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平成三十一年 雨水

2019年2月19日

色香の禁忌

好き好き好き好き_一休さん

桜折る馬

今節気の〈雨水〉は、雪はやがて雨へと姿を変え、その雨が滋養となり芽吹きを呼んで春の目醒めを迎えるという冬と春の狭間の時候を表わしている。

この、まだ雪残る時期を彩る花は〈梅〉である。

梅に先んじて、雪を背に文字通り拳の形(なり)で花開かせ強い香りを放つ〈辛夷〉は、雪国の辛抱強さの象徴であるが、梅の赤や白の花を咲かす姿には、その艶やかさとともに、まだ春来ぬこの時期に懸命に咲いているという健気さが愛おしき想いを抱かせる。

梅はもともと日本に自生していたものではなく、中国よりもたらせれた樹木で、「うめ」というよみも〝訓読み〟ではなく「バイ」と同じ中国読みの「メイ」が「うめ」と変化したものであるという。

梅については、幼い頃に祖父から聞かされた

「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿、柿折らぬ馬鹿」

という言葉が頭にずっと残っている。

まあ、馬鹿という響きが面白かったからだけなので

「桜の木は弱く、むやみに切ったり折ったりするとそこから傷んで枯れることがある。梅の木は、成長が早いため剪定をして間引いたほうが良い。柿の木は、一度実を付けた枝はもう実を付けないので、実を取るときに折って、他の枝に養分がいくようにする」

という本来の意味を知ったのは、ずっと後の大人になってからだった。

雨水の時候の季語には〈梅〉の他に代表的なものとして〈東風/こち〉や〈鶯〉〈蕗の薹〉がある

特に、花札の絵柄と〈役〉にもあるように、〈梅〉と〈鶯〉は取り合わせが多い。

鶯はその「ホーホケキョ」という鳴き声が「ホケキョ」—「法華経」と聞こえるということで、〝ありがたい鳥〟とされている。

昔から、日本人はこの〈鶯の鳴き声〉のように〝音〟や〝語意〟などを転化させた「語呂合わせ」や「シャレ」「回文」などの〈言葉遊び〉から祝い事や行事を作るのが好きである。

言葉遊び

今、我々が古典文学として教わる「和歌」や「連歌」などにしても、詠われたその時代では酒宴の席での〈言葉遊び〉が遺されたものも数多い。

例として、〈梅〉を詠ったものに

「我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れくるかも」という〈大伴旅人/おおとものたびと〉の歌と、「春されば まづ咲くやどの 梅の花 ひとりみつつや 春日暮らさむ」〈山上憶良/やまのうえのおくら〉の歌が『万葉集』に遺る。

この二首は、九州太宰府の長であった〈大伴旅人〉の屋敷に〈山上憶良〉などの人々が新年の宴に集った際に〈酒宴の趣向〉として詠んだもので、この時の歌三十余首が『万葉集』に収められている。

大伴旅人と同じく太宰府の長であった〈菅原道真〉が、京を追われ太宰府に赴く際に庭の梅に詠んだ

「東風ふかば においおこそせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」

という有名な一首は、京を去らねばならなかった道真の無常の想いが儚げに表されていて、私の好きな歌のひとつで、その後、道真の怨念が京の街を恐怖に陥れたのとは対極をなす。

道真の怨念は置くとして、昔の日本人の酒宴の趣向としての〈言葉遊び〉はまことに奥深いものがある。

それが現代となると

昨年、某省の事務次官が酒席に女性記者を呼びつけ、酔った勢いでか〝身も蓋もない下品な台詞〟で口説いたのが問題となり辞任したが、その際の言い訳で「日頃、銀座のクラブなどで、ホステス相手に〈言葉遊び〉をすることがあり、その延長だった」と吐かした。

〈言葉遊び〉という言葉に対して失礼である。

おのれの吐いた下衆な言葉と、古の人の風雅な〈言葉遊び〉を一緒くたにしてもらっては困るのである。

高学歴の高官で「知識」はおありかもしれないが、〈言葉遊び〉とは「品性」の低い輩が遣って良い言葉では決して無い。

しかし、古の知識人の中にも〝えっ!〟という言葉を残した人もいる。

「屏風の虎」や「橋を渡るな」の頓知咄で知られ、絵本やアニメに描かれて子供にも人気のある〝一休さん〟である。

おとなの一休さん

〝一休さん〟こと〈一休宗純〉は、1394(応永元)年京都に生まれた室町時代の人である。

一説に後小松天皇のご落胤と言われる。

六歳で仏門/臨済宗に入る。頓知咄の逸話はこの頃のものであるとされている。

師の華叟宗曇(かそう・そうどん)より〝一休〟の号を授かり、二十七歳の時、琵琶湖で鴉(からす)が鳴くを聞いて悟り、華叟より印可証を与えられるがこれを破棄し、しばし詩や狂歌、書画などの風狂の生活に入ったという。

