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令和二年立秋

2020年8月7日

昭和十八年、ある士官候補生の日記

盂蘭盆〈ウランバナ〉

 立秋

立秋—遅い梅雨明けを迎えたら、暦の上では秋となった。
残暑であるが、茅蜩(ひぐらし)はまだ鳴かぬ。

そして盂蘭盆(うらぼんえ)である。
立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至を仏教では『八王日』と云って、お釈迦様はこのに日は善行を為せと教えているが、盂蘭盆に先祖を祀れとは云っていない。

盂蘭盆の始まりの元となっているのは偽経の『盂蘭盆経』によってである。
偽経とは仏教が中国に伝わった後に中国で作られた経典であるため、盂蘭盆とお釈迦様は関わりがない。

盂蘭盆はサンスクリット語〈ウランバナ〉の音訳で、その意味を『盂蘭盆経』では「逆さに吊り下げられるような非常な苦しみ」としているが、ウラバンナとは、本来、インド西域のソルト語〈ウルヴァン/霊魂〉を源とし、死者の霊と農耕に関するもので、釈迦以前のバラモン教の御霊(みたま)祭りを表わす。

この御霊祭りを元に物語が創作されて『盂蘭盆経』となったという。

これが中国から日本に伝えられて、仏教伝来以前からもともと先祖祭りを行なっていた日本ですんなり受け入れられ、年中行事となったものが今日まで続いている。

さらに、暑さの厳しいインドでは、古代からコレラや天然痘などの疫病が流行り多くの人が亡くなっていた。特に疫病の被害が出る真夏に死者の御霊祭り〈ウラバンナ〉を行なって、疫病が蔓延しないように願ったとされる。

世界中に疫病が猛威を奮っている本年は、この盂蘭盆で一層先祖の御霊を祀るべき時であろう。

そこで、私個人の盂蘭盆〈ウラバンナ〉の方法として、次をここに載せたい。

以下に転載する日記は、七十七年前の昭和十八年八月、第五十七期陸軍士官候補生・秋山守の日記である。
秋山守は、私の父親の兄で叔父にあたる人で、この日記は、私の父親が他界した際に実家を整理していて、父親の本棚からたまたま見つけたものである。

この日記の中には、すでに故人となった、この日記を記した父の兄、私の父、祖母、父の弟が登場するので、これでこの四名を偲びたい。

 相武台日記__陸軍士官候補生 秋山守

【相武台は現在の神奈川県座間市にあった陸軍士官学校の名称で、昭和天皇が同校の卒業式に行幸された際に命名された。学校跡地は、現在〈米軍座間キャンプ〉となっているが、座間市の住所名や小田急小田原線の駅名にその名称が残る。】

◯七月三十一日 土曜日 晴
午前 大掃除 個人支給兵器検査。
午後 火砲の検査。
十四時より中隊長、区隊長殿に対する休暇帰省の申告
中隊長殿の帰省に関するご注意ありき。
十八時学校出発。
以前ほどの興奮も感ぜられず。
東京急行車中にて
世間にて饒舌は女の特権の如く考え居られるるもその次の饒舌は士官候補生ならん。
而して、饒舌すぎることが無邪気過ぎる、稚気があり過ぎる所感を持つ。

◯八月一日 日曜日 晴
車中にて過ごす。
十八時過ぎ(山口県)小郡着此処にて下車。
おりから一般の下り列車来る。
車中の地方人は先を争いて水に飛びつく、まさに食にむさぼる餓鬼の如し。
二十一時頃家に着きぬ。
二十四時頃就床。

◯八月二日 月曜日 晴
起床七時
一日家にて母(祖母/故人)と学校の事、家の事を話す。
一部計画の変更。

◯八月三日 火曜日 晴
起床六時 計画通り実施。
此の夏は中等学校、小学校等勤労奉仕等にて休暇も僅からしく、時代の推移甚しきものあり。
午後 前の川にて水泳演習、弟(父親の弟)を指導す。

◯八月四日 水曜日 晴
午後より食糧不足の折から自給自足の為、母が作れる家より二千米ほどある畠に行く。
狭いながらも、母の丹精の甲斐ありてか種々の野菜あり。
母と共に、半日土に親しむ今日蒟蒻(こんにゃく)の実を始めて見る。

◯八月五日 木曜日 晴
予定の如く行動。
午後 水泳。

◯八月六日 金曜日 晴
予定通り
昼頃、高倉(同郷の士官候補生か?)より約束在りし中学校訪問の葉書来る。
文面に依ると本日十時学校に来し、昼までに済ませて帰る予定なると。
然るに現在は既に十二時なり、明日、余一人母校を訪問するに決せり。

