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令和二年 冬至

2020年12月21日

食べ物の嗜好

冬がくれば思い出す

冬至

冬至—身の縮籠る季節の到来である。
朝起きる時の辛さはどうだろう。
目覚ましを止め、一晩かけて温めた布団を染み染みと愛でていて、二度寝に落ちることが何度も起こるこの季節。
特に意志の弱い私なぞは、編集の締め切りやHPの更新など、どうしてもイヤイヤ起きなければならない理由がない限り、この誘惑に易々と嵌ってしまう。

そしてこの時期の大いなる楽しみに熱燗をちびちび呑ることがある。
45年ほど前の私が酒を呑み始めた大学生の頃は、若者が呑む酒といえばウイスキーであった。
皆、安いサントリーレッドを吐くほど呑み、たまに気取って角、オールドは滅多に飲めぬ高級品であった。
ジョニーウォーカーなんて赤でさえ棚に飾る高級輸入品で大学生にとっては垂涎の的であった。
この日本酒離れの時代に私はウイスキーもよく呑んだが、日本酒それも熱燗が好きであった。
仲間には〝爺くさい〟、女の子には〝ダサい〟と云われたが、構わず呑み続けた。
今では立派な爺であるので、心置きなく呑れるのが嬉しい。

そういえば天邪鬼な私は、他の大学生が皆飲んでいた珈琲が嫌いであった。
特にブレンドに水を足して薄めただけのアメリカンなんて死んでも飲みたくなかった。
さらにアイスコーヒーはもっと嫌いであった。
この二つは現在でも嫌いで苦手である。
皆でたむろする時、並ぶコーヒーをよそ目に私は必ず違うものを注文した。
行きつけの喫茶店にわざわざ日本茶の茶葉を持って行って、専用に淹れてもらってもしていた。
私の日本茶好きは、ここでも〝爺くさい〟と云われた。

後年、イタリアに行くようになってエスプレッソは好きになった。
あの濃縮された耽美な香りは良い。
私の好きな飲み方は、まず最初に砂糖をカップの底に入れてからエスプレッソを抽出して、暖かいミルクをほんの少しシミ(マッキアート)のように垂らした〝エスプレッソ・マッキアート〟。
イタリアに行かれたことのある方ならご存知であろうが、イタリアのバールでエスプレッソ・マッキアートを注文すると、砂糖は抽出の前に入れるか後か、ミルクは温かいもの(カルド)か冷たいもの(フレッド)かを聞かれる。
これが、たっぷりのミルクの中にエスプレッソをシミのように入れた〝ラテ・マッキアート〟やお馴染みの〝カフェラテ〟〝カプチーノ〟などでもイタリア人は人それぞれの飲み方を持っている。
百人いれば百通りの飲み方があると云って良い。
常連一人一人の飲み方を知っていないとイタリアのバールのカウンターは務まらない。
ちなみに〝カフェラテ〟や〝カプチーノ〟などのミルクが多いものは、朝バールでブリオッシュなどと朝食がわりに飲むもので、レストランなどで食事の後にオーダーすると〝まだ食い足りない〟という意味になるので注意が必要である。
最も日本国内のイタリアレストランでは文句も云わずだしてくれるので心配は無用であるが。

とまれ、熱燗である。
熱燗の肴といえば〝おでん〟である。

竹輪麩

大学受験の際に上京した私は、旅の疲れと連日の試験とで夕方からホテルで寝入ってしまい、目を覚ますと十二時を越していた。
泊まっていた池袋のホテルは駅の西口にあり、見たこともない大きなビルが建築中の辺りは、その日の工事が終ってしまうと暗い街が広がっていた。
そのビルが完成されると、当時では日本一高いサンシャインビルとなると後で知った。
夕食を食い逃した私はひどく空腹であった。
とりあえず寒い中ホテルを出て、街を彷徨った。
十分ほどして屋台のラーメンという赤提灯が見えたので、喜び勇んで暖簾を押し「ラーメンください」と注文した。
やがて屋台のオヤジが赤いどんぶりを目の前に置く。
私は中を凝視した。
薄茶色の汁の中に見たこともない黄色い縮れ麺が入っている。
上にはナルトとシナチクと薄っぺらなチャーシュウが乗っている。
思わず「これなんですか?」と聞いた。
オヤジは私を睨みながら「ラーメンだよっ」と吐き捨てた。
「えっ、これが!」と呟いてしまってから、親父の顔を見ずに食べた。
初めての東京のラーメンは不味かったというか戸惑った。
九州の小倉で育った人間にとって「ラーメン」は、ストレートでコシのある細麺が白濁したコテコテの豚骨の汁に入っているもののみを意味した。
当時の小倉のラーメンの屋台は、その強烈な豚骨スープの香りで〝ああ今日も店が出ているな〟と冗談でなく50メートル手前からでもわかった。
有名な博多の中洲の屋台よりも小倉の方が豚骨スープの匂いは強烈な気がする。
小倉のラーメンの屋台では、ビールも日本酒も酒類は一切置いていない。
ラーメンとおでんと、そして何故かぼた餅が山盛りに盛られていた。

