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令和二年 白露

2020年9月7日

ランパーンの無法松

冷たい風

 白露

白露—昼間の暑さで発生した蒸気が夜間の冷気で白い露となり草花を濡らす。
この時候、夏を川上で過ごした鮎は川を下る〝落ち鮎〟となる。
背中の紋様から〝錆鮎〟とも呼ばれる。
落ち鮎は冬に産卵を終えると死んでしまう。
鮎は海の河口近くで冬に産卵され、春に稚鮎として川を上り、夏を川上で過ごし、秋に川を下って、冬に産卵をして死ぬという生態系を繰り返す。
「鮎」は1年のうちにその生命の周期を終える「1年魚」である。
人もその生命の周期が定まっていれば、もう少しまともなのだろうか。

処暑からの続きである。

 地獄のインパール作戦

ここで未帰還兵の藤田さん、中野さん、坂井さんが従軍した「インパール作戦」について少し述べたい。

1941年1月、イギリス領ビルマに侵攻した日本軍はこれを制圧した。
3年後の1944年3月、大本営はさらに同じイギリス領であるインド制圧を目的として、南方軍下に新たに「ビルマ方面軍」を設け第15軍を配備する。
新しく設置されたビルマ方面軍司令に川辺正三中将、第15軍司令には牟田口廉也中将が任命されインド侵攻への準備は始まった。
インド東部におけるイギリス軍の拠点インパールへの侵攻は〝ウ号作戦〟と名付けられ1944年3月8日に作戦は開始される。
まず第33(弓)師団が南から、第15(祭)師団が正面からインパールを攻撃し、さらに第31(烈)師団が北の拠点コヒマを制圧してインパールのイギリス軍を孤立させるという計画であった。
参加する兵数9万、全長470kmを進軍・踏破する作戦の期間は3週間と設定された。
3週間という短期決戦が作戦の期間とされたのは、雨季を避けるためと、兵站(へいたん)の面からであった。
この地域の雨季の降水量は世界一と言われるほど多く、戦闘の季節には不向きであった。
また、兵站とは前線部隊に食糧や弾薬を補給する任務であるが、この時期日本軍の物資は乏しく、長期戦を戦う力はなかった。
しかし、戦闘は三週間どころが三ヶ月経っても終わらず、作戦開始から七ヶ月間にわたり日本軍は敗走に敗走を重ねることになる。

日本軍の敗因は、第一に開始前から懸念されていた兵站作戦の失敗である。
もともと三週間分の食糧・弾薬しかない上に、追加の食糧の補給は進軍先の現地村々にて調達、武器・弾薬においては制圧した敵軍のものを使用するという杜撰極まりない兵站計画のせいである。

作戦にあたり、司令部における兵站の専門家・小畑参謀長は、補給は全く不可能であると作戦実行自体に反対したが、牟田口司令により左遷されていた。
また、戦闘中に作戦の変更を訴えた柳田第33師団長はじめ各師団長も牟田口司令に更迭されている。
兵士は戦いの中で飢え、消耗し疲弊し切っていった。

第二に、こちらが最大の敗因であるが、イギリス軍の戦力を軽視し、これを見誤ったことにある。
ビルマ奪還を虎視眈々と狙っていたイギリス軍は、日本軍の物資が不足している事を見越して、次の戦いに備え充分な物資を蓄えて持久戦に持ち込むべく準備をしていた。

これに対し、杜撰な兵站計画と〝大和魂〟という精神論で戦わんとした日本軍の敗北は戦う前から決していた。
追い討ちをかけるように、世界一の降水量の地域にこの年は30年に一度という大雨が降り、更なる悪条件が日本兵を取り囲んだ。

飢えに弱りきった体に雨季の劣悪な環境が加わってマラリア・赤痢といった病が発生し、多くの日本兵を襲った。
その退路には、屍が死屍累々と連なり、豪雨は亡骸を10日で腐敗・白骨化させ、道は〝白骨街道〟と呼ばれた。

従軍した日本兵9万、死者3万、傷病者4万。
死者3万のうち、敗走中に飢餓とマラリア・赤痢によって命を落とした兵士は6割に上った。
多くの日本兵がイギリス軍との戦闘では無く、飢えと病に散った。飢えと病で動けなくなった者が、手榴弾で自殺している姿も多くあった。
負傷した中野さんも、担架で運ばれている際にいつでも自爆できるよう、口に手榴弾を縛り付けてもらっていたと云う。

NHKで放送されたドキュメンタリー番組では、牟田口司令の附官を務めていた斎藤博圀少尉が当時の手記に「司令部では参謀の士官同士の会話に『5000人殺せば〇〇は落とせる』というような言葉をよく聞いた。初めは敵を5000人倒せばという意味だと思っていたが、それは日本兵が5000人死ぬ事を意味していると知り、ゾッとした」と記したのが紹介された。

兵士の命を虫けら同然に扱う輩によって戦闘は始められ、兵士は地獄に送られた。

今でも現地で探せば日本兵の白骨が出てくるという。

同番組で現地の村人は答えた「時々、軍服姿の日本兵を見ることがあるが、近づくと彼らの姿はすーっと消える」と。

インパール作戦とは、そんな戦いであった。

 敗走と首塚

再びランパーンの藤田さんのマンゴー畑である。

歩兵藤田松吉の役割は〝斥候(せっこう)〟であった。
斥候は部隊に先立って敵軍近くを偵察し、兵員の配置や装備などを報告する物見の任務である。
斥候の具備するべき要件に「慧敏(けいびん/利口なこと)、熱心、沈着、豪胆ならざるべからず」があり、これが陸軍士官学校の学科試験にも出題されるくらい、斥候は部隊にとって重要な役割である。
少人数でそっと敵陣近くまで接近するのであるから、危険を伴う任務ではあるが、松吉は気に入っていた。
士官の指示で団体で行動する時よりも、密林をおのれの判断で駆け抜ける時、危険の中に自由を感じ自分の性に合っていると思った。

