令和二年 秋分
彼岸つれづれ
七橋めぐり
秋分
秋分/彼岸—曼珠沙華の咲く頃、昼と夜は真半分になる。
そしてこの時候の10月1日は「十五夜/仲秋の名月」である。
「仲秋」というのは中国渡来であるが、これが日本では農耕神崇拝と相まって「お月見」となった。
団子や笹(酒)をいただきながら「月」を愛で、歌を詠むと言うのは貴族の遊びであるが、庶民も倣って「月」を閑かに愛でる—あくまでも閑かにと言うのが秋の月見の作法である。
当然、俳句や短歌にもこの「月」を詠ったものは多い。
詠人知らずでありながら、
「月々に 月見る月は 多けれど 月見る月は この月の月」
の歌は、誰もが知るあまりにも有名な歌である。
松尾芭蕉にも
「十六夜(いざよい)は わずかに闇の 初めかな」
という句がある。
十五夜の満月は徐々に欠けていき、新月の闇となる。
その第一歩が満月の次の夜の十六夜である。
まだ満月がほんの少し欠けただけの、ほぼ満月の十六夜に闇の訪れを見る。
日本の季節の移ろいの楽しみ方が凝縮されたような句である。
西洋人は自然と対峙して、これに打ち勝ち制覇しようとするが、東洋人・特に日本人は自然とともにあり、自然に生かされていると考える。
そこに「草木国土悉皆成仏」という想いが生まれ、人間を取り囲む自然の季節の移ろい「雪月花」を初めとする風景やものを愛でることを大切にしてきた。
それが二十四節気であり七十二候でもあるだろう。
世界一短い文学といわれる俳句が生まれた土壌も、日本人のこの特性にあるのだろう。
もうひとつ月を詠った歌で有名なものに
「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」
こちらは安倍の明恵夫人ならぬ明恵(みょうえ)上人の歌である。
明恵上人
明恵上人は、華厳宗中興の祖といわれる僧で、建永元年(一二〇六)、京の栂尾(とがのお)の地を後鳥羽上皇から賜り「高山寺」を開山した。
若き日の修行では、釈迦への想いと求道(くどう)心から右耳を切り落としたとされ、インド渡航を二度にわたり試みもしたという。
仏の道だけではなく、多方面にその才を発揮し、特にお茶に関する貢献は高く、日本のお茶栽培の始祖ともいえる。
「栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にあった。中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房十無尽院(じゅうむじんいん)があった場所と考えられている。現在も、5月中旬に茶摘みが行われる。」(高山寺公式HPより)
明恵上人はその後宇治に茶の木を移植し、宇治の銘茶はこれに端を発する。
このように日本のお茶は禅寺から始り、やがて一休禅師の大徳寺の村田珠光から武野紹鴎へ、そして千利休という流れの中で茶道として確立されていく。
また上人は美術工芸品の収集にも力を入れ、よく知られる国宝「鳥獣人物戯画」は高山寺の所蔵品であり、寺には他にも国宝が6点、重要文化財が多数納められている。
また歌人としても知られ、明恵歌集を残しており、「あかあかや—」の歌も収められる。
この「あかあかや—」の歌は、禅僧らしい自由で闊達な作風で、「あか」という言葉を十二回使ったあと「月」と納め、余計な言葉を一切使わずに名月を表した「禅語」のような歌である。
この「あか・や・月」のみを使った歌が文学として成立し、八百年以上も愛されるというのは、日本人の為せる技であろう。
七橋めぐり
さて、彼岸である。
北陸の古都金沢には、彼岸の中日の深夜に行われる「七橋めぐり」というものがある。
金沢市内には二つの川が流れるが、小立野と寺町を緩やかに川幅広く流れる犀川を「男川」、主計町などの古い街並み沿いを川幅狭く蛇行して流れる浅野川は「女川」と呼ばれる。
彼岸の中日の午前零時、この「女川」浅野川の橋を上流より「常磐橋・天神橋・梅ノ橋・浅野川大橋・中の橋・小橋・昌永橋」の順に願をかけながら七つ巡るのである。
この「七橋めぐり」には決まりがあり、橋を巡っている最中に決して言葉を発してはならず、また振り返ってもならない。
この「七橋めぐり」を題材とした小説に、金沢で小説家としてのデビューをした五木寛之の『金沢あかり坂』という作品がある。
主人公の凛はこの「七橋めぐり」の際に、転びかけた子供を助けようとして思わず言葉を発してしまう。
そして、これが好きな男と結ばれないことを暗示する。
好きな男と別れた凛は、のちに主計町(かずえまち)で芸妓となる。
金沢には三つの茶屋街、ひがし茶屋街、にし茶屋街とこの主計町茶屋街がある。
浅野川沿いの主計町茶屋街の主計町という町名は、一九六二年「住居表示による法律」により一旦消滅する。
この法律は東京オリンピックに向けて、住所表示を簡潔化しようという国の方針だったようだ。
東京で開催されるオリンピックが理由で、北陸石川の古都の住所表示が変えられるというのは訳がわからないが、これにより全国の旧町名の多くが失われた。
たとえば、我が『麻布御簞笥町倶樂部』の麻布御簞笥町という町名もそうであるし、麻布長谷寺の斜向かい高樹町に隣接してあった「麻布御掃除町」なんていう素敵な町名が失われていった。
主計町の町名は二十九年後の一九九一年に市民の運動により復活したが、これが全国で初めての旧町名の復活となり全国的に話題となった。
東京オリンピックに向けて備えた高速道路を、あろうことか日本橋の真上に架けた感性といい、日本の役所はなぜこうも無粋なのであろうか。