わないが、根本の精神が形骸化してしまえば、発生が商売上のキャンペーンであるだけに何とも面映ゆい。

四万六千日

ここで〈七夕〉の季節に戻ろう、7月10日は浅草浅草寺の四万六千日/ほおずき市の縁日である。(以下、浅草観音浅草寺HPより抜粋)

平安時代頃より、観世音菩薩の縁日には毎月18日があてられてきたが、室町時代末期(16世紀半ば)頃から、「功徳日」といわれる縁日が設けられるようになった。
浅草寺では月に1度、年に12回の功徳日を設けている。このうち7月10日は最大のもので、46,000日分の功徳があるとされることから、特に「四万六千日」と呼ばれる。
この数の由来は諸説あり、米の一升が米粒46,000粒にあたり、一升と一生をかけたともいわれるが、定かではない。
46,000日はおよそ126年に相当し、人の寿命の限界ともいえるため、「一生分の功徳が得られる縁日」である。
四万六千日にともなう〝ほおずき市〟の起源は、明和年間(1764〜72)とされる。四万六千日の縁日は浅草寺にならって他の寺社でも行なわれるようになった。

と、こちらは伝統文化と呼んで良い由縁であったので、安堵した。

この日を題材とした落語に『船徳』というのがある。

おきまりの放蕩が過ぎて勘当された若旦那が、柳橋の船宿に転がり込んで居候している。

ぶらぶらしていても暇だというので、船頭をやると云い出すが経験も堪え性もない若旦那に務まるはずもない。

そんななか、浅草寺の四万六千日で船宿は大忙しになる。

客が来るが船頭が出払っていていない、それじゃあと女将が止めるのも聞かず若旦那がかって出るが、案の定、まともに漕げるわけもなく、右往左往、ドタバタするというお噺。

三遊亭圓遊、春風亭柳朝、古今亭志ん朝などの話が有名だが、なかなか「四万六千日」の当日にこの噺を聞ける機会はない。

令和元年七月十日の浅草演芸ホールの番組表を確認すると、〈昼の部〉に「春風亭一之輔」、昼の部主任で「金原亭馬生」、〈夜の部〉に「隅田川馬石」、夜の部主任で「桃月庵白酒」が出演する。

もし彼らのうち誰かが『船徳』をかけて、あなたが聞けたとすれば、それは〝たなばた〟ならぬ〝たなぼた〟である。

編緝子_秋山徹