1474(文明6)年、勅命により臨済宗・龍宝山、紫野大徳寺四十八世住持となる。

大徳寺の一休の元へ参禅に訪れた文化人は多く、当時の多くの文化に大いに影響を与えたが、中でも村田珠光(むらた・じゅこう)は一休との邂逅により「茶禅一味」の境地を得て、侘び茶の基礎を整え〝茶祖〟と呼ばれた。

これが弟子の武野紹鴎(たけの・じょうおう)、そしてその弟子の千利休に受け継がれて、日本の茶道が確立されることになる。

また詩作にも優れており

「門松は 冥途の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

という有名なものも含め、多くの歌を残している。

一休宗純は、禅宗の高僧であり時代の大文化人である一方で、かたや飲酒・肉食・女犯・男色と仏門における破戒の限りを尽くしている。売春宿に足繁く通ったという逸話も残っている。

特に一休七十七歳の時、逢坂住吉の薬師堂で出会った盲目の女性・森女を最晩年まで側に置き、これを愛で、死の床で「死にとうない」とのたまった。

禅宗の最高位にもあった高僧が、死に際して「死にとうない」はないであろう。

一休の著に『自戒集』『骸骨』などがあるが、彼が狂雲子と号したこともあることから『狂雲集』と名うたれた著には、森女に対する老僧の想いの丈というか、身も蓋もない歌がいくつか遺されているが、次の二つの七言絶句は特に淫らである。

美人陰有水仙花香
楚台応望更応攀
半夜玉床愁夢顔
花綻一茎梅樹下
凌波仙子纏腰間

美人の陰(ほと)は水仙の香りがする〈陰とは女性器のこと〉
楚台まさに望むべく更にまさに攀(よ)じるべし
半夜の玉床に愁夢の顔
花は綻ぶ一茎梅樹の下
凌波仙子は腰間に纏う

楚王の台(後宮=女性)は眺めるべきであり、かつ攀じ(攀じるは、掴んで引き寄せること)登るべきである。
夜半、豪華な寝台に美女の愁い顔がある
花(美女)は梅の木(男性の隠語)の下にある一茎(陰茎)で綻(よど)んだ。
美女は仙女となり、わが腰のあたりに纏わりついている。

吸美人婬水
密啓自慙私語盟
風流吟罷約三生。
生身堕在畜生道
絶勝潙山戴角情。

美人の婬水を吸ふ
密かに啓し自ら慙づ私語の盟、
風流を吟じ罷んで三世を約す。
生身堕在す畜生道、
絶勝す潙山戴角の情。

「妻の聖水を口にして」
密かに口にする二人の愛の盟(誓い)を、おのれで恥じながらも、
華やかなる契りをむすび、三たび生れ変りて交わらんと誓う。
この身は、畜生道に堕ちてはいるが、
潙山戴角(唐の禅僧)が水牯牛に生れ変ろうとも命あるがままと悟ったのにも勝るものである。

おのれよりも五十歳も若い美女〈森女〉との情交に耽り、その心持ちは唐の禅僧が悟った時の慶びにも優ると高らかに詠う日本仏教界でも高い位置にある禅僧一休宗純。

古の偉人の下半身事情は後世に逸話として遺るものもあるが、〝秘めごと〟は〝秘めごと〟覆い隠そうとすものだが、当の本人自身がこのように書き遺すことは稀である。

このあまりに人間臭い仕業が、破天荒な〝一休宗純〟らしく魅了であるといえば魅力であり、彼の仏門での功績や、当時の文化に与えた影響が霞むものではない決してないだろうが、森女に対する老僧の溺れ具合には、奥深さも風雅のかけらも認められず〝禁忌〟とされるべき類のものである。

〈一休さん〉には、小唄の家元でバリバリの江戸っ子〈扇よし和〉お師匠さんの著した本の題名を送りたい。

『色気も濃すぎちゃ野暮でげす』

編緝子_秋山徹