令和二年 立夏
おととし?
〝走り〟と〝名残り〟
立夏
立夏_暦の上では夏である。
明治の幕開けとともに、暦が旧暦から新暦へと変わったが、二十四節気七十二候もそのまま新暦の日付に移行となった。
旧暦と新暦には約一ヶ月の時差がある。
例えば7月7日の七夕は、旧暦を新暦に換えると8月7日あたりである。
8月7日というのは、雨が少なく、星空のよく見える季節であるので、天の川もよく見えて七夕の行事を行う記事としては最適であるが、現在の新暦7月7日あたりは、まだ梅雨も明け切らず曇り空のことが多い。
旧暦の環境で行事を行いたいということで、仙台の七夕祭りは、旧暦の7月7日にあたる8月6・7・8日に行われる。
しかし、この一ヶ月の時差を私は気に入っている。
季節的には晩春の立夏には、草花や旬の食材に〝春の名残り〟と〝夏の走り〟を味わうことができるからである。
日本人は本来、春夏秋冬を身も蓋もなく〝春は春〟〝夏は夏〟とする民族ではない。
〝名残り〟と〝走り〟を大事にし、季節の真っ只中よりも、むしろこの移ろいを愛してきた。
それが、短歌や俳句の歌や古典文学に現れている。
季節の年中行事の中には、季節温度の変化で環境が新暦に調和がとれてきたものもある。
6月1日の「衣更え」の時期、日本人はきものを、胴裏付きの〝袷〟から、裏無しの〝単衣〟へと衣更えしてきた。
中には、5月下旬の短い期間に着る〝紗袷〟というものもある。
ここ10年、2010年代更衣前の5月の平均気温は24.2度であるが、140年前の1860年代は20.4度と現代と約4度の開きがある。
旧暦から新暦に変わったばかり140年前の頃は、単衣にすると少し涼しかったのが、気温の上がった現代では単衣がちょうど良いのである。
温暖化の影響で、衣更えには最適となったが、地球にとっては、いかがなものか。
本日5月5日は「端午の節句」でもある。
この節句では、菖蒲の花を飾ったり、菖蒲湯にはいったりするが、菖蒲に因む所以は—
旧暦の5月5日は新暦の6月の上旬にあたり、田植えの季節である。
農耕の重要な作業を迎えるにあたり、昔の人は、地域の娘からその年の田植え女〝早乙女〟を選んで、田植えの前の日には、菖蒲の葉を葺いた小屋で禊(みそぎ)をさせてから、翌日の田植えに臨んだ。
本来の田の神に豊作を願う年中行事が変化して、他の行事と合わさって今日の「端午の節句」となったため、菖蒲の花が残っているのである。
季節からすれば、6月の田植えの時期に行うべきものであるが、奇数を尊び、そのまま新暦に合わせたものでは、如何ともしがたい。
背くらべ
歳を重ね、そろそろお迎えの声が聞こえ始めるのではないかと思い始めると、これまで、疑問に思いながら、そのままやり過ごしてきたものが、気になってしようがない。
端午の節句を歌った童謡に『背くらべ』があるが、この歌詞で「柱の傷は おととしの 5月5日 の背くらべ」とある〝おととし〟がずっと気になっていた。
なぜ去年ではないのかと
私の無意識の考えでは、〝去年〟ではどの文字を当てても、この当時の歌詞の常套であり、日本人の耳にすんなり入る七五調にならないので、やむなく五文字の〝おととしの〟にしたのだと思っていた。
以下、歌詞を全て記すと。
『背くらべ』/作詞・海野厚、作曲・中山晋平。
柱の傷は おととしの
五月五日の 背くらべ
ちまきたべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ
昨日くらべりゃ 何(なん)のこと
やっと羽織の 紐(ひも)のたけ
柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔出して
てんでに背伸び していても
雪の帽子を 脱いでさえ
一はやっぱり 富士の山
と、見事に七五調である。
この歌詞を書いたのは海野厚/うんのあつし、二十八歳で夭折した作詞家で俳人、歌人である。
他の代表作に『おもちゃのマーチ』などの曲がある。
調べると、もともとこの『背くらべ』は、歌の詞としてではなく、詩として発表されたものらしいのが分かった。
それに中山晋平が曲をつけて、歌となった。
最初は詩として発表されたとすれば、無理に〝おととし〟を持ってきて、七五調にする必要がない。
毎年計っているのであれば、〝去年〟で良いはずである。
物語はこうである。
静岡出身の海野は、郷里を出て東京で創作活動を続けていた。
静岡の郷里には18歳下の末弟がいて、海野はこの年の離れた弟を大変気にかけていたという。
この詩が雑誌『少女号』に掲載された当時、海野は結核を患い(諸説ある)、端午の節句に郷里に帰ることができず、末弟の背丈を計ることができなかった。
故に柱の傷は〝去年〟ではなくて〝おととし〟なのである。
この詩は、「ちまきたべたべ 兄さんが 計ってくれた—」と、末弟の視線で描かれているが、海野の望郷の念と末弟への愛情が描かせた海野自身の個人的な実体験の詩なのである。
これらを踏まえて、改めて歌詞を噛み締めると、末弟に対する愛情を詠った一番の歌詞とともに、2番の「雪の帽子を 脱いでさえ 一はやっぱり 富士の山」という海野の静岡への望郷の念が伝わってくる。
海野厚1925年5月20日肺結核にて28歳で死亡。
むかし肺結核は不治の病であった。
現在も訳の分からぬ疫病が猛威を振るっていて、今年「端午の節句」に郷里に帰れなかった人も多いだろう。
だが、しかし「柱の傷は おととしの—」と、来年は歌うことができるはずである。
大きな傷を受けた時の日本人は強い!
これから日本人の底力を世界に知らしめようではないか。