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令和二年大暑

2020年7月22日

人知を超えて

喰らう

 大暑

大暑—大いに暑いはずの時候であるが、今年はさほど暑さが厳しくはない。これから先は分からぬし、もしかしたらこの数年のこの時候の暑さが酷すぎたのかもしれない。

過去3年のこの時期の私のブログなどを振り返ると、

昨年は記録的に曇りの日が多く、一ヶ月の日照時間の合計が三〇分しか無かったとある。

一昨年の平成三〇年の土用には、ここは日本かという暑さの中、銀座を能登上布で歩いてヘロヘロになったと記している。

コンチキチンの祇園祭の最中、京都にいた三年前には36度の酷暑の中、八坂神社に「厄除け粽」を貰いに行き、これまた着ていた能登上布のシワ以上にヨレヨレになり、ホテルの水風呂に飛び込んでいる。

二年前と三年前は日本とは思えぬ異常な暑さが続いたが、昨年と今年は曇天の日が多く日照時間が短くて、農作物に影響が出ている。

一体どれが、日本の夏の姿だか分からない。
夏の基準・スタンダードというものが判断つかなくなってしまった。

京都祇園祭といえば、今年は疫病のせいで宵山や山車の巡行が、博多の祇園山笠、大阪天神祭と同様に中止になってしまった。

都市の夏祭りは、五穀豊穣を願い豊作を祝う農村の秋祭りとは違って、高温多湿の夏に蔓延する疫病をもたらす悪霊を祓うために行なわれるものである。

それが、疫病のために中止となるのは、本末転倒の気がしてならぬ。

本来、人間の治癒力というものは精神や意志、心の持ちようによるところが大きいと考える。

自粛も結構だが、疫病予防と称し何でもかんでも中止して、人としての生きがいや楽しみを奪うことが、決して健全で健康的だとは思わない。

人間というものは肉体のみで成り立つものではない、精神というものの方が人の健康には、はるかに大きな役割を持っている。

昔から伝わる祓いの儀式としての祭りには、特別な力があるからこそ連綿と続いてきたのである。
祭祀とはレジャーや娯楽イベントではないことを知るべきだ。

 人知を超えて

まだまだ人知の及ばぬ事柄が世の中にはある。
たかだか何世紀かで発展した科学には解明できないことを、われわれは守ってきたのだ。

たとえば、農業の中心が稲作である日本では、むかしから雷が落ちた田圃には〝しめ縄〟を張り巡らせて特別なものとした。

これは、長らく迷信とされてきたが、雷が起こった周りでは窒素が発生し、これが肥料として雨に混じって田圃に降り注ぎ栄養を与えること、また雷は周囲にマイナスイオンを発生させ、あたりを広範囲にわたって殺菌し悪玉菌を殺すことが、近年、科学で解明されている。

雷が落ちれば、稲が肥え、悪い菌を殺して周りの田圃にも良い影響を与えることを、そのメカニズムを抜きにして昔の人は知っていた。
だからこそ、しめ縄で囲って神からの恵みである雷(神鳴り)に感謝をしたのである。

科学は迷信を後追いしているに過ぎない。
科学者が迷信と嗤っていたものに、実は科学的根拠があることを今更ながらに認識しているだけである。

 脱『新しい生活様式』

これまでこのコラムでは、極力「コロナ」という言葉を使うまいと心掛けてきた。
皆さん、日常であまりに耳にし、目にして辟易とされているだろうと考えたからである。

しかし、ここで一度だけ「コロナ」という文言を使う。
それは政府が発表した『新しい生活様式』とやらに、ひと言、もの申したいからである。

以下は厚生労働省のHPから引用したものである。

○新型コロナウイルス感染症専門家会議からの提言(5月4日)を踏まえ、新型コロナウイルスを想定した「新しい生活様式」を具体的にイメージいただけるよう、今後、日常生活の中で取り入れていただきたい実践例をお示しします。
○以下の例を参考に、ご自身や、周りの方、そして地域を感染拡大から守るため、それぞれの日常生活において、ご自身の生活に合った「新しい生活様式」を実践していただければ幸いです。
※ 感染状況の変化を踏まえ、専門家会議の構成員にも確認いただき、6月19日に一部の記載を変更しました。

と、HPでは『新しい生活様式』の紹介があり。

その中の「(3)日常生活の各場面別の生活様式」【買い物/娯楽、スポーツ等/公共交通機関の利用/イベント等への参加/食事】という項目の【食事】に、

□対面ではなく横並びで座ろう
□料理に集中、おしゃべりは控えめに

食卓では横並びに座り、夫婦や家族、恋人とのコミュニケーション・繋がりを避けろ、とある。

ちょっと待っていただきたい。

私たちは人間であって、養鶏場あるいは養豚場で餌を与えられている鶏や豚ではない。
人の食事とは、単なる栄養補給の餌の時間ではないはずだ。

食事とは、夫婦や家族、恋人など他の人間とのコミュニケーションがあって一層味わい深くなるという、日々享受することのできる人生の楽しみのひとつである。

コミュニケーションは、和気藹々としたものだけでなくとも、議論を戦わせたり喧嘩となることもあるだろう。しかし、それも人生にとって必要な要素の一つである。

これを正しく身をもって子供に伝えるのが、親そして大人たちの務めではなかろうか。

連日、政府やマスコミが喧しく連呼する「ソーシャル・ディスタンス(—これは正しい英語表現なのだろうか)を守り人前ではマスクをしましょう」という事とは次元の違う話である。

人としての生き方の様式の根本的な、もっといえば哲学的な問題なのである。

伝染病予防の専門家からすれば、なるべく人と接触されない方が、それはよろしいであろう。

しかし、こう提言している専門家の人間たちは、実際におのれの家庭で家族と横並びになって座り、会話する事なく養鶏場のブロイラーよろしく食事を黙々と食べているのであろうか。

1983年、本間洋平の原作を松田優作主演で森田芳光が監督し公開された『家族ゲーム』という映画があった。
この映画の中で家族が一列になって食事をする場面があり、その気持ち悪さが当時話題となった。

ギクシャクした家族の関係を象徴する演出としては、とても効果があったと思っていたが、37年後にまさかこの食卓を冗談でなく真剣に政府から推奨されるとは予想だにしなかった。

私が、齢を重ねて想うことは、〝不味いものを喰っている暇はない〟〝無為な時間を他人から強要されるのは御免蒙る〟と云う事である。
強がりではなく、気のおけない人たちと楽しい食事をして感染したならば、私はそれで結構であるし、何の後悔もしない。
私の考えが浅はかであると云う人もいるだろう、それでも私は良い。

とにかく感染をしないために、国民に人としての生活の楽しみをを捨てろと平気で言う、政治家・役人たちのその神経が私には理解できない。

これが真の意味での〝コロナ禍〟ではなかろうかと最近私は想っている。

We all make mistakes no matter how old we are.
What’s important is what you learn from them. _Tony Bennett
いくつになっても私たちはみな間違いを犯す。
重要なのは そこらから何を学ぶかである。—トニー・ベネット

 

編緝子_秋山徹