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令和二年 霜降

2020年10月23日

福者の条件

目に見えるものと 見えないもの

 霜降

霜降_野山の草木に霜が降りる候。空は、北から戻るものと、南へ移動する渡り鳥たちで混み合う。

阿波徳島の吉野川に鴨が戻ると、銀杏の葉が黄色に色付いて冬を告げる。

吉野川流域は藍染の蒅の産地であるが、この時期に鴨が戻ると蒅にふとんを着せる。

蒅を一定の温度で醗酵させるために、「ふとん」と呼ばれる〝筵(むしろ)〟を上からと横四方から被せる。
これを蒅作りでは「ふとんを着せる」と呼ぶ。

蒅作り全般を司る藍師は、その日の寒さによって掛ける枚数を二枚三枚と調整して、蒅が冷えないように毎晩気を配らなければならない。「ふとんを着せて」から「切り返し※」を20回から22回重ねて、12月の上旬に蒅はようやく「仕上がり」を迎える。
※「水打ち」—9月下旬から12月上旬にかけて5日目ごとに行われる。木製の「4ツ熊手」で切り「はね」で返し「コマザラネ」で積まれた葉藍を上から下まで、まんべんなく混ぜ返す。「はね」を使いこなすのに20年はかかるという。

そして年が明けて、3月上旬になり燕が戻れば、寒波のぶり返しと遅霜は無くなり、大安吉日にお神酒を祀り苗代に種を蒔く。
阿波の蒅作りは、八百万の自然の営みが教えてくれる。

 福者_ペドロ岐部

まだまだiMACの機嫌が悪く突然落ちてしまうので、本を読む時間が多い。
以前書いた記事の資料で「山田長政」関連の本、江藤淳『史実山田長政』、山岡壮八『山田長政』などを読み返していて、遠藤周作の『王国への道—山田長政—』に登場するペドロ岐部という興味ある人物を再発見した。
遠藤周作にはペドロ岐部を主人公とした『銃と十字架』という作品もある。

ペドロ岐部は、1587年(天正15年)に豊後大分の国東半島の豪族であるロマーノ岐部を父として、宇佐神宮の神官の娘マリア波多を母に生まれ、本名は岐部茂勝(きべしげかつ)という。
岐部一族の本拠地は、宇佐八幡宮の近くにあり現在の住所・大分県国東市国見町岐部に岐部の名が土地に残る。

父ロマーノ岐部は、豊後の大名大友氏の家臣であった。
大友氏はキリシタン大名大友宗麟で有名なように、領主自らが洗礼を受けた領内ではキリスト教が庇護され、布教活動が盛んであった。

キリスト教徒の両親の間に生まれたペトロ岐部は、13歳で島原・有馬のセミナリヨ(神学校)に入学する。
しかし、秀吉による大友家の徐封と江戸幕府によるキリシタン追放令によって27歳の時にマカオへ追放される。

岐部は、マカオで司祭(神父)になるための勉強を続けるが、マカオでは司祭になることが叶わぬことを知り、マンショ小西、ミゲル・ミノエスとともにマカオを脱出し、ローマのイエズス会本部を目指した。

三人はマカオからインドのゴアへは船の下働きとして渡り、ゴアからは岐部ひとりが徒歩でローマを目指した。
その後バグダッドなどを経て日本人としてはじめてエルサレムを訪れながら、ようやくローマに辿り着いたのは出発から3年を経過した1620年のことであった。

文章で記してしまえばたったの二行であるが、この三年の過酷な旅路の艱難辛苦は如何ばかりであったかと忍ばれる。

かつての主君大友宗麟による「天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)」や伊達政宗による「支倉常長」のローマ使節団とは違って物心ともに後ろ盾がなく、自力で東アジアや中東を徒歩で横断した道は過酷を極めた。

砂漠では、ラクダで移動するアラブ商人の商隊の下働きとして帯同し横断してエルサレムに辿り着いている。

ローマに到着した岐部は、イエズス会の本部で審査を受け正式に学ぶことを許可される。
岐部の学ぶ姿は凄まじく、1620年11月15日にはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂において司祭の資格を受けている。

それからさらに二年をローマのイエズス会聖アンドレ修練院での養成を受けた。
その頃日本ではキリスト教徒への迫害が一層強まっており、多くの信者や宣教師が惨殺されていた。

岐部は日本のキリスト教信者たちの精神的支柱となるべく日本への帰国を決意する。

みすみす死ぬために戻るような日本への帰国を、ローマのイエズス会は断念するように諭すが、岐部の決意は固く翻らなかった。
彼はポルトガルのリスボンへ移動し、20人のイエズス会宣教師とゴアに向け船の旅に出る。船は喜望峰を回る航路を取り、翌年の1624年ゴアに無事たどりついた。

しかし、すでに鎖国の政策をとっていた日本には容易に戻れず。ゴア到着から6年目にしてようやくマニラから日本に向かう船に乗り込むことができた。船は難破するもどうにか薩摩の坊津(現・鹿児島県南さつま市坊津町坊)に到着し念願の帰国が叶った。

帰国した岐部は潜伏しながら、激しい迫害と摘発を逃て布教活動を続けた。長崎から東北に移動しながら信者たちを精神的に支えていたが、1639年に仙台で潜伏しているところを密告され捕まった。

江戸に送られた岐部は凄まじい拷問を受けながらも棄教せず「穴吊り」にされた。
「穴吊り」とは底に汚物が入れられた穴に、丸太に括り付けられ逆さ吊りにされて入れられるという拷問で、血が頭に逆流して耐えがたい頭痛が襲う。

この拷問では、その凄まじさに多くの信者が棄教したという。
岐部はその拷問でも棄教するどころか、隣で逆さ吊りにされた信者を励ましたため穴から引き出されて、生きたまま焼き殺された。
1639年7月4日(旧暦6月4日)、ペドロ岐部52歳の壮絶な死であった。

遠藤周作は『王国への道』で、山田長政を現世に王国を築かんとした者として描き、ペドロ岐部をあの世のキリストの王国を目指した者として描いている。

「あの世」と「この世」の違いはあれど、山田長政もペドロ岐部も志は同じくしていたと描くが、「目に見えるもの」のみを信じる長政と「目に見えないもの」を尊ぶ岐部では、岐部の方が豊かであると同じ敬虔なキリスト教徒である遠藤周作は描いているように思える。

異国の地で勇猛果敢に武力でおのが名を残した山田長政、遥か彼方の遠境の地に挑み、そして己が信念のためにまたその道を殉教のために戻ったペドロ岐部、長政には男としてのロマンを感じるが、岐部には人間の真の強さを教わる気がする。

2008年11月24日、バチカンにより「ペドロ岐部と187人の殉教者」は福者として列せられた。

編緝子_秋山徹