令和二年 立春
犬と鬼
立春_柊挿す鬼やらひ、まだ春は名のみ
立春は旧暦では元旦で、節分は大晦日に当たる。
二十四節気/七十二候の旧暦を書いた本の中には、立春から始まるものが多い。
新春にあたり小林一茶は
「春立つや 愚の上に 又愚にかへる」
と詠んだ。
新春を迎えても、相も変わらず〝愚者〟は〝愚者〟のままであることよ—と、自戒を込めて詠う。
しかし、一茶が深く信仰していた浄土真宗では、浄土宗の開祖法然が「浄土宗の人は愚者となりて往生す」煩悩まみれの凡夫である愚者も、宿悪(前世で犯した悪)から一歩進んだものとして捉えるという。
愚かな者になるにも修行が必要らしい—先は長いが人生は短く涯(かぎり)がある。
特に、老い先短い親爺が今更焦ってみたところで、どうにもならぬようだ。
鬼やらひ/追儺
立春の前日節分は〈鬼やらひ〉である。
〈追儺〉という字も当てられ、中国から渡来した行事である。
『大辞林/三省堂』によると
ついな 【追儺】
悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う行事。平安時代、宮中において大晦日(おおみそか)に盛大に行われ、その後、諸国の社寺でも行われるようになった。古く中国に始まり日本へは文武天皇の頃に伝わったという。節分に除災招福のため豆を撒(ま)く行事は,追儺の変形したもの。鬼やらい。
『字通/平凡社』で【儺】を調べてみた。
【儺】ダ・ナ・おにやらい・おだやか
季節の移る時などに鬼やらひ、あるいは修祓(しゅばつ/清めの儀礼)することをいう。
①おにやらい、徐疫 ②おだやか、たおやか、しずかに歩くさま
犬と鬼
では、祓う相手の〈鬼〉とは何を指すのか、当然災いを具現化したものであろうが、どのような定義があるのか、再び『大辞林』を調べた。
興味深い説明もあったので、分量が多いが全てを引用する。
おに 【鬼】〔姿が見えない意の「隠」の字音「おん」の転という〕
① (天つ神に対して)地上の国つ神。荒ぶる神。
② 人にたたりをする怪物。もののけ。幽鬼。
③ 醜悪な形相と恐るべき怪力をもち,人畜に害をもたらす,想像上の妖怪。仏教の影響で,夜叉(やしや)・羅刹(らせつ)・餓鬼や,地獄の獄卒牛頭(ごず)・馬頭(めず)などをさす。牛の角を生やし,虎の皮のふんどしをつけた姿で表されるのは,陰陽道(おんようどう)で丑寅(うしとら)(北東)の隅を鬼門といい,万鬼の集まる所と考えられたためという。
④ 放逐された者や盗賊など,社会からの逸脱者,また先住民・異民族・大人(おおひと)・山男などの見なれない異人をいう。山伏や山間部に住む山窩(さんか)などをいうこともある。
⑤ 子孫の祝福に来る祖霊や地霊。
⑥ 死者の霊魂。亡霊。「護国の―となる」
⑦ 人情のない人。冷酷な人。(「心を鬼にする」の形で)気の毒に思いながらも冷酷に振る舞うこと。
⑧ 非情と思われるほど物事に精魂を傾ける人。「文学の―」「仕事の―」
⑨ 鬼ごっこや隠れんぼなどの遊びで,人を探しつかまえる役。
⑩ 貴人の飲食物の毒味をする役。おになめ。おにくい。鬼役。「鬼一口の毒の酒,是より毒の試みを―とは名付けそめつらん」〈浄瑠璃・酒吞童子枕言葉〉
二 (接頭)名詞に付く。
① 無慈悲な,冷酷な,などの意を表す。「―ばばあ」「―検事」
② 強くて恐ろしい,勇猛な,などの意を表す。「―将軍」
③ 異形の,大形の,などの意を表す。「―百合(ゆり)」「―やんま」
一般的に私たちがイメージするのは、②と③の鬼であろう。鬼の虎革のふんどしが陰陽五行の鬼門・丑寅からきているというのは、新しく知った。
①⑤⑥のように、土着の国つ神、祖霊、地霊、霊魂など、決して悪い意味ばかりでないことも新しい。過去帳を「鬼籍」などというのもこの使い方であろう。
④は、よくわからない者、未知のものへの恐怖、不安の代名詞として、一般的なイメージに同じくする。
⑦⑧は、私たちが日常の会話の中でよく使うものであるし、接頭語の①②③も馴染深いものである。
⑨は、誰もが知る遊びの中の言葉で、幼児の頃から親しむ。
しかし辞書は引いてみるものである。
⑩にある毒味役に鬼の字を当てるとは知らなかった。鬼の如く激しい覚悟がなければ務まらぬということか。
『字通』には
【鬼】キ・おに
鬼の形、人鬼をいう。字は畏と形近く、畏忌すべきものを意味した。
①おに、ひとがみ、遊鬼②鬼神、もののけ、老物の精(長い期間を経て妖怪化したもの)
要するに魑魅魍魎の類であるとある。
「鬼は外、福は内」であるから、内に引き入れる【福】はどうであろうか。
『大辞林』/ふく【福】①さいわい。しあわせ。幸運。②裕福なこと
『字通』/【福】フク、さいわい、たすけ、ひもろぎ(祭祀の際の供物)。祭肉。
裕福で幸せなこととのみある。
【鬼】は具象化されたものであり【福】は概念であるから、このように説明に差が出てくるのであろうが、人は良くわからないものには、想像力を働かせ色々想いを馳せるが、身近なわかりやすいものには、案外想いが行かない。
司馬遼太郎や白洲正子、阪東妻三郎などと交流のある東洋文化研究者、著述家のアレックス・カーの著書に『犬と鬼/講談社』がある。
この『犬と鬼』のタイトルの由縁は、むかし中国で、ある高官が部下の官吏たちに「犬」と「鬼」の描かせた。
「鬼」の絵は各自様々想い想いの絵が並んだが、「犬」の絵はあまり特徴を掴んだとはいえない凡庸なものが並んだ。
高官曰く、人は自分より遠く良くわからない物には、興味を示し想像力を働かせるが、いつも当たり前に身近にあるものにはなかなか想いが行かない。
しかし、官吏の仕事とは、当たり前のものに目を向け目を配ることが大事であると諭した、という故事からである。
東洋思想と日本文化を愛するアレックス・カーは、失われゆく日本文化への愛を1993年『美しき日本の残像/新潮社』 に記し、2001年にこの『犬と鬼』で、日本の景観と自然環境の破壊、公共事業による観光が被っているダメージ、観光資源を活かす方向性などを著した。
実際、アレックスは30年以上前に徳島の祖谷(日本三大秘境のひとつとされる)に茅葺の古民家を購入し修復して「篪庵/ちいおり」と命名して居宅(現在は宿泊施設として解放)としたり、京都や各地で古民家修復による観光資源化プロジェクトを展開している。
私も一度「篪庵」を取材させてもらったが、蕎麦の花が広がる山の中腹にあるその庵は、昔話『遠野物語』の世界へタイムスリップしたような素敵な場所であった。
私たちは、遠くにある大きな「福」を求めるのではなく、当たり前のように身近にある「福」を確実に内に入れる努力が必要である。
もっとも今は、差し迫った「鬼」であるコロナウィルスを退治する「桃太郎」の助けが必要である。