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令和二年 処暑

2020年8月23日

ランパーンのマンゴー爺さん

タイの未帰還兵

 処暑

処暑—「野分」は台風の別名で、この時期に野の草木を押し分けて吹いてくる強風を表わす。

八月三十一日は雑節の「二百十日」となる。立春から数えて二百十日にあたり、台風が来襲して田圃に被害を及ぼす時期であるとして農家では嫌った。

この時期に咲く大切な「稲の花」が散らされてしまうことのないように願うばかりである。

また、本日八月二十三日は「地蔵盆」である。
子供たちの守護菩薩である〝お地蔵様〟に対し、この日は子供たちがお礼に、日が暮れてから燈明を灯して果物などの供物をささげ、大人たちに喜捨を乞うた。
関西地方では、現在もこれに近い風習が残るところがある。

もっとも、昔は道標のように辻の角にあった辻地蔵自体が、街の開発などで姿を消しているのであれば、そもそも感謝すべき物自体がなくなってしまっていると云うのが現実である。

子供が虐待されたと云う溟いニュースを聞くにつけ、街に子供を守護すべき地蔵が無くなったことと、あながち無関係ではないような思いがする。

地蔵というのは単なる〝カタチ〟ではあろうが、子供の守護菩薩というものを其処此処で感じ、〝カタチ〟として見ることで、道徳や倫理というものは人の心に空気のように漂うのではなかろうか。

かつて、あれだけ辻地蔵がそこかしこにあったのは、昔の人の優れた知恵であったろうにと想われてならない。

盂蘭盆の時期が過ぎたが、盆になると思い出す人がいる。
彼のドキュメンタリーを撮った映画監督の今村昌平が〈無法松〉と呼んだ藤田松吉という人である。

ランパーンのマンゴー爺さん

その日、タイとミャンマーの国境の街メーソットからチェンマイ方面に250kmほど北に位置するランパーン(Lamphang)という街を目指した。

道連れは、タイで出家した比丘の藤川和尚、案内人のAさん、戦争ジャーナリストのKさんに、そして私と運転手を加えた計五名の道行である。

タイの道路は郊外に来ると途端に荒れる。
道の端は舗装部分とそうでない部分が、波打ち際のように入り組んでいるため、車2台分の幅が確保されていないところもある。また、道の真ん中が窪んでいる箇所も多々ある。

そうなると我らの車は速度を落として、そろりそろりと対向車とすれ違ったり、窪みを避けるなどしてなかなか思ったように距離が稼げない。

折しも蒸し暑いタイの3月の気候は日本から訪れた私には辛く、エアコンの効きも換気も悪い車内に6時間も座れば脂汗が出てくる。

青色吐息の私を余所に、タイ在住の3名と紛争地帯を駆け巡っているジャーナリストは涼しい顔をしていた。

私はそれでも努めて平気な素振りをしていたが、そろそろ限界かという間際、ありがたい事にランパーンの街に入った。

久しぶりに来たという案内人のAさんが、この辺りなんだけれどと、道端の露天商に尋ねると、「あー、マンゴー爺さんね。この先300mの右側」とあっけなく答えた。

教わった辺りに着くと、なるほどすぐに分かるはずで、広大なマンゴー畑が目の前に現れた。

道路に沿った20mほど先の敷地には何やら塔のようなものが見えた。

門を潜って敷地の中に入り、右側にある家屋の中に呼びに行ったAさんと両手で松葉杖を突きながら出て来た老人が、藤田松吉さんであった。

松葉杖は突いているが、上半身は老人とは思えないほどガッチリしている。時折Aさんが手を貸そうとするのを「いらんことをするな」と怒鳴っていた。

初対面の私とジャーナリストのKさんが、本日の御礼と挨拶をした。
藤田さんは、終始つまらぬそうな顔で話をしていたが、土産に持参した「虎屋」の羊羹にだけは相好を崩した。

会話は主に、旧知の仲である藤川和尚がして、Kさんと私が時折質問を挟んだ。

藤田さんへのインタビューは五時間にも及んだ。

インパール作戦の生き残り_未帰還兵三名

今回のこの旅は、太平洋戦争の終戦を迎えても日本に還らなかった旧日本兵の「未帰還兵」の話を聞くためのものだった。

「未帰還兵」の人と交流のあった藤川和尚から取材してみないかと以前から誘われていたのを実現したものだった。
私の他に、藤川和尚に同行して北朝鮮と連合赤軍に取材したジャーナリストのKさんも合流することになった。

まずバンコクからミャンマーとタイ国境の街メーソットに飛び、中野弥一郎さん、坂井勇さんの二人の「未帰還兵」にお話を聞いた。

新潟出身の中野弥一郎さんは衛生兵として、ブラジル出身の坂井勇さんは車両工兵として従軍した。また歩兵で斥候だった長崎出身の藤田松吉さんとこの3人に共通しているのは、あの地獄の「インパール作戦」の奇跡的な生き残りであるということだ。

旧日本軍がビルマ(現ミャンマー)を経てイギリス領インドへの侵攻を図った「インパール作戦」は、大本営・参謀本部の無謀な計画により史上最悪の作戦とも云われる。この作戦で日本兵七万人の命が失われた。

「インパール作戦」では特に兵站の計画が杜撰で、ろくな食糧と物資の補給も無い中で侵攻したあげく、敗走に敗走を重ねた日本兵は、そのほとんどが飢餓とマラリアに苦しんで命を落とした。

日本兵が敗走した路にはその屍が死屍累々と連なり〈白骨街道〉と呼ばれた。

衛生兵として兵の手当てに当たっていた中野さんは、多くの戦友の死際に接し言い様のない無常感に襲われた。自身も負傷した後は他人の治療どころではなく、逃げおせるのに精一杯であった。

ブラジル出身の坂井さんの方はもっと複雑である。
ブラジルに渡り成功を収めた坂井さんのお父さんは、息子に日本の故郷を見せてやろうと、ふるさとの福井に一時帰国した。その際、徴兵検査が実施されていたので記念にと息子に受けさせたところ、これに合格したのは良いが、なんとそのまま徴兵されて朝鮮半島に送られてしまった。
日本語もろくに話せない坂井さんは、日本人では無く外国人のような酷い扱いを受け軍隊では大変苦労したという。
その後、インパール作戦に投入され、やはり命からがらの敗走の末、中野さんと同じ捕虜収容所に収容される。

終戦を迎え、やがて捕虜は日本へ送られるという時になって、中野さんと坂井さんは収容所から脱走する。
そして、日本兵狩りから逃れて現地民の村から村へと逃走、やがて落ち着いた村で、双子の娘をそれぞれ嫁にもらいタイ人として暮らす中で、最終的に国境の街メーソットに落ち着き、互いに農業と商売で成功した。両家族の子供たちはチェンマイ大学に進むなどして優秀で、双子の奥さん共々幸せに暮らしている。

坂井さんにとってブラジルは遥かに遠く、軍隊での扱いも相まって日本は祖国とは言い難たく、日本に還らなかったというのはなんと無く想像できるのだが、中野さんがなぜ日本に還らなかったのか、その理由は想像もできず、何度お聞きしても教えていただけなかった。

中野さんの家にも、坂井さんの家にも、昭和天皇の御真影が飾ってあるのが印象的であった。

お二人に況して藤田松吉さんの運命は数奇なものだった。

白露の後編に続く

編緝子_秋山徹