納得いかないまま、私にとっては〝ラーメンもどき〟未知の麺類を啜っていたが、まだまだ腹が減っていたので炊かれている〝おでん〟の具を見廻した。
と、ある具に目が止まった。
〝灰色掛かった茶色のナルト〟がある。
ブサイクである。
よく見ると穴が開いているのでナルトではなさそうだ。
だがしかし竹輪の軽やかさもない。
とてもブサイクである。
今度は恐る恐るオヤジに聞いた。
「これなんですか?」
オヤジは先ほどにも況して私を睨みつけながら
「チクワブだよっ!」と再び吐き捨てた。
「チクワブ」と私は小さく呟き「なんだそれっ!、東京の屋台にはブサイクなものばかりだな」と頭の中で独り言ちた。
私はこのブサイクなものを避けて、玉子と大根とコンニャクを頼んで腹を満たし屋台を後にしたが、勘定が済んでもオヤジは「ありがとう」の一言もなく私を送り出したのであった。

やがて大学生となり東京の生活に慣れた私は、あの夜のラーメンが〝東京の醤油ラーメン〟で、あの〝チクワブ〟というブサイクなのが東京のおでんの具としてはポピュラーなことを知った。

〝東京の醤油ラーメン〟に関しては、その後、旨い店を紹介してもらったりして、認めざるを得ないが、戦後の物がない時代に小麦粉を練って竹輪の代用とした貧乏くさい〝竹輪麩/チクワブ〟は、未だに認めることができない。

新鮮な魚が豊富で旨い竹輪を食い、おでんにも入れていた地方の人間には〝チクワブ〟という具が不思議でしょうがない。
東京の人間は、〝チクワブ〟が入らぬおでんは考えられぬというが、炊くほどにおでんの出汁を濁し味を曇らせる〝チクワブ〟を入れる理由が私には分からない。
素晴らしく美味しいというのなら理解できるのだが、東京の人間も味が理由ではないらしいところが感じられる。

昭和歌謡のコラムを執筆いただいている東京蒲田育ちの勝沼さんと〝チクワブ〟論争となったことがある。

本当に〝チクワブ〟は東京おでんに外せないものなのか、百貨店の食品売り場で確認してみようということになり、まず最初に『銀座松屋』に突入し「チクワブはあるか」と尋ねると、食品売り場の担当者は「松屋は創業以来チクワブは扱っておりません」という江戸の正統派百貨店らしい毅然とした態度で答えた—戦後の物の無いドサクサで生まれたエセ江戸前など売らぬという態度が素晴らしい。
次の『銀座三越』の食品売り場では、紀文の売り場に〝チクワブ〟は申し訳なさそうに売られていた。これは、伊勢丹と統合するなどして江戸の百貨店の矜持を無くした証拠であると推測した。

それでは「おでん専門店」ではどうだとうことで『銀座お多幸』に云ったらあっけなく品書きにあった。

なんだか引き分けのような感じに終わり、今日に至っている。

これは、食生活は生まれ育った環境に大いに左右されるという証であろう。

私たちが子供の頃は、大人の一杯呑みのではなく「子供相手のおでん屋台」が毎日来ていた。
太めの竹串に「コンニャク・ガンモ・ナルト」が刺されたものが五円であったと記憶している。
これに玉子とジャガイモだかが追加されて刺されたものが十円であったと思う。
まさに赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』で走り回るチビ太が手に持つ「串に刺さった三角・丸・長方形(円筒)のおでん」がそれである。
チビ太が持つおでんの長方形(円筒)は、ナルトであってチクワブでは決して無い—赤塚不二夫がそう記しているのであるから間違いはない。

『おそ松くん』でのチビ太は戦災孤児で近くの空き地に住み逞しく生きる浮浪少年という設定である。

逞しき浮浪少年の掲げるチビ太のおでんに〝チクワブ〟は刺さらぬ。

というわけで我が家は今夜〝おでん〟である。
東京育ちを敵に回してしまうようだが—当然〝チクワブ〟は入らぬ。

あっ!スコッチバンクの続編を書くのを忘れてしまった—〝チクワブ〟の呪いか。

編緝子_秋山徹