◯八月七日 土曜日 晴
八時頃より母校に出掛ける、十時頃母校着。
全校遊泳演習にて誰も居らず、仕方なく五年の残留者と語る。
十二時頃帰校せるに依り、先生方に挨拶をなす。
余の知れる先生極めて少なし、折から来たりし広幼の生徒に色々話し、十四時頃辞去せり。

◯八月八日 日曜日 晴
大詔奉戴日。
【大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)とは、大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1942年1月から終戦まで実施された国民運動。大東亜戦争(対米英戦争)開戦記念日(1941年12月8日)に「宣戦の詔勅」(開戦の詔書)が公布されたことにちなんで、毎月8日に設定された。】
中学二年次男(私の父親)帰省せる故、種々学問上の指導をなせり。

◯八月九日 月曜日 晴
予定の如く行動。
午後 母と共に畑の草取り。

◯八月十日 火曜日 晴
小学校時代の恩師帰りし由、国民学校に出掛る。
生憎、恩師水泳講習より帰り居らず、校長先生と色々語りなす。
それより在郷軍人の簡閲点呼を見学し帰宅せり。

◯八月十一日 水曜日 晴
予定通り実施す。
帰省の切符を購入せり。

◯八月十二日 木曜日 晴
中隊長よりの課題を答解せり。
帰省準備。
午後 遊泳。

◯八月十三日 金曜日 晴
朝起きると中学校時代の旧友来たる。
彼は今年、東大の国史科を受けしなりと。
色々談じ昼食を友にす。
十三時帰省の途に着けり。

◯八月十四日 土曜日 晴
十時三十分帰校。
十八時より中隊長殿に対し帰校の申告
雄健神社前に奮起を誓う。
【相武台雄健神社(そうぶだい おたけび じんじゃ)/陸軍士官学校の営内神社。戦後廃絶される。】
〈教官の検印あり〉


 

帰省して母親と語らい、畠の手伝いをして、なお弟達の勉強をみて水泳の指導をする。また、母校にて恩師や在校生と語らう。
面食らうほどの品行方正ぶりである—時代背景が違うとはいえ、自堕落で出来の悪い私甥っ子とは雲泥の差である。

興味深いのは、里帰りで列車に同乗した士官候補生たちの車中での騒ぎっぷりを「饒舌は女の特権の如く考え居られるるもその次の饒舌は士官候補生ならん」と批評したり、列車から降りて水飲み場に急ぐ人を「まさに食にむさぼる餓鬼の如し」と、いささか若年将校候補生らしい、頑なな謹直さの一面が出ている部分である。

また、昭和十八年九月八日のイタリア降伏に際しては、次のように記している。



◯九月十一日 土曜日 晴

イタリア無条件降伏の真相。
ファシスト党崩壊の真相も明らかにされたり。
考えふるに此の原因は
一、軍部敗戦主義
二、国民の享楽主義
三、共産党の暗躍
四、米英の宣伝謀略
然して其の責任の大部分はイタリア国民および敗戦主義者にあり、我々は此の現実より我が国内を顧みる必要あり。
我が国は、上に万古不動の皇室を戴き絶対微動だにせざるも、一部不良分子の戦争遂行を妨害し居るは事実なり。
既ち昭和十八年度六月までの経済違反(闇)は二万余件、総人員二万八千人に及ぶ而して之は東京に於いてなり、而して明るみに出たるもののみなり、実際は此の数十倍に上らん。
而して、其の内一万余件は食糧関係なり。
人間の貪欲性を示して余すなし。
食足りて知るとか、かかることにては大国民の矜恃に如何にかある。


 

と、イタリア降伏に憤り、軍人として国内の現状を憂う。

叔父は翌昭和十九年陸軍士官学校を卒業し、同年四月陸軍航空士官学校に入校。
終戦を七ヶ月後に控えた昭和二十年一月飛行訓練中の事故により二十歳三ヶ月の若さで死亡する。

もちろん若くして亡くなったのは叔父だけではない。
相武台陸軍士官学校第五十七期生一二六八名のうち戦没者は七六〇名余り、約六割の若者が戦いの中でそのあたら若い命を失っている。

皮肉なことに、先祖の御霊を祭る盂蘭盆と終戦の日は重なる。
今日のわたしたちの生活は、叔父たちのような当時の若者たちの犠牲の上に成り立っていることを、改めてこの御盆に心静かに感謝したい。

この叔父の『日記』を元にして何かの形にしたいと思っているが、生来の怠け者にとっては何時になるのか分からぬ。

〈雄健神社前に奮起を誓う〉ほかなさそうである。

編緝子_秋山徹