令和二年 大雪
コリドー街奇譚
今宵も地下のスコッチバンクで
大雪
大雪—師走となり、めっきり冬めいてきた。
能登金沢の冬の風物詩、兼六園〝雪吊り〟のライトアップが今年も行なわれた。
雪の多い北陸・東北地方で見られる〝雪吊り〟は、木の幹に沿って立てた柱の天辺から縄を地面に向けて放射線状に張って、枝が雪の重みで折れてしまうのを防ぐものである。
金沢では一般家庭の庭でも冬の備えとして晩秋から初冬にかけて植木屋が〝雪吊り〟を張る風景を見ることができる。
また、師走になると同じく金沢の長町などの旧武家屋敷街では、〝薦(こも)掛け〟という雪囲いが塀に張り巡らせられる。
雪から土塀を守るために、薦を掛け巡らせるのであるが、冬が深まり本格的に冬が積もって武家屋敷と石畳、薦と土塀が織りなす風景は、古の前田家城下の風情を醸し出す。
廊下ほどの幅の武家屋敷街の石畳に古都金沢の粋が溢れている。
廊下といえば、東京銀座の日比谷寄りにコリドー(corridor/廊下)街という名の小さな通りがある。
コリドー街奇譚
コリドー街奇譚
コリドー街は、帝国ホテルから泰明小学校に向かってJRの高架下のガードを潜ってすぐのミシンのブラザー本社を基点として新橋の土橋の交番の手前までJRの高架に沿ってつながる小さな通りである。
JRの線路を挟んで、こちら側が銀座、あちら側が日比谷であるが、こちらの銀座側が小さな雑居ビルが多いのに対して、あちらの日比谷側には帝国ホテルや旧第一勧業銀行本店、新橋第一ホテルなどの高層ビルが目立つ。
こちらの銀座側にしても二本隣には大通り電通通りが走り、大きなビルが並ぶ。
電通通りの向こう側を一本入った通りの雑居ビルにはクラブがひしめき合っていたが、大通りのこちら側には老舗の「クラブ順子」があるくらいでその数はかぞえるくらいだった。
コリドー街は、JRと電通通りに挟まれた銀座の一番端っこにあるちんまりとしたある意味銀座らしくない小さな廊下であった。
コリードー街は不思議な通りで、当時夜の早かった銀座にあっても、一段と早くから夜が静かで十一時を過ぎる頃には通りを歩く人影はぐんと少なくなった。
しかし、人影が少ない通りに反して店の中には人が溢れているのだった。
人通りのそれほど多くなく、車は一方通行のこじんまりとした通りは、人目につくのを嫌う有名人という人種には好都合であったらしく、向こうから歩いてくる大きな人影がいきなり小林旭や高橋英樹、菅原文太ということもあった。
そんなコリドー街の泰明小学校よりの一角に洋菓子の「不二家」本社ビルがあった。
数年前に取り壊されて今はもうないこのビルの1階から2階は飲食のテナントが入っていて、1階はカフェ・バー『TGI(サンク・ゴッド・イッツ)フライデーズ』、2階には和食割烹『弁慶』、地下にはカジュアルイタリアン・レストラン『カプリ』そして我らが『スコッチバンク/SCOTCH BANK』があったのである。
VANとSCOTCH BANK
我らがと云ったのには、私が大学生のアルバイト時代を含めて20歳から30歳までの20代のほとんどをこの店で過ごしたからである。
この店は当時日本を代表するアパレルブランドの『VAN』が経営していた。
『 VAN』をご存知ない若い方のために紹介すると、1948年大阪で設立された『VAN』は、アメリカアイビーリーグの学生のファッションを日本流にアレンジして「アイビールック」として売り出した。
「ボタンダウンシャツ」や「スウェトシャツ」などは当時『VAN』が初めて日本の若者に紹介したものである。
また創業者でデザイナーの石津謙介は、「スウェットシャツ」を「トレーナー」と命名したり「カジュアル」「Tシャツ」「ステンカラーコート」「スウィングトップ」という言葉を造語したのも石津である。
今では当たり前のように使われるファッションの「TPO/時と場所と目的」という観念を提案してメンズファッション界のカリスマと呼ばれた。
日本航空・国鉄・ヤマハなどの企業もこぞって石津のデザインをユニフォームとし、はては「みゆき族」を銀座から排除した警視庁までが制服のデザインを石津に依頼した。
瞬く間に「アイビールック」は全国の若者のファッションを席巻し、特に1964年頃『VAN』ブランドのファッションに身を包み銀座のみゆき通りを闊歩する若者は「みゆき族」と呼ばれ当時のファッション雑誌の誌面を飾ったりした。
やがて、その年行われる「東京オリンピック」へ向けての風紀向上策として警察は取り締まりを検討・実施し「みゆき族」は銀座から一掃される。
しかし、当時のカミナリ族(今で云う暴走族)などのように喧嘩や危害を加えることもなく、ただオシャレをして街を歩いていただけの「みゆき族」を排除したというのは、なんとも乱暴な話であると同時に『VAN』の影響力が、ある種の恐怖に近いものを大人達に与えたことを物語る。
