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令和三年 大寒

2021年1月20日

火事場と本能

馬鹿力と泥棒

大寒

大寒—寒さが本格的な時期となった。
北陸・東北では記録的な積雪となった。
雪には十分な対策が取られているであろう雪国の高速道路が麻痺して千台以上の車が立往生したと云うのだから、その激しさがわかろうと云うものだ。
雪のため学校が十日間休校になったところもある。

毎年日本や世界の至る所で、記録的豪雨、記録的積雪という類の異常気象の言葉が踊る。
極め付けが、昨年から世界中に蔓延する未曾有の「疫病」である。

今年の大寒の末日二月二日は節分にあたる。
節分に豆を打つのは、新春を迎えるにあたり「魔滅(まめ)」の語呂で豆によって鬼や悪霊、災いの魔物を滅するという思いが込められている。
今年こそ思いっきり強く豆を打ちたいものである。
しかし、齢を重ねた今、数え齢の数だけ豆を食べたら腹が膨れて苦しくなってしまう。

世界がこういう状況にありながら声高に〝終末論〟〝終末観〟を唱える者は少ない。
人は本当に苦境に立たされた時には、余計なことは考えない。
本能とはそういうものなのだろう。

ニーチェの箴言(しんげん)に
「本能——家が火事の時は、人は昼食をすら忘れる。されど、灰の上に座って食べなおす。」『善悪の彼岸』
というのがある。

火事場

哲学者の言葉でなくとも、日本には人は窮地に陥ったり、切羽詰まった場面では思わぬ力を発揮するという例えで〝火事場の馬鹿力〟という俗な言葉がある。
私は小学校三年生の時に、実際にこの言葉通りの場面を目撃したことがある。
その夜、私は夜半にけたたましいサイレンの音で目を覚ました。
布団から体を起こすと、親父、母親、妹はすでに起きていて最後に目を覚ましたのが呑気な私だった。
サイレンは尋常でない大きな音を響かせ続けていた。
消防署が私の家から百メートルほどのところにあったので、近くで鳴っているせいで大きいのかと思ったが、そうではなかった。
火事場が近ければ近いほどサイレンの音は大きいらしい。
親父が外に様子を見に出かけたと思ったら、すぐに戻ってきて「早く外に出ろ!」と怒鳴った。
まだ寝ぼけている私は、寝間着のまま枕を持って外に出た。

あたりが昼間のように明るく、大勢の人がいた。
明かりは、消防車のライトなど人工的なもので不健全な明るさだった。

なんと我が家の三軒隣までの向こう三軒とビルから大きな火柱が立っていた。

その頃の我が家族は駅前商店街の一角にある元々旅館であった借家に住んでいた。
二階は近所の美容院のお姐さんたちの寮になっていて、そのお姐さんたちも外に出てきていた。

商店街の入り口にあったビルの居酒屋が出火元のようで、その火が次々に燃え移り、ビルから三軒目の靴屋から大きな火柱と黒煙が立ち上っている。
比較的大店の靴屋であったので、運動靴などに使われた大量のゴムなどが火の勢いを一層強くしたようであった。
靴屋の隣の小料理屋には今にも火が燃え移りそうで、消防車がしきりに壁に水をかけて延焼を防ごうとしていた。

そんな中、小料理屋の入り口から大きな箪笥がひとりで出てきた。
ギョッとしたが、良く見ると箪笥の下に小さなオバさんがくっついていた。
オバさんがあまりにも小さいので箪笥がひとりで出てきたように見えたのである。
なぜこのオバさんが—というほどその箪笥は大きく、一方オバさんは本当に小さかった。

慌てて、親父と近所のおじさん連中が駆け寄って箪笥を運んだが、男四人でもかなり辛そうに持っていたこの箪笥を小さなオバさんが一人で背に運んで出てきたのに、私は火事よりも驚いた。

また家に入ろうとするオバさんに、消防士は「止めろーっ」と怒鳴り、親父やまわりの男たちがやっとの思いで止めた。

やがて火は小料理屋に燃え移り、店兼住居の家屋は紅蓮の炎に包まれた。
オバさんはその場に泣き崩れていた。
大人があんなに泣くのを初めて見た。

小料理屋から二軒隣りの我が家は、すぐ隣りの家との間にあった路地が幸いし壁が少し焦げた程度で延焼を免れた。

もっとも小料理屋に火が移った時点で、私と妹と母親は近所にあった祖父母の家に避難していたので、我が家が無事であったのを知ったのは翌朝のことだった。

当時、枕が変わると寝られなかった私は、寝間着のまま枕を抱えて行き祖父母の家に着いて布団が敷かれるとすぐに寝た。
火事を見て興奮するというよりも、夢か現かの区別がついてない夢見心地であった。
真面目な妹はランドセルを、母親は貴重品を持って祖父母の家に行ったように思う。
親父は現場に残った。

翌日、親父にもっとましなものを持って行けと拳固を喰らい、昨夜は何も言わなかったくせにと不満だったが、今思えば親父も相当慌てていたのだろう。

まだ煙が立ち込める現場では、焼けたゴムの匂いが鼻をついた。
消防士や消防団員が現場を整理している。
靴屋の前には経営者が椅子に座って呆然と燃えかすのような店を見つめていた。
皮肉なことに靴屋の経営者は消防団長だったので、消防団の火消し半纏をまとって床几のような小さな椅子に座るというよりはへたり込んでいた。

燃え落ちてしまった小料理屋のオバさんの姿はなかった。
靴屋に比べて小料理屋の焼け跡はちんまりとしたものだった。

やがて、無事であった我が家に次々と人が来て「火事見舞い」という熨斗がついた一升瓶が並んだ。
焼けてなくてもお見舞いに来るんだ、大人は大変だなと小学三年生は思い。
日本酒の一升瓶ばかりでつまらないな、ひとりくらい菓子折りを持って来ればいいのにと腹立たしくもあった。
時代はまだまだ付き合いの中心にあるのは男の世界であった。

後に靴屋は駅により近い場所に3階建のビルを新築して前よりも大きな店舗を構えた。
開店時には大々的なセールを催して多くの人で賑わった。

小料理屋の跡地は長らく空き地であったが、立ち呑み兼酒屋〝角打ち〟の店ができた。

私に〝火事場の馬鹿力〟を身をもって見せてくれた小料理屋の小さなオバさんのその後はわからない。
私が〝火事場の馬鹿力〟という言葉を学校で先生から習ったのはもっと後のことになる。

小学校三年生の私がこの時〝火事場〟で目にすることが無くて本当に良かったなと思うのは〝火事場泥棒〟である。
こんなに悲しくて最低な行為を子供の頃に目の当たりにしていたら、その後大人に対してどれだけ不信感を持ったことだろうか。
幸いにして火事の際に隣近所に泥棒に入られたという家はなかったというのを母親と近所の人の会話で偶然聞いた。

それまで当然〝火事場泥棒〟という言葉も知らなかった。
この意味を知ったのも後々のことである。

同じ犯罪でも人の苦境や弱みに付け込んでというのは人として最低の行為である。

これを書いていて、そういえば昨年これに相当する輩がいたのを思い出した。
〝○〇〇マスク〟が配られた時、また、助成金の申請受付業務に関して多額の税金が大手広告代理店を経て怪しげな会社に流れていたという実態が披瀝された。

汗を掻き大変な思いをしている医療従事者を横目に、右から左へ物を動かすだけで多額の税金を掠(かす)め取るブローカーまがいの輩、これを〝火事場泥棒〟という。

こういう〝火事場泥棒〟というのが最も卑しいと思うのだが如何であろう。

編緝子_秋山徹