食糧も無くイギリス軍の猛攻にあい敗走が始まった頃、いつものように斥候に出て、近くに着弾した砲弾の破片が松吉の右太腿を貫通した。
衝撃で気を失った松吉が再び目を覚ました時、あたりに自分の部隊の姿はなく、彼の一人きりの敗走が始まる。
負傷した足を引きずりながらひたすら逃げた。
日本兵の屍が累々と横たわる道を密林を這うように逃げる。
敵が迫りくる最初の頃は逃げるのが精一杯であったが、やがて、密林に同じ日本兵の屍をそのままにして去ることが偲びなくなり、出来る限り埋葬した。
しかし、あまりにも多い屍、足に傷を負い飢えた体には体力もなく、一体一体をあきらめ何体もまとめて埋葬した。
それも辛くなり、最後には腐敗し始めた屍から首だけを取ってまとめて埋め首塚とした。
負傷した自分にできる限りの首塚を作ったつもりだと松吉は云う。

あとは、中野さんや坂井さんと同じように現地民の村から村へと逃れ、下働きをしながらタイ人として暮らした。
中野さんや坂井さんと違うのは捕虜とはならずに逃げおおせたと云うことである。
終戦は現地民の村で連合軍が飛行機から撒いたチラシで知った、また古里の長崎に原子爆弾が落ちたことも聞いて、「ああ、もう俺の居場所は無いだろうな」と日本への帰国を諦めたという。

 アジアハイウェイ

NHKに「プロジェクトX」という戦後復興と高度成長を支えた企業物語を扱った人気番組があった。
その中に「アジアハイウェイ/ジャングルの死闘」という一話がある。
「アジアの国々を物流で豊かにしよう」と、国連主導で開始され第二次世界大戦後、最大規模の道路工事〝アジアハイウェイ〟というプロジェクトが立ち上がった。
日本の前田建設は、その中のタイ北部東南アジア最大のジャングルを貫くルートを請け負った。
しかし、過酷な環境の中で工事は遅れに遅れ、現場は混乱に陥った。

大きな要因の一つに、現地で雇ったタイ人作業員と日本人スタッフとの不協和音があった。
この現場に「俺が、この工事を手伝おうか」と、現れたのが松吉である。
「タイ人は、自主性を重んじる民族だ。他人から指示を受けるとかえって働きたくなくなる。タイ人のなかから優れた人間を選び、現場リーダーに任命したらどうか(復興の懸け橋/NHK出版より)」と、日本人スタッフにタイ人のメンタリティを説いて聞かせた。
松吉の働きと仲介で、大人と日本人の関係は改善され強固なものとなり、工事は一気に順調に進み予定の工期内で工事を終えることができた。

道路完成後の松吉を番組は紹介する
——元日本兵の藤田松吉さん。工事が終了し、メンバーが日本へ帰国したあとも、ひとりタイにとどまった。新たに始めたことがあった。完成したハイウェイを走り、タイやミャンマーの山奥へ通った。あのインパール作戦で亡くなった戦友の遺骨収集のためだった(復興の懸け橋/NHK出版より)

 今村昌平と無法松

アジアハイウェイ建設の時期から少し後のこと、映画監督今村昌平はいくつかの事情から映画を離れ、テレビ向けのドキュメンタリーを撮っていた。
そのシリーズのひとつとして「未帰還兵」を扱った。
タイを取材の舞台として、何人かの未帰還兵を集めてインタビュー撮影をした。
その中の一人に藤田松吉がいた。
今村昌平は松吉の気性とパーソナリティーを気に入り「無法松」と呼んで、未帰還兵とは別に彼一人のドキュメンタリーを一本撮った。

また、費用を立て替えることで、松吉を終戦後初めて日本へ帰国させてその様子を新たにドキュメンタリーとして撮った。

そこには、松吉の遺族年金を受給していた兄との確執や、その兄を殴ったときに警察に逮捕されそうになる場面などが映る。

結局松吉は、兄に怒り、警察と警官に映し出された国家権力に怒り、日本という国に絶望してタイに戻って二度と再び日本の土を踏まぬことを決意する。

 冷たい風

アジアハイウェイが完成してから、松吉がタイやミャンマーの山奥で収集した遺骨は、1800にのぼる。
それを日本に一時帰国した際から受給しだした恩給をこつこつ貯め、個人で慰霊碑を建て遺骨を納めた。
我々が訪れた際に道路沿いの敷地に見えていた塔のようなものが、この慰霊碑であった。

松吉が寂しそうに呟く「何年か前に、日本の厚生省の役人が来て、ごくろさんの一言で中の骨をみーんな持って行ってしもた。今頃来くさって」

タイ人の妻がいたが夫婦には子供がいなかったので養子を得た。息子は出来が良くチェンマイ大学を出たが、職がなかったので松吉が資金を出して車の販売を始めた。
息子は結婚もしたが、無聊からかクスリに手を出し捕まって服役中だという。
妻は息子の服役を悲嘆して、逮捕後に亡くなった。
今は両脚が不自由な松吉と息子の嫁との二人暮らしである。
「どいつもこいつも——、でもこの嫁は良くしてくれる。あるもの全部嫁にやって、息子には何も残さん」吐き捨てるように呟いた。

最後に聞いた。
——50年近くが経ったジャングルで自分が作った首塚とはいえ、よく場所がわかりますね。

「密林じゃから場所はもうようわからん。ただ兵隊さんが呼ぶように、近くを通ると冷たい風が吹いて案内してくれる」

編緝子_秋山徹