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令和元年 処暑

2019年8月23日

羊の肉のスープ

心をカーンと打つもの

処暑

処暑の「処」の字は、人が几(肘掛)でくつろいでいる様を表現したもので[おちつく・すむ・やどる]という意味がある。

この時候は、暑さが処[おちつく]頃という意の処暑という名称となる。

処暑の次候は「天地始粛/てんちはじめてさむし」、秋雨前線が冷気と秋の気配を運んでくるが、日中はまだまだ暑く、秋なのに扇子が手放せないという「秋扇」の季節が、徐々に扇子の存在すら忘れる季節への入り口となる。

これを夏の湿度の中に秋の香りを嗅ぎ取って楽しむか、去ろうとする夏が最後のあがきとして餞別代わりに残す暑さ「餞暑」と感じるかによって、体感が変わってくるのではなかろうか。

本来日本人は、前者を愛しむ民族であろう。

夏から秋に季節が移ろうといえば、和菓子の種類もまた移っていく。

九月九日重陽の前後には『秋の七草/女郎花(おみなえし)・芒(すすき)・桔梗(ききょう)・撫子(なでしこ)・藤袴(ふじばかま)・葛(くず)・萩(はぎ)』を飾るが、九月になると、これにちなんで和菓子の〝銘〟や〝意匠〟に七草が使われる。

個人的には、九月に入ると水羊羹から通常の羊羹に戻すものと決めている。

羊羹については、夏目漱石が『草枕』に、谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』に珠玉の一文を添えている。

草枕』—「あの肌合が滑らかに、緻密にしかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練上げ方は、玉と蝋石の雑種の様で、甚だ見て心持ちがいい」

陰翳礼讃』—「かつて漱石先生は『草枕』の中で羊羹の色を賛美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢見るごときほの明るさをふくんでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑らかなるものを口中に含む時。あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」

谷崎は羊羹を使って、日本家屋の陰翳を見事に描いている。闇にあった唐紙の雲母が、ひとときの陽の光で光を放つが如く、羊羹の色を瞑想的とあらわす。

羹/あつもの

以前より、和菓子の棹物としての「羊羹」と、「羊/ひつじ」というその字面に疑問を持っていたので『字通』を紐解いてみた。

【羊】はそのまま動物の[ひつじ]
【羹】は[あつもの]と読み、その意味するものは〈具の入った汁物・肉汁〉となっている。

つまり「羊羹」とは〈羊の肉のあつもの(スープ)〉であるという。

中国の古書には、同じ肉類で—猪羹(イノシシのあつもの)/蛙羹(カエルのあつもの)肉以外で—蓴羹(じゅん菜のあつもの)/菜羹(野菜のあつもの)/藿羹(豆の葉のあつもの)、〝肉のあつもの〟でも梟羹(フクロウのあつもの)なんていうものまで記され、和羹(塩梅)という言葉もあるという。

これがなぜ現在の和菓子の「羊羹」となったかというと、元々「(羊)羹/あつもの」は「饅頭」などと一緒に「点心」として、中国に留学し帰国した禅僧たちによって伝えられた。

室町時代の書、曹洞宗開祖「道元禅師」の『正法眼蔵』に、点心として「羹」と「饅頭」を添えるという記述があるが、禅僧は肉食を禁ぜられているため、この「羹」には肉は入っていない。

野菜類を肉に見立て調理した精進料理である。

このことから「羊羹」も「羊」の肉に見立てるため、小豆や小麦粉、葛粉などを使ううちに今のような姿、和菓子へと変身したものと思われている。

また、この変身の過程に「懐石料理」も影響を及ぼしているだろう。

「懐石」とは「茶懐石」とも呼ばれ、文字通り茶席の招待客に供されもてなす料理であるが、これも元々禅宗の食事からである。

仏教の食に関する戒律『非時食戒/ひじじきかい』では、僧は正午に陽が頭上に来た時から、翌朝の暁(自分の手のひらの手相が見える時)まで、食事を摂ってはならないことになっている。

これは、「食事戒」としてタイなどの上座仏教や日本の禅宗では、今でも固く守られている。

この食事を摂ってはならない時間に、空腹や寒さをしのぐために、温めた石を布に包み懐に入れることを「薬石」と云った。

これが、温めた石を懐に入れた程度に腹を満たす料理として「懐石料理」となり、茶席で茶を振る舞う前にだす食事を指すようになった。

点心_心を叩く

禅宗では、空腹で精神的に緩んだり、集中力が散漫になったときに、心を叩いて気合いを入れることを「点心」と云った。

心を叩く刺激剤として、お茶が呑まれたり、食事に代わる簡素な軽食を「点心」として食べたという。

これが「点心」としての「羊羹」の本来の役割であろうが、私にとっては心を叩くというよりも、ホッと一息する、まさに「弛緩」のひとときである。

編緝子_秋山徹