そんな最先端ブランド『VAN』の「社員のために石津健介が作る遊び場・憩いの場」というコンセプトで作られたのが「スコッチバンク/SCOTCH BANK」である。
「スコッチバンク/SCOTCH BANK」は、メインで売る酒が「HAIG」「PINCH(後のDIMPLE)」「GLENLIVET」のスコッチであること、ボトルキープをすると銀行で貸金庫を借りた際のように鍵が渡されること、その真鍮製の鍵にはナンバリングされたキープボトルと同じ番号が刻印されていたので「スコッチバンク」という店名になった。
酒は日本製のものは全くなく、サントリーの洋酒部門との完全タイアップで、バーボンが「EARLY TIMES」「JACK DANIELS」、カナディアン・ウイスキーの「CANADIAN CLUB」、アイリッシュ・ウイスキー「TULLAMORE DEW」ブランデーが「MARTELL」、、ワインが「CHANTI CLASSICO」etc..の洋酒のみであった。
当時九州の田舎から出てきた洋酒といえば「ジョニーウォーカー」しか知らず、「SUNTORY OLD」さえ贅沢であった大学生には聞いたこともない見知らぬ酒ばかりで面食らった。
もっとも、やってきた客達もまたそれまで見知らぬ酒である様子であった。
店の内装にはオークもしくはメイプルのような一枚板と真鍮がふんだんに使われて、色は白木の色と深い緑と黒で統一されていた。
200坪近くあるL型の店内の壁面のほとんどには本物のレンガが埋めれ、また一部には一枚板が嵌められていた。
木製の壁面にはバイヤーが海外で仕入れてきた現代アートやアールデコなどの古いポスターがランダムに張り巡らされていた。
L字の交差する真ん中には、ステージとグランドピアノをはめ込んだ廻りに13名が座れる赤みがかった大理石のテーブルがあって、その後ろには真鍮の壁面にはオープンリールが2台とミキサー、レコードのターンテーブルが2台組み込まれ、その両脇には高さ一メートルほどのBOSEのスピーカーがオリジナルで作られた黒のメラ焼の台に据えてあった。
オープンデッキから流れるBGMは『VAN』のショップに流れていたものと同様にDJ「小林克也」がナレーションを務めて最新のビルボードトップ10の曲を紹介するものだった。
このオリジナルBGMはオープンテープが月初に『VAN』本社から送られてきた。
今では到底信じられないだろうが三十三年前の当時、現在アメリカで流行している曲が半年後に日本で流行るという時代であった。
アルバイトをしている場所で、半年後に流行る曲をアメリカと同じリアルタイムで聞けるというのは、当時の大学生にとってはそれだけで働いている価値があるというものであった。
私が一番最初にアルバイトで入った時に流れていたのは、ビリー・ジョエルの『JUST THE WAY YOU ARE』『HONESTY』、ロッド・スチュワートの『KEEP ME HANGING ON』などであったが、それらはきっちり半年後に日本の巷で流行った。
備品も一々凝っていた。
その頃『VAN』は、別会社をいくつか設立してアパレル以外の商品も販売していたが、それらの製品が店を彩っていた。
『GREEN HOUSE』の観葉植物、『ORENGE HOUSE』の雑貨、ナイフフォークなどのカトラリーなどであるが、家具類は今ではイタリア製の高級家具として知られる『arflex/アルフレックス・ジャパン』が輸入したソファーやイスがふんだんに使われていた。
ウェイターが持つトレンチまでがイタリア製で、三十年以上前の当時の値段で三万円した。
よくウェイターの先輩に、格好良くやらないと三万円のトレンチが浮くぜと云われた。
棚のあちらこちらに英語のハードブックがディスプレイされていて、「アガサ・クリスティ」の本の横にはスコッチが、「ヘミングウェイ」の本の横にはバーボンが置かれていた。
今思うと何のことはないのだが、当時の田舎者は「ホーッ」と感嘆する以外なかった。
スタッフのユニフォームはもちろん上から下まで、幹部のスーツから、ウェイターのシャツと蝶ネクタイ、パンツ、ベルト、靴下、靴に至るまで全て『VAN』製だった。
男性トイレの個室にはシャワーが完備してあり、ドアを閉めると大きな洗面台の鏡にスライドが投影されるようになっていて、中にはアメリカのプレイボーイ誌のピンナップのような全裸の女性のものまでったが、あくまでもセンス良くまとめられていた。
しかし、意気揚々と私がアルバイトを始めた二ヶ月後の1978年4月、『VAN』は倒産してしまった。
その後、商社の「丸紅」と繊維会社の「カネボウ」の共同出資で「株式会社ショップ・エンド・ショップス」が設立され、『VAN』の一部のブランドと「スコッチバンク」の運営は新会社に引き継がれた。
運営は引き継がれたが、石津謙介の遊び心一杯のコンセプトは徐々に失われてありきたりの店になっていった。
そんな中でも、私にとって魅力的だったのは、日替わりで生演奏するミュージシャン達だった。
〈次回冬至に続く〉