令和二年 芒種
おもしろからず

気骨稜々の人、根井三郎
芒種
芒種_早乙女が田植え歌を唱い、早苗を植える頃。
むかし、田植えは女性の仕事であった。
紺絣のきものに赤い襷(たすき)、赤い帯、田植笠を被って村中の田圃に苗を植えた。
この日ばかりは、若い女性ばかりでなく、お婆さんも田植えをする女性はみな(早)乙女と呼ばれた。
中腰で泥濘(ぬかる)む田圃に苗を植えるのは、なかなかに重労働である。
私が通った田舎の中学校では、田植えの時期になると、先生との約束を破って喧嘩をしたり悪さをした者は、罰として田植えに駆り出された。
三・四日先生の家に泊まり込みで、村中の田植えの手伝いをさせられる。
これはしんどくて参った。
新学期の始まる4月から5月の田植え前の時期にかけて、この罰を受けまいと私たち生徒はおとなしくしたものだが、それでも毎年数名がこの〈田植え行き〉になった。
この〈田植え行き〉の昼間は重労働できついものだったが、夜は昼間に手伝った田圃の農家が、夕飯を振舞ってくれた。
こっそり酒も呑ませてくれた。
この時先生はというと、見て見ぬ振りをしていたどころか〝黙っていろよ〟と私たちに酒を注いだ。
先生や農家のおじさんたちは、酒を注ぎながら中学生の私たちに、学校や親からは聞けない社会のこと男と女のことなどを、酔いに任せて問わず語りに聞かせてくれた。
翌朝も早い。慣れぬ酒の宿酔いに気持ち悪くなりながら、重労働が待っていた。
〈田植え行き〉は、私たちにとって辛いものだったが、〝夜の勉強会〟は魅力的なものだった。
先生も悪たれ坊主たちを〈田植え行き〉にして〝夜の勉強会〟に連れ出すのを、毎年の楽しみにしていたに違いない。
歳を重ねて今〈田植え行き〉を振り返ると、行って良かったと思う。
田植えという稲作の大切な作業を身を以て体験できたことに加え、飾らぬ言葉で大人の男の吐息のような教訓を聞けたことは、なかなかその後の人生に役に立っている。
とはいえ、あの重労働は二度とごめんであるが、最近は田植えも機械化され、手伝いもいらなくなってしまった。
気骨漢、根井三郎
杉原千畝ほど有名ではないが、第二次世界大戦下ナチスドイツに迫害され亡命するユダヤ人に『命のビザ』を発給して多くのユダヤ人を救済した外交官に、根井三郎がいる。
根井三郎は1902年宮崎県宮崎市佐土原町に生まれ、旧制中学を卒業後に外務省に入省し、日露協会学校に学ぶ。
この時、同校の2年先輩に杉原千畝がいた。
第二次世界大戦中はウラジオストクに外交官として赴任し、在ウラジオストク総領事館、総領事代理となる。
この頃、リトアニアで杉原千畝が『命のビザ』と呼ばれる査証約二千通をユダヤ難民に発給していた。
査証を得たユダヤ難民が目指したルートは、まずシベリア鉄道でウラジオストクまで行き、そこから日本を経由してアメリカを目指すという行程だった。
杉原千畝が本国外務省の命に背いて発給した査証『命のビザ』も、ウラジオストクから日本への渡航を許可する通過査証がなければ無駄になってしまう。
杉原の査証発給を阻止できなかった外務省は、ウラジオストクの根井三郎に、杉原の発給した査証の再検閲を命じた。つまりは査証を無効にしろと命じたわけである。
これに対し根井は「国際的信用から考えて面白からず」と再検閲を拒否。
査証を持つユダヤ難民を福井県敦賀港行きの船に乗せた。
そればかりか、査証を持たない者にも根井の独断で渡航証明書や通過査証を発給した。
杉原がユダヤ難民のために発給した『命のビザ』を根井が通過査証というバトンでつないで、途切らせることなく日本へと運び、難民を最終目的地アメリカへと渡らせたのである。
戦後、日本に戻った杉原と根井は、この査証の件で外務省を追われ、杉原は民間へ、根井は入国管理庁(現法務省・入国管理事務所)へと転出する。
杉原に査証を発給されアメリカに渡り、その後、イスラエル政府の参事官となったニシュリが1969年に杉原を探し出し、杉原千畝はイスラエル政府から顕彰されるが、1986年7月31日86歳で没する。
また、死後14年の2000年には、当時の外務大臣河野洋平から顕彰されたりした。
戦後55年を経た杉原への日本政府の顕彰は遅きにしするし、この時点でも外務省における名誉回復とはなっておらず、多分現在においても、本省の命令に背いた職員として退職者名簿にも記載されていないはずである。
一方、1992年90歳で没した根井三郎は、生前一切ウラジオストクでの査証発給については語らず、その功績は知られぬままであったが、つい5年ほど前の2015年あたりからその名が注目されだした。
かくいう私も、20数年前にある雑誌で杉原千畝の特集記事を担当し、杉原の妻の幸子さんにインタビューもしたが、根井三郎の存在は知らなかった。
杉原千畝と根井三郎に共通するのは、自分の功績を自ら語り、ひけらかさなかったことである。
両者とも〝黙して語らず〟を貫いた。
この気骨漢二人がおのれと日本の良心を示し、本国に背き査証を発行した。
それはユダヤ難民に『命のビザ』と呼ばしめた。
本省からすれば命に背いた不届き者であるが、その行為は、長期的には日本の国益を守ったばかりでなく、他国からみた日本という国の評価を上げる結果となった。
両者ともに外交官としてのセンスは、素晴らしいものだろう。
その二人が、すべての事情が変わった戦後においてなお、外務省を追われるという冷遇を受けるというのは如何なることか。
この二人に代わって外務省に残り続けたのは、狭小な了見のプライドだけは高い外交官という名の小役人どもである。
この〝お役所〟〝お上〟の悪しき体質が、今日の問題の端々に如実に表れている。
疎にして失わず
2020年6月3日、根井三郎に関するニュースが流れた。
これまで、杉原千畝が発給した査証に根井が通過許可を記したものは確認されていたが、今回、根井が単独で発給した査証が発見された、というものである。
それは、根井三郎がポーランド出身のユダヤ人家族に単独で発給した査証で、その家族の長女の娘からビザの写真提供を受けたというもので、査証には「昭和16年2月28日敦賀横浜経由アメリカ行き」と書かれ「根井三郎の署名」が記されているという。
本人が語らぬとも、良心から行なった善行はちゃんと表に出てくるのである。
「天網恢々疎にして失わず」というが、天は悪事のみならず、善き事も見逃さない。お天道様は見ている。
改めて、根井三郎が不実な本国外務省に発した「国際的信用から考えて面白からず」は天晴れで見事、痛快である。
我々も、不実なことには正々堂々と云いたいものである。
「おもしろからず」